第二話 精霊の学校
それは薬草の入った棚が左右に延々と続く通路だった。
露店の店は通常決まった区画を割り当てられるので、その場所は広くはない。まして奥行きなどないに等しいはずなのに、崔琳の店は暗がりから先、奥へ奥へと続いていた。店の入り口で話していたときは普通の露店だったのに、と、振り返ってみると入ってきた入り口はもう遠くにあり、青年の姿をした精霊が一人表を向いて座っているだけだ。
術がかけられていることは分かるが、一体どんな術をどうやってかけているのか見当も付かない安里は辺りをきょろきょろ見回しつつとにかく前を行く崔琳についていく。
小さな引き出しがたくさん並び、ひとつひとつに名前が書いてある。時々中身が飛び出している引き出しを無造作に閉めながら、崔琳はふわふわと浮く人型をとらない精霊たちを従えるようにずっと奥へと歩いていく。
薄暗い通路を抜け開けたところまでくると、そこはどこかの家の一室だった。壁があり、屋根があり、窓のある普通の部屋。強いて言うならぐるりと壁を一周する薬草棚が普通の部屋とは違う点だ。薬草の独特の匂いが部屋に満ちていたが、大きく開け放たれた窓からふわりと入って来る風が、それを緩和してくれていた。
崔琳は中央に設えた円形の卓を指して安里に言った。
「ほれ、お座りなさい。今お茶を入れるから」
そういうと次の間へ行ってしまった崔琳を見送って、安里は開かれたままの窓の外を見てみた。どこへ連れてこられたのだろう、と思っていたが、そこは先ほどまでいた街ではなく、どこか深い森の中のようだった。窓から見えるのはただただ木の緑だ。耳を澄ますと小さな川の流れる音がする。山の上の方だろうか。
「ふぉっふぉっ。こういう術は初めてかい? そうだろうね、わしが作った術なのだから」
茶器を一式手にした崔琳が戻ってきて楽しそうに言った。後ろから湯気を立てた薬缶がふわふわと付いてきている。もう準備が整っていた茶器を手際よく並べ、崔琳はさっと茶を淹れた。二つを安里と花幻に向かって差し出し、自分も茶杯をひとつ持って席に付いた。
「ほれほれ、お座りなさい。冷めないうちにお飲み」
崔琳にそう促され、安里と花幻はようやく席に付いた。花幻はとても緊張している風にもじもじしている。なにしろこんな風に人間と一緒の茶の席に呼ばれたことなどないのだ。
安里は香ばしい匂いを立てるお茶に口をつけ、ほうっ、とため息をついた。
「このお茶は自分で? 炒って作るのですか?」
「そうじゃ、よくわかったのう。お前さん鼻も舌もいいらしい」
安里の質問に、崔琳は嬉しそうに応えて茶をすすった。花幻も恐る恐る茶杯を手にし、一口飲んでみた。
「……おいしい」
ぽろっと零れた嬉しい感想に、崔琳は目を細めて笑った。そして花幻に向かって尋ねた。
「ふふ、お前さん名は何と? どこの生まれだい?」
問われた花幻は更に驚いて、目を盛んにぱちぱちさせながら安里を見た。安里が「答えればいい」という表情をしたので、視線を崔琳に戻して言った。
「……花幻と言います。生まれはここより東の島国。あなたが先ほどおっしゃった通り、人の数え方で大体三百歳くらいですわ。正確には数えていませんが」
「ほう、それはいい名前をつけてもらったものじゃな。ふむふむ……」
花幻は、安里に付けてもらった名を褒められて嬉しかった。そのために次に放たれた崔琳の言葉に対して一瞬反応が遅れてしまった。
「では、花幻よ。お前さん私の元で修行しなさい」
「……はい?」
これには安里も驚いて一瞬固まった。
「な、崔琳殿、それは一体どういう……?」
思わず吹き出しそうになったお茶を必死に飲み込んで、安里は口を開いた。崔琳は相変わらず飄々と微笑むのみだ。
「言葉通りじゃよ、鳳安里。お前さんの精霊を私が預かって、その能力を伸ばす修行をつけてやろうということじゃ」
ここでようやく花幻も反論の言葉を取り戻して勢い付いて言った。
