第十一話 秋を告げる風
上空、小鳥が空を行き交うあたりの高さに飛飛はぷかりと浮かんで下の様子を伺っていた。
山の中腹で少し開けた辺りに、石造りの頑丈そうな家と小さな畑が見える。目を凝らすと畑には数体の小さな精霊たちが行ったり来たりして働いている。収穫中のようだ。
探しているのはああいう子精霊じゃないんだけどな、と思って飛飛がしばらく様子を見ていると、家の中から白っぽい前あわせの衣を着た、茶色の長い髪を一纏めにした女性の精霊が現れた。うん、安里に聞いた通りの容姿だ、きっとあの子だな、と思ったときに、下から視線を感じてはっとそちらを伺った。
家の影になるところに木の椅子が置いてある。先ほどまで無人だったその椅子に、老人の姿を確認した。
「……あれが件の大精霊だな。食えないじじい」
精霊にも見つからないように隠形しているというのに、と飛飛はぼやき、ひょいひょいと小さく手招きをしてくるその老人型の精霊に向かって、ゆっくりと降下していった。
「どうだった? 花幻の様子は」
すっかり秋の装いになった山の中、ぽっかりとあいた洞窟の中に安里はいた。紅葉が言うように崔琳が花幻の能力を伸ばしてくれずに薬草探しに使っているのなら、彼女をそこに置いておく必要はない。実際のところどうなのか、飛飛が偵察に行ってくれるというので、偶々見つけた洞窟の中でぼんやりしていたのだ。期せずして振り出した雨は天気雨で、光の中にきらきらと雨粒が舞っている。
「……うん、まぁ何とかなるんじゃないかしら……」
金の髪に付いた水滴を払いながら飛飛は言った。暗い洞窟の中から見ると、光を背負った女神のように美しい。不自然に目をそらした飛飛に、安里は目を細めながら聞いた。
「どういうことだ? えっと、崔琳には会ったのか? 藍翁にも」
「……!! あのばあさんなんて可愛いもんよ、ただの嘘つきなんだから! 問題はあの化け物じじいね! 大精霊なんてとんでもないわ! そういう域にはいないわよ、既に!」
藍翁の名を聞いて目をむいて声を荒げた飛飛に、安里は首を傾げた。鼻息荒く飛飛は、安里の隣にすとんと腰を下ろす。
「ひどい言われようだな、崔琳。で、藍翁がどうした? 化け物って」
「あたしも大精霊って呼ばれてるけど、じじいにかかったらひよっこと同じってことよ。あのじじい恐らくだけどあたしの倍は存在してるわ、少なくとも」
そう言って飛飛はぶるっと身を振るわせた。よほど怖いことがあったかのようなその態度を、安里は不思議に思った。
倍生きているからと言って、藍翁のあの様子を見る限り、何か危害を加えてきそうな危険な感じには見えなかったのだが。そう思っていると、飛飛が安里の考えを読んだように先を続けた。
「ああ、可哀想! 花幻ちゃん! 早く引き取りに来るだろうって藍翁は見越してて、もう花幻ちゃんの修行は始めていたんだけど……」
「それのどこが可哀想なんだ?」
「本来なら一月はかかる術の修行をあと三日で叩き込むって……。花幻ちゃん、元々力持ってるから習得できるだろうって、そう藍翁が言ったんだけど、その時のあのじじいの顔!!! にやって笑ったその顔の禍々しさったらなかったわ! しかも一瞬ものすごい力を放出してあたしに圧力かけてきたわけ! 脅しよね、ほとんど。三日経ったら迎えに来いって」
その時のことを思い出したのか、飛飛は身震いして両腕で自分自身を抱きしめた。
「ああ恐ろしい!! あんな半端じゃない力を持った腹黒にしごかれるなんて本当に花幻ちゃん可哀想! アレは無害なおじいさんの皮を被った凶悪な暴君よ! 怖すぎる!!」
小さな洞窟の中に飛飛の叫び声がこだまする。ひとり興奮している飛飛を横目に、安里は両手で耳を塞ぎながら長年一緒にいる守護精霊を想った。……なんだか大変な目に遭っている様だけど……。
