8.薔薇の誓い
数瞬ののち。オリヴィアが赤の瞳を大きく見開き、そして怒ったように顔を歪めた。
「ちょっと!」
「申し訳ありません、つい」
「ついって何!?」
「つい、というか……ああ、誓い、でしょうか」
「誓い?」
「薔薇の、誓い?」
手触りの良い艶やかな蜜色と、どの宝石にも例えがたい赤。オリヴィアに捧げるのならどちらの薔薇が良いだろう。
そんなことを考えながらじっとオリヴィアを見つめていると、何とも言えない顔で目を泳がせていたオリヴィアが、得心がいったように頷いた。
「ああ、そう、なるほど。そういうことね」
「え?」
「大切な家族への誓い。そういうことね?」
「家族?」
「あなたからすれば薔薇は宝物で、恋人で、家族でしょう?残念だけど恋人は認めてあげられないから、家族よ」
「家族………。そう、ですね。そうかもしれません」
「じゃあ仕方ないから、怒らないでいてあげるわ」
誓ったのは薔薇を作ることだったのだが、オリヴィアは薔薇に誓ったと思ったらしい。全く変わらない表情とは裏腹にオリヴィアの耳が赤いことにローレンスは気づいたが、言えば離れてしまいそうで何も言わずに頷いた。
けれど、ちらりと薔薇を見たオリヴィアが「仕方ないわね」ともう一度小さく呟いてまたローレンスを見上げた。
「ローレンス。お茶が冷めるわ」
軽く胸を押されて、ローレンスは名残を惜しみつつもオリヴィアを腕の中から解放した。
「行くわよ。この先の四阿で良いのよね?」
「はい。そちらにご用意しています」
当たり前のように奥へと進んでいくオリヴィアの後ろ姿に彼女の幻影を見る。彼女もいつもこんな風にローレンスの前を跳ねるように歩いていた。四阿に着くまで一度も振り返らずに、真っ直ぐに―――。
「ローレンス」
ぴたりと足を止めて振り返ったオリヴィアにローレンスは驚いて肩を揺らした。目に映っていたはずの黒に近い茶の髪がとたんに眩い蜜色に塗り替えられる。
「忘れていたわ」
「あの、何を」
先ほど不敬にも触れた赤の瞳が初夏の日差しに美しく輝いて眼差しの強さを更に際立たせる。薔薇のようにみずみずしい唇がきゅっと、挑戦的に上がった。
「わたくしのものになりなさい、ローレンス。返事は?」
蜜色の薔薇か、赤の薔薇か。捧げるのなら何色の薔薇を作ろうかと悩んだが、絶対に赤だと心が決まった。赤の薔薇はそこかしこに溢れているけれど、これほど鮮やかな赤をローレンスは知らない。
ふらりと、誘われるように一歩二歩と近づく。
「……オリヴィアの、望むままに。僕は、オリヴィアの盾になります。生涯の伴侶として、命ある限り」
ローレンスはまたオリヴィアの頬に手を添えて顔を寄せた。今度は嫌なら逃げられるように、ゆっくりと。
一瞬だけ大きくなった赤の瞳がきゅっと閉じられ見えなくなったオリヴィアの額にローレンスは唇でそっと触れて、離れた。
「………ねぇ、ここは跪いて手に口づける場面では無いの?」
「誓い、ですから」
「そうね、と許すべきか、婚約ですらまだなのに二度目なんて不埒だと師匠に倣って引っ叩くべきか、悩むわ」
「では、三度目もしておきますか」
「師匠が引っ叩きに来るわよ」
「師匠はまさか……」
「お義母様ね」
「………もう、義母と呼んでいるんですね」
「駄目かしら」
「いえ、四度目も許されそうだなと思いました」
「あなた、絶対宰相似よ」
「良く言われます」
ローレンスが悪びれもせずに頷くと、呆れたように眉を下げたオリヴィアが「師匠に相談ね…」と首を横に振った。
「オリヴィア」
「なにかしら?」
「いつか…………いつか、薔薇を捧げることをお許しいただけますか?」
「薔薇を?この薔薇ではなく?」
「これは、彼女の薔薇です。だから、あなたの薔薇を、あなたに捧げることを……お許しいただけますか?」
オリヴィアの薔薇に儚さはいらない。強く、気高く、美しく…けれど香りは甘く、そしてとびきり優しく。形は最も王道の、花弁が剣のようにとがった剣弁の、中心の高くなった高芯の、類を見ないくらいの大輪の薔薇が良い。色は迷わず赤。奥に紫を秘めた深い赤だ。
オリヴィアと名付けるのなら、それくらいの花でなければ。
あまりにもじっくりと見つめ過ぎたのか、「そう、ね。良いわ、許すわ」と言うとオリヴィアが苦笑して首を傾げた。
「でもね、この薔薇を捨てては駄目よ。いつかあなたの心が本当に納得できる日が来たら……その時はこの薔薇も、色々な場所で輝けるようにこの庭から旅立たせてあげて。………名前は、そのままで」
「…っ!」
ひゅっと、ローレンスの喉が鳴った。
生きていてはいけない薔薇。名前を告げられない薔薇。
あれからすでに十一年だ。クロエの名は聖人と呼ばれた女性にもいるし、今も王国には沢山のクロエが存在している。彼女だけの名前ではない。だが、見る人が見れば必ず分かる。あの日のオリヴィアが、薔薇を見ただけで気づいたように。
「その、ままで?」
「ええ、そのままで。知っている人は、ちゃんと知っているわ」
王国の正史では、アドラム侯爵家は一族を上げて謀反を起こして全てが粛清されたことになっている。それまでの数百年に及ぶ忠義と貢献を鑑み、主犯であった先代侯爵と次期侯爵のふたり以外は尊厳ある死を賜った、と。
ゆえにアドラムは、表向きには反逆者として嫌悪の対象であり名を呼ぶべきではない一族。その反面、憎むべきか尊ぶべきか偲ぶべきか……誰もが分からず口にすることを躊躇う一族だ。
けれど……。
「ああ、もう。感情表現が薄いと思っていたのに、あなた意外と泣き虫ね?」
「申し訳、ありません……」
柔らかく吹き抜ける初夏の風に、彼女の薔薇の切なくなるような香りがくゆる。
クロエ・アドラム。
建国以来の功臣、王家に寄り添って生きて来た忠臣の家の、最期の姫。
国を、ライオネルを、大切な者たちを守るために反逆者の汚名を着たままで微笑みながら散った気高く美しい薔薇。ローレンスの、最愛。
「ローレンス」
優しい、酷く優しい目をしてオリヴィアがまたローレンスの目元をハンカチで押さえた。
「約束よ?」
ローレンスはぎゅっと唇を噛みしめると、涙を拭ってくれるオリヴィアの手をぎゅっと握って頬に押し付け、小さく「はい」と頷いた。




