6.薔薇の記憶
「誰かと思ったわ………」
約束の時間の五分ほど後。王家の紋章入りの馬車から降りて来たオリヴィアを玄関前で迎えたところ、オリヴィアの第一声がそれだった。
「僕も鏡を見て、若い頃の父かと」
「ええ、そうね。そういう服を着るとあなた、本当に宰相にそっくりよね」
首を傾げて不躾なほどローレンスを上から下まで何度も見たオリヴィアが、何かに気づいたように「ああ」と頷いた。
「言っておくけどわたくし、宰相の顔、割と好きよ」
「それは……ありがとうございます?」
「なぜ疑問形なのよ」
「いえ……すいません」
「謝る意味も分からないわ」
呆れたように眉を下げたオリヴィアにまたも謝りそうになったローレンスはぐっと一度言葉を飲みこむと一礼した。
「ようこそお越しくださいました、オリヴィア王妹殿下。お待ち申し上げておりました」
「お招きありがとう」
それだけ言ってオリヴィアはすっと手を差し出した。
「庭かしら?」
「はい。ご案内いたします」
その手を取り指先に口づける。オリヴィアの後ろを確認すると銀髪の良く見知った顔の護衛役がにやりと笑いながら早く行けとばかりにしっしと手を振ったので、ローレンスはそのままオリヴィアを庭園へと誘った。
表の庭を過ぎ、ローレンスの薔薇園へと入る。「ここの庭は季節問わず美しいのね」と口角を上げるオリヴィアがゆっくりと庭園を眺められるようにローレンスもゆっくりと進む。
「ローレンス」
「はい」
「話は聞いたわね?」
「はい」
「覚悟はできたの?」
オリヴィアの問う覚悟が何なのか、ローレンスは正確には分からない。オリヴィアと結婚する覚悟なのか、オリヴィアの配偶者として今後表に出る覚悟なのか、それとも別の覚悟か。
「分かり、ません」
「分からないの?」
「はい」
「そう………」
十一年前、ローレンスは逃げた。友人たちが最も大変だった時、ローレンスは現実から目を逸らし彼らに背を向けた。そんな弱くてどうしようもないローレンスを今も友人と呼んでくれるのは、ひとえに彼らの優しさゆえだ。
ローレンスが大切な妹であるオリヴィアと婚約することをライオネルは反対しなかった。ウィルフレッドもセシリアも反対しなかった。
一度逃げてしまった自分がまた彼らを支える一端となる。その価値が自分に本当にあるのかが、ローレンスには何よりも分からない。
沈黙のままゆっくりと庭園を進む。盛りを過ぎてしまってはいるが、まだまだ美しい薔薇の庭は風が吹くたびに甘い香りに包まれる。その中に独特の香りが混じり始めた、その時。
「っ!?オリヴィア殿下!?」
突然、オリヴィアがぱっとローレンスの手を放して足早に歩き出した。いくつもの薔薇の花を通り過ぎ、オリヴィアは真っ直ぐにそこへと歩いて行く。その足が向かった場所に気づきローレンスは息を飲み、そして震える足でオリヴィアの後を追った。
ぴたりと、オリヴィアの足が止まった。
「殿下……」
あの日。ローレンスが彼女の薔薇を終わらせることができず呆然と立ち尽くしていたあの場所に、今はオリヴィアが立っている。後ろ姿を見つめるローレンスの眼前で、蜜色と赤が風にふわりと揺れた。
オリヴィアがまとっているのはあの時と同じ赤の、けれどあの時よりもずっと裾の長い、デイドレス。
「綺麗な薔薇ね」
振り返ることなくオリヴィアは言った。
「名前は?」
「っ!?それ、は」
覚えていたのだと、ローレンスは思った。
十一年も前の、庭師の格好をした情けない男と薔薇の記憶。オリヴィアの中ではきっと大したことでは無かったはずのほんの刹那を、オリヴィアもまた覚えていてくれた。
そのことが酷く嬉しくて、それなのにどうしようもなく苦しくて、ローレンスはまたも喉が詰まったように言葉が出なかった。
それどころか、代わりに出てきたのは救いようが無いくらい情けない泣き言だった。
「僕は…僕は薔薇を、捨てられませんでした……」
「わたくしは、わたくしのために育てろと言ったはずよ」
「ですが、これは………!」
「ローレンス」
咎めるように名を呼ばれ、ローレンスはびくりと肩を揺らして俯いた。
「捨てなくては、いけないんです。前を向くには、忘れなくては……。理性では、理解をしているんです。しがみつくなんて、時間の無駄だって。ですが……!」
「ローレンス」
今度は駄々っ子を宥めるように、呆れたように名を呼ばれた。
「ローレンス。わたくし、無駄は嫌いよ」
ぎゅっと、ローレンスは唇を噛みしめた。
理性的な王妹殿下。効率を重視する王妹殿下。並み居る求婚者たちを理屈だけで蹴散らし、その能力を示すことで黙らせた女傑。
情けないローレンスがオリヴィアに差し出せるのはドラモンドという血統と、婚姻を結ぶことで他の男に煩わされずに済むという保証だけ。それこそが、ローレンスがオリヴィアの盾になる道。
分かっているのにそれすら満足にできそうにないほど今も揺れ続けるローレンスはあまりにも弱い。盾になると、父母に言ったのはローレンス自身なのに。
俯いたまま黙ってしまったローレンスの耳に小さなため息が聞こえた。それからこつりと、小さな靴の音。
「………でもね」
小さなため息と共に囁かれた優しく諭すような声にローレンスが恐る恐る顔を上げるとオリヴィアはこちらを振り返っていた。
赤の瞳はあの日と同じ、悲しむような、悼むような、優しい色を浮かべてローレンスを見つめている。
「本当に無駄なのはね、必要無いのにため込んでしまうものや何となくで消えていってしまう時間のことよ。生きるために必要なものは他者からどれほど無駄に見えたとしてもその人には必要なもの。特に心を支えるものは……心を失わないためのものは、どれほど重くても、どれほど邪魔に見えても、それは絶対に無駄なんかじゃない」
一歩、一歩、オリヴィアがローレンスへと近づいて来る。
「捨てなくて良いのよ、ローレンス。大切にして良いの。だって、大切なんでしょう?」
ローレンスの右手が柔らかく温かなものに包まれた瞬間ローレンスはまた、雨が降って来たと、そう思った。




