第六話 名づけ
紅葉、と言った瞬間に、周囲の圧力が変わったのが分かった。
ぶわっと突風が吹いて、安里は思わず目を閉じた。風の中心にいるのは紅葉だ。それは分かったが強すぎる風に目を開けることができない。
安里が目を閉じた直後に、花幻が掛けてくれた風の守りの術が展開した。薄桃色の気配を纏った風が安里の周囲を覆い、暴風を和らげてくれる。
なされるがままに煽られ、乱れた銀髪を手櫛で整えながら、いくつもの水滴がばしばしと音を立てて結界に当たっては消えていくのをぼんやりと眺めていた。温泉が風に巻き上げられているようだ。そして耳には多くの精霊たちの戸惑いと叫び声が届く。小さくて弱い精霊が突風で飛ばされていくのをどうしようもなく見送る。
しばらくたって唐突に風は止み、安里を守る花幻の結界もゆるゆると消えた。どこか別の世界へ行っていたような不思議な感覚に捕らわれていた安里は、ぶんぶんと首を振って目を擦り、辺りを見回した。
乳白色の温泉はそのまま、ごろごろした岩もそのままだ。だがその水面には赤や橙に染まった様々な形の葉がたくさん浮いていた。
歩いてきたときは緑の山だったはずだ。さっきの突風で他の山から飛んできたのだろうか、と顔を上げた安里の目の前にあったのは。
一瞬前までは緑がざわめいていた山の木々が、秋もまっさかりの赤や黄色、橙の葉を揺らしていた。温泉の周り中の木々が、一斉にその身に纏う色を変えてしまったのだ。あまりに圧倒的な迫力と目に痛いほどのその赤と黄の色彩に、安里はまばたきをすることしかできない。
「……あんり」
ぽかんとする安里の耳に、聞き覚えのある高い声が聞こえた。そして誰かが自分の浴衣の裾を引っ張っている。その方向に首をめぐらした安里は、更なる驚愕に顔を引きつらせた。
「な、な、お前……! まさか……!!」
「あんり、名前ありがとう。嬉しい、素敵な名前」
にこっと笑ったのは前歯の抜けた間抜けな女の子ではなく。
年のころは十五、六。赤みがかった茶色の髪は腰の辺りまで伸び、すらりとした四肢と白い肌を晒している。幼児の面影のない、すっと通った鼻筋に、桃色の唇。大きく零れるような瞳はそのままだが、無邪気さが落ち着きに変わっている。言葉遣いさえもさきほどまでの舌足らずさが消え、少し流暢になっていた。
「……うーわー、名づけでここまで成長するとは……」
紅葉を見て固まってしまった安里の隣で、金色の長い髪を乱れさせたままの飛飛があごに手を当てて感心するように呟いた。そして安里の肩を叩き、深いため息とともに首を振った。
「うーん、アンリ。これは困ったことになったねぇ。いかに風の大精霊とは言え、あたしの手にも負えないわ」
「……どういうことだ、飛飛」
安里にもなんとなくの予想はついていたが、口に出して確かめるのも怖くて飛飛の言葉を促す。名づけるうんぬんの話は、元はといえば飛飛が言い出したことなのだからと、じとっとした目で見つめる。
「……この子は……、紅葉は……」
さっきまでのほろ酔い加減もどこへやら。豪気で陽気な飛飛は身を潜め、今は眉を顰めて冷や汗すらかいている。飛ばされてしまっていた精霊が無事帰還したりなどして湧き上がる、周囲の精霊たちの暢気な歓声も飛飛の緊張をほぐせない。
飛飛はざわめく周囲の喧騒から隔絶したように、らしくなく口元を引つらせていたが、はっと気を取り直したように大げさに首を振り、手をぱたぱたと仰がせた。
「あー、いや、うん。言わないでおこう、ね。アンリ。あえてね」
その白々しい態度は本来ならば問いただしたいところなのだが、“大精霊”と自ら認めた飛飛がこうまでうろたえているという事実が、逆に安里の予想の正しさを裏付ける結果になった。恐らく飛飛と安里は同じ考えに行き着いている。だからこそ口には出せず、飛飛はしきりに安里に視線を遣って合図してくる。
ごくり、と唾を飲み込み、自分達の間に流れる空気を敏感に読み取った安里は、すかさず飛飛に同調し軽い調子で言った。
「……ああ、そうだな! あえて、な。うんうん」