「大丈夫かなぁ、花幻……」
安里の心配そうな声が飛飛の声の反響の中で消えていった。
外は雨。きらきら光る雨粒が際限なく落ちて来るのを眺めて、安里はため息をついた。どんなに恐ろしいとは言っても相手は花幻に術を教えてくれようというのだ。
……三日、待つしかない。安里は無意識に、胸に下げた首飾りを撫でた。
そして三日後。飛飛と一緒に山の中をうろうろして、秋の果物やきのこを採って食べたり、紅葉を眺めたり、大型の動物と遭遇して襲われそうになって逃げたり……となかなか刺激的なようでいつも通りの山の生活を過ごした安里は、崔琳の家の近くまでやってきていた。
藍翁は三日後と言ったけれども、崔琳との最初の約束は一月だった。だから花幻を取り戻すのに事を荒立てたくはない、という安里の言に従って、こっそりと崔琳の家に近づいて花幻を連れ帰ってきた飛飛であったが、藍翁の手助けですんなりと奪還できたというのに、ほとほと疲れ果てた様子で帰ってきた。
「ただいま~。連れてきたよ、アンリ」
飛飛が近くの山で待っていた安里の姿を認めてそういうと、その言葉すら花幻の気に触ったらしく、彼女は鼻息荒く安里に詰め寄った。
「安里様っ! ご主人様っ!! ただいまって何ですか、この精霊は! 確かに力は強いですけれども、私が要らなくなったというわけではないのでしょう!? 花幻は安里様の守護精霊なのですよ!」
花幻に巻きつかれるように襲われた安里は、暴れ馬を手なずけるときのようにどうどう、と花幻を落ち着かせた。連れて戻るまでの間、飛飛が嵐のような質問攻めにあったのは間違いない。飛飛は安里の後ろで呆れ返った顔でため息をついている。
「いや、違うよ、花幻。いいかい、私の守護精霊は花幻ひとりなんだ。それは決まっていることだ、そうだろう?」
冷静に諭すように安里が言うと、花幻はなにやらうっとりとして聞き入っている。たった数日離れていただけだったが、本当に恋しかった、とその瞳は語っていて、安里は心の中で苦笑した。
「飛飛は偶々山の中で会って、それで友達になったんだ。私を助けてくれただけだ。だから彼女を責めるのは間違っているよ」
何だか小さな子供に言うような口調に聞こえて、花幻はぷうと頬を膨らませた。「そうだよ、花幻ちゃん」と飛飛が安里の後ろで口をパクパクさせているのも気に食わない。
「私、そんなに小さな子供ではありませんわ。安里様のおっしゃることはちゃんとわかります」
それを聞いて、安里と飛飛は顔を見合わせて笑った。紅葉といた数日の間、ずっと諭すような子供に対する口調だったから、まだ抜けていないのだ。
その仲の良さそうな二人に、花幻は更に頬を膨らまして自分に注意を引こうと話題を変えた。
「安里様っ! 私、安里様のために藍翁の特訓に耐えたのです! ひとつとてもいい術を習得しましたわ、なんだと思います?」
安里はわざと首を傾げ、興味深そうに聞いた。こういうときは花幻の機嫌を取っておいたほうがいい。
「何だ? 見せてくれるか?」
「もちろんですわ!……ほら、わかります? 安里様の髪と瞳の色を術で変えたのですわ! これで他人からは黒目黒髪の女の子に見えます!」
術のかかった安里の姿は、飛飛から見ても黒目黒髪で、感心したように花幻を賞賛した。あの恐ろしい藍翁のしごきを受けてきたことを思うと、感慨深くなる。
「へぇ~、よくできてる。幻術の類かな? 花幻ちゃん、よくがんばったんだねぇ」
安里が荷物から普段使わない鏡を取りだして見て見ると、そこにはひどく懐かしい、かつての自分の姿があった。思わず髪を摘んでみても、ちゃんと黒いままで、一体どんな術がかかっているのかは全く分からないが、これならこの先、人のいる場所に出るのも楽になると安里は微笑んだ。
「ああ、そうだな。花幻、ありがとう」