「崔琳様、私は安里様の守護精霊なのです! 安里様と離れるなどできません!」
「そうです、崔琳殿。守護精霊がその対象の人間から離れるなど聞いたことが」
花幻と安里の言葉を、すっと片手を上げて制した崔琳は、ずずっと一口お茶を啜った。ことんと茶杯を卓に置き、両手を組んでその上にあごを乗せた状態でふたりを見つめる。
「聞いた事がなくともできるのじゃよ。むしろそうした方がいい。わしの言いたいことはの、鳳安里。お前さんの精霊はもっと力を強め、お前さんを守らなくてはならない。そうじゃろ? 不老不死の存在とはいえお前さんを守れるのは花幻ひとりじゃ。それなのに花幻の力は生まれて三百年も経ているというわりには力が弱い」
安里と花幻はお互いに顔を見合わせた。崔琳の話は続く。
「先ほど店で何体もの精霊を見たな? あれはほとんど預かりものの精霊じゃ。わしの守護精霊は、ホレ、そこで暢気に座っておる藍翁ひとり。他の子達はそこかしこの人間から力を強められるようにと預かってるのじゃよ」
崔琳が視線を遣った方向、部屋の隅にいつの間にか先ほど茶を啜っていた老人型の精霊が、安楽椅子に深く腰掛けて居眠りをしていた。まるで長年連れ添った夫婦のように見える自然さだ。
「……ではここは精霊の学校……ということか」
ぼそりと呟かれた安里の言葉に崔琳は微笑んで頷いた。
「話が早いの。別に看板を掲げているわけではないんじゃが、自然と集まって今は十体ほど預かっておる。花幻も一緒に修行したらいい。なに、ほんの一月ばかりで足りるじゃろう、年季も勘のよさもなかなかじゃから」
崔琳は花幻を見て、にいっと目を細めた。花幻はその視線にたじろいで、縋るように安里の腕を掴んだ。安里はあごに手を当てて考え込んでいるようだ。
「……安里様……」
不安げに声を出した花幻を安里はじっと見つめ、しばらくの後崔琳の方へ向き直って頭を下げた。
「……崔琳殿。それでは花幻をよろしくお願いします」
「安里様!!」
安里の決断は、花幻にとっては衝撃だった。安里と出会って幾年月、決して離れることはなかったし、守護精霊とはそういうものだ。主人を始終あらゆるものから守り続けるのが役目なのだ。
声を荒げて自分に抱きついてきた花幻の頭を撫でながら、安里は崔琳に言った。
「では、一ヵ月後に迎えに来ればよろしいのですか? お代はいかほどでしょうか?」
崔琳は顔中の皺を集めたようににっこりと笑い、手をひらひらさせた。
「うむ、そうじゃの。精霊を使いにやるから、そうしたら迎えに来ておくれ。お代は要らぬ。じゃがその代わりに聞いて欲しい頼みがある」
「頼み?」
安里が首を傾げると、崔琳は窓の外を見遣って言った。
「ここから出て行くとき、必ず歩いて出て行って欲しい。これだけじゃ」
「はい? それが……頼み、ですか?」
呆気に取られた安里は思わず聞き返す。いくらなんでも花幻を預かってもらう対価にはならないのではないかと思った。しかし崔琳は大きくこっくりと頷いて肯定した。
「そうじゃ。歩きならばさすがのあれも付いていくじゃろう」
後の方の言葉は早口でかつ小声だったので安里にはよく聞き取れなかった。
「今、何と?」
「いやいや、何でもないぞ」
崔琳はごほんと咳払いをし、気を取り直すように立ち上がった。
「さて、それじゃあ鳳安里よ、花幻としばしのお別れじゃ。そこのしょぼくれた精霊に活を入れておやり」
安里にくっついたままで微動だにしない花幻を見て苦笑し、崔琳はそのまま隣の室に行ってしまった。部屋の隅っこにいた藍翁を叩き起こすのを忘れずに。
頭を叩かれた藍翁は、鈍い反応で頭をさすった。のんびりとした動作に痺れを切らした崔琳に首根っこをつかまれて引きずられていく間に、彼は安里に向かって片目をつぶった。それがどういう意味なのか、安里には全くわからず、微妙な表情で見返すことしかできなかった。