ははは……と感情の伴わない乾いた笑い声を上げる二人を、台風の目となった当の紅葉は、きょとんとして首をかしげて見上げていた。
「……あんり、ふぇいふぇい。どうしたの?」
自分が何者であるか、分かっていないその様子に、飛飛も安里もうまく笑えずに空を仰いだ。
いつの間にか空は紫紺の幕に星星を湛え、ひっそりとした月明かりが精霊たちの様子を照らしている。
濡れた浴衣を纏っていた安里はすっかり冷えてしまって、ぶるりと身を震わせて飛飛を見、ふと気づいたように足元を見つめてそのまましゃがみこんだ。一連の騒ぎの中でどこにいるのかを一瞬忘れていたが、安里達は未だに山の中の秘湯にいるのだ。飛飛も紅葉も、安里につられて湯に浸かった。
安里は隣で湯に浸かった紅葉に目を遣り、すっかり伸びてしまった赤茶色の髪が水面に広がるのを見て、その頭を撫でた。紅葉は安里に触られるのが嬉しいらしく、安里の手に擦り寄るように顔を傾けてきた。その様子に安里は苦笑したが、内心はどうしたことかと大きなため息をついていた。
ちらりと飛飛を見れば、紅葉を挟んで向こう側で彼女は秀麗な顔を歪ませ、いまだに苦い表情を隠せずにいた。
小さな動物のように擦り寄って来る紅葉をそのままに、安里は唐突に飛飛に質問を投げた。
「……飛飛、あなたはどのくらいの年月を存在している? 大精霊と言っていたな、おおよそ千年以上か?」
安里の質問の意図が分からないまま、飛飛は素直に答えを口にする。
「は? ああ、ええと……正確に数えてはいないんだよね、なにしろずいぶん長いこと過ごしているし、人間の数えでは……。ああ、確かあれだ、ほら、あそこの木。見える?」
飛飛が指差したのは、温泉から程近い林の中に見えた大樹。何の木なのか相当に太い幹とどっしりとした根が四方に張り出した老木である。空に向かって広がった葉は、常緑樹なのだろう、他の赤や黄色に混じらない青々とした緑の葉を茂らせている。
「あたしが人型をとった頃ね、その頃にあの木はまだこう、両手で丸を作ったくらいの太さだったのよ。あれがこんなに大きくなっていたとは、今見なければ気づかなかったくらいだけど」
そう言いながら、飛飛は両手の親指と中指をくっつけて円の形を作って安里に見せた。ひょろひょろの木があれほどに太い幹に成長する時間は、と安里は飛飛の手の丸を見ながら考える。
「……五千……ひょっとしたら一万年以上かも……か。それは大精霊にもなるなぁ」
独白のように呟いた安里に、飛飛は首を傾げてその先を促した。安里は大きくため息をついて紅葉の頭を撫でた。
「飛飛、もうこうなったからには仕方がないだろうよ。私はこの子に名づけてしまったのだから、このままこの子を連れて行く。……そのうち迎えが来るのだろうし」
「……アンリ、それはあたしが大精霊であることと何か関わりが?」
決断を下した安里を真剣な眼差しで見つめた飛飛は、静かに訊ねた。安里は首を竦めて飛飛を見遣った。
「紅葉について私達が考えていることは恐らく同じことだろう? 私一人の推測ならまだしも、大精霊たるあなたが同じ意見だとしたら、それはもう確定と言ったっていい、私はそう思った」
何の気負いもなく静かにそう言った安里に、飛飛もふっと息を吐いて落ち着きを取り戻したように呟いた。
「……そっか」
そうして三人は並んで温泉に浸かったまま、降り落ちてきそうな星星を揃って眺めた。
紺色の薄地を広げたような滑らかな空は、高い山の上だけあって随分近くに感じられる。手の届きそうな星に紅葉が思わず手を伸ばしては掴めずに不思議そうな顔をするのを、安里と飛飛は両側から微笑ましく見守った。
「私の予想では、紅葉は恐らく、もっと成長する。飛飛はどう思う?」
長い時間浸かっていたお湯から上がり、体を拭いて新しい衣に着替えた安里は、飛飛に訊ねた。
今いる場所は温泉の隣に作られた小さな木の小屋だ。安里が温泉に浸かっている間に、飛飛が他の精霊に頼んで眠る場所を急遽作ってくれていたのだ。