輝くようなその笑顔に打ちのめされたように興奮した花幻は、褒めてもらったことで胸が一杯になり、「ふぁ~ん」とか言いながら心の花畑に跳ねだしていってしまった。
そのため安里至上主義の花幻にしては珍しく全く気が付いていなかったのだが、安里の胸には花幻の見たことがない新しい首飾りがきらきらと輝いていた。
それは、あの紅葉の涙から生まれた玉を繋ぎ合わせたもので、なんと紅葉の兄であるソレイルが、女子達三人のお話が終わるまでの手慰みに作った代物であった。その場に落ちていた玉に、自らの髪の毛を寄り合わせて作った糸を通したもので、細かい作業が得意だというのも頷ける、見事な出来だった。
夏と秋の兄妹が手を繋いで空に消えた後、ふと焚き火の近くを振り返った安里がその首飾りに気づいたのだが、「面白いひとだなぁ、ちょっとうっとうしいけど」、と言って飛飛は笑った。せっかくだから、と安里は遠慮なくそれを首に下げている。
「さぁて、安里の守護精霊も戻ってきたし、あたしはどうしよっかなぁ。秘湯に戻ろうかな、とりあえず」
そう言って両手を挙げて背伸びをした飛飛だったが、ぶつかってきた突然の風に顔を顰めたと思ったら、手を振り下ろして何かを掴んだ。ばさばさになった金の髪を片手で整えながら、もう片方の手に掴んだ何かを見下ろす。
「何なのよ、もうっ! さっきのどこの子精霊っ?」
「あ、焔火」
礼儀を知らない風の子精霊に憤慨する飛飛の手に握られていたのは、火の玉……もとい紅武の守護精霊、焔火だった。人型も取れるはずの彼だが、風の精霊に運ばれてきて疲れ果ててしまったのだろう、ふよふよと浮くだけの火の玉になってしまっていた。
「あら、どうしたの? 焔火。もしかしてあの馬鹿に何かあったとか?」
安里の笑顔によって空想の楽園へと昇天していた花幻が、焔火の存在に気づいて帰還してきた。花幻は焔火を自分の手の上にそっと乗せると、気を込めて息を吹きかけた。
すると弱っていた火の玉がふるると動いて、赤い髪に赤い瞳を持つ小柄な男の子に変化した。
「うう、ふぁーふぁん、ありがとう。あのね、あんり。ウーが、あんりの、ようす、しりたいって、いって、ぼくを……」
「風の精霊に無理矢理掴らせてここまで来た、と?」
安里が弱弱しい焔火の言葉を繋ぐと、焔火は可愛らしい顔でこっくりと頷いた。安里は呆れ顔でため息をつき、大事な守護精霊に危険な旅をさせる馬鹿な幼馴染を思った。
「ねぇねぇ、この子どこの子? 炎の子精霊って珍しいよねぇ。だって炎の精霊自体、少ないでしょう?」
金の瞳をきらきらと輝かせて飛飛が尋ねてきたので、安里は能天気でかつ無計画なウーの説明をしてやった。
「ああ、この子は紅武という私の幼馴染の馬鹿についててくれる守護精霊で焔火というんだ。ウーは本当に馬鹿で、自分も私のように不老不死になって一緒に生きるなどとぬかして……」
「あらぁ、でもそれってつまり、彼はアンリが好きってことでしょ? アンリもまんざらじゃ……ないみたいに聞こえるけど?」
呆れきった顔で語る安里の言葉を途中で遮ってふふふ、と目を細めた飛飛に、安里は嫌そうな顔を向けて一歩下がった。
「なんだそれは。あいつがどう頑張ろうと私は不死なんだし、いつかはみんな私を置いて死んでいくんだ。好きとか……恋なんて、私には……」
途中までの勢いが後半はなくなってしまい、尻すぼみになって目を逸らしてしまった安里の言葉に、飛飛は益々目を細めてにやにやした。
「ははーん、アンリ、あんた他に好きな人がいるんだねぇ~。やだ~、三角関係?」
「なんで今の会話でわかるんだ!?」と内心の驚愕を一瞬表に出してしまって、安里は慌てて咳払いをした。顔が赤くなっているので全く誤魔化せてはいないのだが、飛飛はそれ以上何も聞かず、ただにやにやと笑っているだけだった。
