第三話 花幻と別れて、そして
自分にしがみついて顔を伏せている花幻を見下ろし、安里は苦笑した。三百歳と言っていたが、これではどちらが年上か分からない。普段はお姉さん顔をしている花幻のこんな状態は非常に稀で、しかしそれだけ花幻にとって衝撃が強いのだということは明白だった。
「花幻、そんなに私と離れるのが嫌か?」
そっと呟くと、花幻は伏せていた顔をがばっと起こして安里に詰め寄った。
「もちろん嫌に決まっておりますわ! 私は安里様の守護精霊ですのよ? 離れてはお守りできません! 断固として拒否いたしますわ!」
人間の娘だったら間違いなく号泣しているだろう場面だが、精霊の花幻には涙は出ない。感情の起伏はあるが、実体を持たない彼女は人間のように涙を流して悲しみを表現したりはできないのだ。
「……花幻、私だってお前と離れたくはないよ」
安里の優しい声と撫でてくれる手のひらの温もりに、花幻は至福、といった様子でため息をついた。
「安里様……」
「しかしな、花幻の力が伸ばせるというのなら、私はそうしてもらった方がいいと思ったのだ。私では花幻のためにしてやれることはないから……。術も知らないし、一体どうやって崔琳殿が精霊の力を高めるのか皆目見当も付かん。それに……」
申し訳なさそうに語っていた安里だったが、急に口をすぼめてすねたように顔をぷいっと背けてしまった。
「……私の花幻が年の割りに力が弱いなどと言われては……腹が立つ」
その仕草は花幻の胸をきゅんと高鳴らせるのに十分な可愛さだった。
「安里様……! 私、頑張りますわ!! 年相応、いえ、それ以上の力を身につけて、私のことで安里様が気を病むことのないように!」
花幻は胸の前で両手を組んで瞳をキラキラさせている。先ほどまでのしおらしい様子が嘘のようだ。
「ああ、そうですわ! 安里様のご決断が間違っていたことなどないのですもの! 私の安里様はいつも私のことを一番に考えてくださっているのだから! ああ、もう! 安里様ったら!」
うっとりと遠くに視線を投げて感激に浸っている花幻を、安里は苦笑して見つめた。……基本は単純だから、乗せ易いのだ。
だがこうして気合をいれてくれたのなら、崔琳殿の修行を頑張ってくれるに違いない。何はともあれ、やると決めた以上、きちんとやらなければ意味はないし、花幻と離れることは安里にとっては危険を意味する。それを押してまで花幻を預けるのだから、何としても頑張ってもらわなければならない。
「うん、じゃあ、花幻。頑張ってくれよ。一ヵ月後を楽しみにしている」
どうせ離れるなら花幻の決意が鈍らないうちの方が良いと、安里は席を立った。市場で買って持っていた荷物を背中にくくりつけ、出て行く準備を始める。
「安里様、万が一の時のために、守護の術をかけておきますわ。私が傍にいなくても起動しますから」
花幻は安里が立ち上がったのを見とめ、空想の世界から帰ってきた。そして即座に安里を守るべく術をかける。花幻は溺愛する安里のこととなるといろいろまずい人格になるが、普段は賢い精霊だ。
花幻の力が場に満ちて、安里は優しい風に包まれた。目を閉じて宙に浮いた安里の銀の髪の一房一房を薄桃色の光が包んでいく姿は幻想的だ。全身を光が覆い、やがて収束すると安里の胸元に桃色の光が渦巻き、吸収されるようになくなった。瞼を上げた安里は、胸に温かな気配を感じ、くすりと微笑んだ。
「ありがとう、花幻」
その紫の瞳が綻ぶように煌めく笑顔は、花幻にとって何よりのご褒美だ。「当然ですわ」といわんばかりに胸を張って、花幻も満面の笑みで大きく頷いた。
「お別れは済んだかい?」
頃合を見計らったかのように崔琳が戻ってきて、扉から顔を覗かせた。安里が頷くと、崔琳は「こっちが戸口だ」と、安里を手招きした。