「うん……、そうだねぇ。あたしも成長すると思うわ。力もまだ完全ではないようだし、外見もまだ変わるでしょうね」
安里と飛飛は、小屋の隅で丸くなってすやすやと眠る紅葉を見遣った。成長したとは言えまだ幼さの残る丸い頬を、月明かりが照らしている。薄明かりの中に浮かぶ金と銀の髪が、開け放たれたままの窓から吹き込んできた夜の風に細い糸のように波立つのは、何か御伽噺のような幻想的な雰囲気を持っている。そこに紫と金の視線が穏やかに交差した。
「……ねぇ、アンリ。あたしも、ついて行こうと思うんだけど」
飛飛がどことなくもじもじしながら言うのに安里は目を丸くした。
「は? それはつまり私と紅葉にと一緒に来てくれるということか?」
安里の驚いた様子に飛飛はしきりに手を振ってそっぽを向いてしまった。
「べ、別にいいんだけどねっ、二人で行きたいって言うんならそれで! ただまぁ、あたしも暇だし? ちょっとくらい付き合ってあげよっかなぁって思っただけで?」
照れ隠しなのだろう、そんな風に言う飛飛がなんだか可愛らしく思えて、安里は思わず噴出した。
「ぷっ。……飛飛。あなたが一緒に来てくれるのなら心強いよ。ありがとう、よろしく頼む」
「うっ、うん、まぁ、任せておいて! あたしがあんた達二人くらいちょちょいって守っちゃうから!」
ぶっきらぼうに言いつつも照れた様子を隠しきれない飛飛が、どうしようもなく可愛くて安里の笑いは止まらない。くっくっと小さく響く笑い声に、飛飛は耐え切れなくなって真っ赤な顔で振り向いた。
「何だよ、もうっ! 別にいいじゃないか! あたしが人間についていこうなんて初めてなんだからね! もっと嬉しがってもバチは当たらないってのに!」
その悔しがる様子がまた面白く、安里の笑いは止まらなかった。花幻がいない今、飛飛が一緒についてきてくれるのならば本当にありがたいことだ。それを伝えたいのに、どんどんムキになる飛飛が、安里の笑いのつぼを刺激する。
「ちぇ、アンリなんかずっと胸ちっこいままのくせに」
馬鹿にされているような気がして何とか見返してやりたいと思った飛飛は、安里はもう成長しないことをふと思い出して、何の気なしにそういっただけだった。だがその一言は安里の笑いを止めることができたが、逆に更なる面倒を招いてしまった。
気にしていたのだろう、ずおんと暗く落ち込んでしまった安里を飛飛が一生懸命なだめる羽目になり、「いやちっこくたって別にいい」とか、「無駄に大きくたっていいことない」とかあることないことを口からでまかせに騒ぎ立ててなだめすかして、夜が明けようかという頃に安里はようやく眠りに付いたのだった。
本来睡眠を必要としない飛飛はひとり、窓の外を眺めてため息をついた。
赤や黄色に染まった葉が、はらはらと地面に降り積もっていくのをぼんやりと見て、小屋の中で寝息を立てる安里と紅葉に視線を移した。寝なくたって活動するのに全く影響はないというのに、安里以上に眠りこけている紅葉は、やっぱり自分達とは違うのだろうか、と思いつつ、出会ってほんの数刻だというのにこんなにも近づいてしまった奇妙な二人にふっと笑みを零す。
温泉に現れた安里と紅葉を見たときは、こんな風になるなんて思ってもみなかった。飛飛は他の精霊とは力の強さで一線を画す大精霊だ。普段は多くの精霊たちに慕われ、囲まれ、大騒ぎしながら過ごしており、巻き込まれることは時々あったが、自分から人間と関わろうと思ったことはない。ひとりの人間にべったりの守護精霊の考え方も理解できないし、自分は人間とは縁がないのだろうと思っていた。それなのに。
何かを呟いた安里がごろりと寝返りを打って、布団代わりに掛けていた綿入りの衣が体からすべり落ちた。飛飛はそっと近づいてかけ直してやる。こんなことをするのも初めてでなんだかくすぐったいきもちだ。
なんだかんだで振り回されているというのに、全く悪い気はしないから自分も仕方ないな、などと思いながら、飛飛は静かに朝日が顔を出して来るのを待って空を眺めていた。