「安里様、焔火が帰るそうです。あの馬鹿が心配だそうで」
飛飛とじゃれあっていた安里のところに、焔火と話していた花幻がやってきてそう告げた。
「あんり、ぼく、かえる……」
見るからに弱っているというのに、健気にも主人を心配して帰るのだという小さな精霊に、飛飛は金の瞳を潤ませて協力を申し出た。たどたどしい口調も似ているし紅葉を思い出したのかもしれない。
「じゃあ、あたしが送ってってあげる。その辺の子精霊なんかより、ずっと安全に運んであげるわ。どうせ暇だし、安里の幼馴染っていうのも見てみたいから」
そのうきうきした様子の飛飛に、安里は苦笑しつつも礼を言った。焔火を不肖の幼馴染の元まで送ってくれることに対する礼と、今まで一緒にいてくれた分の礼を。
「……そうか、ありがとう飛飛。飛飛に任せておけば、焔火も安心だ。……じゃあ、ここでお別れなんだな。ありがとう、一緒にいてくれて。楽しかった」
「なによ、改まって! また会えるわよ、お互いながーく生きていくんだから、ね」
そう言って飛飛は片目をつぶった。飛飛は、人間のように寿命を気にしない。これまで長い時を存在してきたようにこれから先も存在し続けていく。だからずっと一緒にいられると、寂しくなんかないと、そう言っているのだ。
飛飛の気持ちが嬉しくて、安里は何だかくすぐったい気持ちになった。
「うん、じゃあ……また」
太陽の光をきらりと反射させながら、飛飛は焔火を胸に抱きかかえて雲の中へと消えていった。
安里はしばらくの間立ち尽くして、飛び立っていった方角をぼんやり眺めていたが、不意に優しく頬を撫でた風に、ようやく視線をはずした。
いま、吹いてきた風に、紅葉の気配を感じたような気がする。
ふっと笑いを零した安里に、花幻が不思議そうに尋ねた。
「どうかしました? 安里様。なんだか嬉しそう」
「いや、……秋が来たなぁと思って」
そう言って安里は大きく伸びをして脱力した。……騒々しい数日だったけど、でも。
笑みを浮かべた安里は、足元に置いておいた小さな荷物を持ち上げた。相変わらず必要最小限しか持たないが、その中には飛飛が作ってくれた木の椀と匙が仲間入りしている。
「安里様、どちらへ行きましょうか?」
花幻は安里が出発しようとしているのを見て言う。目的地のない気ままな放浪だ。花幻はただ安里の行く先へついていくだけ。
「うん……西へ。……あ、でも」
そう言って安里は太陽に背を向けて歩き出したとたんに止まった。
世界の広さを確認しにいくのもいい。どこまでだって歩いていけるし海を渡るのもいい、そう思ったけれども、安里の心に一つの感傷がよぎった。
この数日間、花幻以上に大騒ぎな面々と一緒に時間を過ごし思い出す隙もなかったのだが……。
「あんまり遠くに行ってしまっては、すぐに帰ってこられない、か」
あの日交わしたふたりだけの約束が、安里の行動を制限する。疼く想いに安里は少しだけ不自由を感じたけれども、それでも自分は遠くへ行くつもりになれない。
自嘲のようにくすりと笑って、安里は再び歩き出した。
方角は、南。
「どこまで行こうと、安里様がお望みならば私、全力で飛んで連れ帰りますから大丈夫ですわ」
花幻が胸を叩いて自慢げに言うのを安里は頼もしく聞いた。安里の心の中をわかっているのかいないのか、それでも欲しい言葉をくれるのは、守護精霊としての情愛なのだろうか。
「……じゃあ、その時はよろしく頼む」
「はい!!」
安里は歩きだす。すっかり秋色に染まった森の中を。虫の声が木々の間に響いて、長かった夏の終わりを告げる。今年はきっと恵みの秋になるだろう、そして穏やかな冬を迎えるだろう。
安里は前歯の抜けた女の子の笑顔を思い出し、高くなってきた青い空を見上げた。
後もう一話続きます。