元は広い家なのだろうに、棚やら荷物やらが溢れかえって狭くなった崔琳の家の中を通り抜け、安里たちは戸口から外へ出た。先ほど窓から見えていた通り、そこは深い森の奥で、すぐ近くに川が流れているのが見えた。どちらに進もうかと安里がきょろきょろしていると、崔琳が安里の隣に立って山の頂の方向へ指を差した。
「あっちの方角が西さ。お前さん秋支度は済んだんだろう? まぁこれからだったら南へ下るのが普通だろうが、わしのお勧めは西の方角じゃね。これからの季節、滋味に富んでくる」
崔琳の笑みに何か意味ありげなものを感じつつも、安里はその言葉に頷いた。どちらにせよ当てのない放浪だ。自分ひとり、どこをふらふらしていようと勝手気ままなのだから、西だろうが南だろうが、どこへ行くのもかまわない。とりあえず山の頂へ行って辺りを見回してみるか、と決めた安里は、振り向いて花幻を見た。
「じゃあな、花幻。しっかりがんばるんだぞ」
小柄な体に大きな荷物を背負った安里を、花幻は小さな子供を見守る親のような表情でじっと見つめて口を開いた。
「はい、はいっ……! 私のことは大丈夫ですから、安里様はご自分の心配をなさってくださいね……! もし何かあったときは花幻をお呼びください!! すぐに参りますから!」
本当は離れずに付いて行きたいと思っていることは誰の目にも明らかだが、決まったことだ。花幻もちゃんと分かっていてそう言っている。安里はふっと表情を綻ばすと、崔琳に向かって頭を下げた。
「……では、よろしく頼みます」
「ああ、こちらこそ、じゃ。気をつけてな」
そして手を振る花幻、崔琳、そして藍翁を背にして、安里は歩き出した。
緑の下生えを踏んで、道なき道を行く。
一刻ほど歩いて斜面から下を見下ろしてみると、そこの大体の位置が分かった。花幻と買い物をしていた町から北西に見えていた高い山だった。よくもまぁ、あんな遠い場所を術で繋いで移動できるようにしたものだ、と感心した。
そして太陽の位置を確認し、日の入りまでの時間を計算する。初めての山だ、いくら慣れているとはいえ、今夜の寝床はぜひとも安全な場所を確保したい。そう思って安里は再び斜面の方へ振り向いた。
そして振り返ったところに見知らぬ女の子がいた。
安里は思わず眉を寄せ、何故こんなところにこんな小さな子供がいるのだろうと思ったが、次の瞬間に、その子が人の子ではないと気づいた。あまりに自然な人型をとっていたので一瞬気づくのに遅れたが、精霊の子だ。力は強くない。問題は、なんの精霊の子か、分からない点だった。
女の子はにこにこと笑って安里を見上げている。安里としてはわけのわからない子精霊とは係わり合いになりたくない。誰かに使役されている精霊だと何かと面倒だし、また勝手に懐かれるのも迷惑だ。そもそも人型をとれる程度に力を持っているということは、誰か精霊使いの守護精霊か、ものすごい年月を経た力の強い精霊のどちらかなのだ。
安里はひとつの答えに辿りついたが少し考えた後でやっぱり見なかったことにしよう、と思った。面倒くさがりなのは自覚している。花幻がいればまだしも、ひとりっきりでいろいろ煩わしいのは本当に嫌だと思ったのだ。
表情を消して女の子の脇を何事もなかったように通り過ぎる。安里としては、それでなかったことにできればと思った。しかしやっぱり甘かった。
……女の子は安里の後ろを付いて来た。親鳥の後ろを歩く雛のように。
そうして話は冒頭に戻る。
ああ、絶対そうだ。
安里は突然思い至った。
妙な条件だとは思ったが、『歩いていけ』とはこのことだ。
この小さな女の子が私についてこられるように、という。
あの崔琳の笑みの理由と藍翁の合図の意味にようやく気づいた安里は、誰にもぶつけられない叫びにしばらく声もなく悶えたが、くりんとした瞳を輝かせる女の子の期待に満ちた視線に、深いため息をついた。
次話から話が動きます。