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第十話 ひな鳥の巣立ち



 ぱちぱちと火の爆ぜる音だけが、静まり返った山の中に響く。細く立ち上がる煙に、今日もしんしんと瞬く星星は消えたり現れたり忙しい。


 焚き木の火の反対側に仰向けになった安里の顔は、ちょうど影になってしまってよく見えなかった。覆われた両手はそのままで、重苦しい沈黙が空間を支配していた。


「……あなたにとっては、大変な災難であったと理解しているよ、銀の姫君」


 沈黙を破ったのは、夏を司る神、ソレイルの囁くような声。浅黒い肌に、白金の髪が透ける様にかかり、それを大仰な動作で払った彼は、輝くような白い歯を覗かせながら安里に語りかけた。


「しかし私達兄弟にとっては、あなたがいてくれたことはこの上ない僥倖でした」


 紅葉(ホンイエ)は大きな茶色い瞳を見開いて、安里の様子をハラハラと伺っている。飛飛(フェイフェイ)は安里の隣で沈黙を守った。


「……もうお分かりかと思うが、あなたはその身に我らが母の力を宿している。だからこそ妹に名づけをし、力を覚醒させることができたのです」


 その言葉に安里がピクリと反応したのを、紅葉も飛飛も見逃さなかった。


「そしてあなたが時間を止めてから過ごしてきた“時間”は、あなたの身の内に貯められていた。その時間を糧に、こうして妹は成長することができたのです。……賢いあなたならわかるでしょう? あなただったからこそ、いえあなたにしか妹は救えなかったのです。ひいてはこの世界の季節の巡りすらも、あなたが救ったのと同じことなのですよ」


 一言一言を選ぶようにゆっくりと語られたソレイルの言葉に、安里は大きく息を吐いた。そして目の上を覆っていた両手を、額の上に移してまっすぐに夜空を見上げた。


「……そんな大層なことを考えて紅葉に名をつけたのではないんだけどなぁ」


 吐息と共に吐き出された小さな声に、紅葉は安里の顔の辺りまで這っていき、そして必死の形相で言葉を紡いだ。


「安里、安里が私に名前を付けてくれたのは、力が弱かったから、可哀想だったからだって私も知っています。飛飛がそれを勧めて仕方なく、というのも分かっています。けれども、あの時名前を付けてくれたのは安里のやさしさ、でしょう? 安里がとっても優しいことは、私はよく知っているんです」


 そのとき、涙の出ないはずの紅葉の瞳から、きらりと光る雫が落ちて、安里は目を見開いた。雫は安里の頬の上に光る玉になって落ちてきた。


「最初から……見捨てることもできたのに、安里は私を置き去りにしようとはしなかった! 名前を付けてもらってからも、安里は私を連れて行ってくれるって……! 本当に……嬉しかった、だから安里のために、頑張って成長したの。早く安里の好きな、秋にしたいから……!!」


 自分の顔の上にぽろぽろと落ちて来る透き通った玉は、安里の肌の上を軽く跳ねて地面に落ちていった。驚きに目を見開いたままで体を起こした安里は、自分の顔があった辺りに散らばる色とりどりの丸い結晶に瞬いた。


「……何故、私が秋が好きだと?」


 安里はあえてその玉について触れず、泣いている紅葉の頭を撫でて聞いた。

 その優しい感触に、泣きじゃくっていた紅葉はようやく落ち着きを取り戻し、涙も止まった。


「……だって安里は言っていたから。今年は夏が長いなぁって。果物とかきのことかがおいしいから、早く秋にならないかなって、安里が言っていたから」


 上目遣いで告げられた言葉に、安里は胸がきゅんと疼くのを感じた。……すっかり情が移ってしまったのだな、と苦笑しつつ、独り言のつもりだったのにばっちり聞かれていたとは思わずに少し赤面した。


「……そうか、ありがとうな」


 頭を撫でられている紅葉の嬉しそうな顔に、飛飛は本当に親鳥と小鳥みたいだな、などと思っていた。安里が優しいのは飛飛だってよく分かっている。安里の紅葉に対する思いやりに、自分は二人についていく気になったのだから。






「……さて、それでは我が妹よ」


 感動に包まれていた場に、申し訳なさそうなソレイルの声が響いた。そう、彼は本来、このために来たのだ。自らの季節を、妹に引き継ぐために。

 それはつまり、紅葉と安里たちとのお別れを示していた。紅葉の管轄する秋になれば、彼女はこの世界中を回って植物や動物に秋を知らせなければならない。それが彼女に与えられた使命であり役割なのだ。


 安里は紅葉の桃色に染まった頬を両手で挟んで見上げた。

 すっかり自分の背も追い越され、精神年齢すら追い越された感があって、劣等感を刺激されなくもないが、だが紅葉は自分の名づけ子のようなものだ。安里からすれば、たった三日間ではあったが、まるで手のかかる子供を育てているようなそんな気分だった。


「……しっかりがんばるんだぞ?」


 安里の言葉に、紅葉は唇を尖らせて言った。


「また、会いに来てもいい?」


 その表情が、不貞腐れたときの安里にそっくりだったので、横で見ていた飛飛は密かに吹き出した。たった三日間の関係、それでも安里の何かがきちんと紅葉に伝わっている。表情も、その優しさも。


「……仕事が終わったらな」


 仕方がないな、という体で安里が言うと、紅葉は安里の手を握って飛び跳ねて喜んだ。赤茶色の髪は、本当にソレイルが編んだらしく、ばさばさにならずにいくつかの束に分かれてぴょんぴょんと跳ねている。


 ひとしきり喜びを表現した後で、紅葉は飛飛のほうへ向き直って真剣な顔になった。


「そうだ、飛飛、安里をよろしくね? 安里を崔琳のところへ連れて行ってあげて。あのおばあさん、安里の守護精霊を特訓するからって預かったけど、あれって本当は嘘なのよ」


「は?」


 またも安里と飛飛の声が重なり、ふたりは顔を見合わせた。


「精霊の学校なんて言ってたけど本当は違うの。あのおばあさんは預かった精霊をつかっていろいろなところの薬草集めをしているだけなの。けどみんな普段とは違った仕事をすることになるでしょう? 結果的に力が付いて、それでうまくいってるっていうだけなのよ。安里の精霊は元々力が強かったから、役に立つと思って預かったのよ、きっと」


「じゃあ花幻(ファーファン)は別に力を伸ばしたりはできないんだな?」


 呆れたように肩を落として安里は尋ねた。だとしたら最初から花幻と離れる必要などなかったのに。


「うーん、それは何とも言えないけれども……、ひょっとしたら藍翁(ランワン)が何か術を教えてくれているかもしれないわ」


 少し考え込んだ後で、紅葉は思い出したかのように言った。


「あのおじいさん精霊も、飛飛と同じ大精霊よ。本当は崔琳の守護精霊ではないの。あの人の作るお茶が好きだからあそこにいるんだって言ってたわ。崔琳のあのお店と家を繋ぐ術とかは全部藍翁が掛けているし、他にもいろいろな術を知っていて、私にも教えようとしてくれたくらいだから、きっと花幻も何か教わっているんじゃないかしら?」


 花幻の術云々のことは少し期待できるが、崔琳の話はほとんどが嘘であったことが判明し、安里は苦笑いをした。最初から花幻の力と、私が役立たずの紅葉を連れて行ってくれることを目的にしていたんだな、とそう考えると、いろいろなことがしっくり来た。


「ふーん、じゃあとにかく安里が守護精霊と再会できるまではあたしが守るから心配は要らないよ。それから紅葉も何か困ったことがあったら風の精霊に言いな。いつでも助けてあげるから」


 事情を最初から知らない飛飛は、とにかく自分のやれることをするだけだ、と胸を張った。その輝くような笑顔に、紅葉は思わず飛飛に抱きついた。


「飛飛……! ありがとう!!」


「おやおや、あたしはあんたの“親”じゃないんだけどね。ま、いっか」


 照れたように頭に手を遣った飛飛だったが、まんざらでもないらしい。豪気で陽気な彼女もまた情に厚く優しいのだ。ぎゅうっと紅葉を抱きしめ返して、紅葉がじたばたするのを面白そうに見ていた。





 すっかり蚊帳の外にされていたソレイルは、それでも兄としての優しさを発揮ししばらく黙って見守っていたが、夜が空け始めているのを見て、はしゃぐ妹に声を掛けた。


「……おーい、みつあみの可愛らしい我が妹よ、そろそろ行くぞ。そうでなくとも夏が長すぎて私の力もそろそろ限界なのだ。あの頭でっかちで不愛想な弟にもまだ出番はなしだと伝えなければならないし。……ああ、朝露のように美しい金と銀の姫君たち。別れは名残惜しいがあなたたちの素晴らしさはこの私の広い胸のなかに永遠に……」


 彼のうっとうしい修飾語は、女性に対してのみ使われるらしく、それはもしかすると母親の反動なのではないかと飛飛は思ったが、口には出さなかった。


「……じゃあ、行きます。本当にありがとう。安里、飛飛」


 朝焼けに明るくなってきた空を背景に、紅葉が柔らかな微笑みを見せた。安里も飛飛も黙って、笑顔で手を振った。


 手のかかる幼子がこの手を巣立っていく、その切なさに心を痛ませながら。

 

 そして紅葉はソレイルと共に、昇りだした太陽の方角の空に、その姿を消した。




 すっかり見えなくなってから安里と飛飛は大きく息を吐いて、お互いを見合った。不思議な縁で出会った二人。そして今日は今始まったばかり。


「とりあえず、ちょっと寝てもいいかな」


 うっかり徹夜してしまった安里が眠そうに零したのを、飛飛は笑いながらもちろん了承した。



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