5.クラバットピン
夜、雨が少し降ったため不安だったが翌朝には上り、しっとりと濡れた庭はほどよく涼しく、そして薔薇たちは朝日に照らされてみずみずしく花開いていた。
ローレンスは薔薇の状態を確認し、雨で濡れた地面を確認した。多少湿ってはいるがオリヴィアが来る頃には乾くだろう。
ゆっくりと、大きく息を吸い込めば雨上がりの薔薇の豊潤な香りが臓腑を満たす。空の色も美しい青。少し暑くなりそうなのが心配だが、四阿であれば風もあるしそれほど問題にはならないはずだ。
後ろに控えていたローレンス付きの執事に予定通りに、と指示を出す。オリヴィアとの約束は午前の茶の時間。茶の手配も茶菓子の手配も済んでいる。一番準備ができていないのはローレンス自身だ。いつも通りの、くたびれたシャツと茶色のトラウザーズのまま。
美しい薔薇の庭園の白亜の四阿。並べられる茶器も菓子も一級品どころか特級品。そこに迎える淑女もまた国で五指に入る貴い女性であり、あの深い赤の眼差しに射貫かれれば誰もが目を逸らせなくなる…いや、心の弱い者はそもそも目を合わせることすらできないような、圧倒的な存在感の美女。
年嵩で、貴族としては凡庸な容姿のローレンスはそれこそ着飾らなければいけないところだが、なぜか『違う』とローレンスは思ってしまう。どうしても、あの日のオリヴィアとのやり取りを思い出してしまう。
「でもさすがに、これは、駄目か」
ローレンスは自分の出で立ちを見てため息を吐いた。
できればローレンスはあの日と同じようにこの姿で、この薔薇の前でオリヴィアを待ちたかった。あの日も今日と同じ良く晴れた、初夏にしては暑い日だった。
オリヴィアは薔薇の前に佇むローレンスを見て何と声を掛けてくれるだろう。あの日から、薔薇を生かし続けたローレンスにどんな表情を向けてくれるだろう。
浮き立つわけでも、暗く沈むわけでもない不思議な感覚。けれど、凪いでいるのとも違う。
「……ばれたらさすがに母上が怖い、か」
口元に苦い笑みを浮かべてローレンスはじっと、薔薇を見つめた。
とろりと甘い蜜のようなオリヴィアの髪よりも淡く、光そのもののようなグローリアの髪よりは濃い。琥珀を淡くしたような、けれどじっと見つめればどこか緑を感じる色。彼女の瞳の色。
「……着替えよう」
何かを振り切るように首をひとつ横に振るとローレンスは離れへは寄らず本邸の自室へとまっすぐに戻った。
扉を開ければ待っていましたとばかりに執事が良い笑顔で部屋に控えていた。見合いの準備を任せていたはずだがと首を傾げると、当然のように他の執事や屋敷の者が動いていますと笑顔で頷かれた。
「若様の準備が一番問題なのです。ちなみに、離れの方でもカイルが若様の捕獲のために控えておりましたよ」
「……さすがに僕も、王妹殿下が来るのに逃げないよ」
「いえ、お逃げになることではなくお着替えをなさらないことを懸念しておりました」
「カイルは待ちぼうけになるね」
「すでにメイドに呼びに行かせておりますよ」
「………さすが」
ローレンスよりも余程優秀な家人たちはローレンスが何もせずともいつも最善を考えて動いている。それでいて、決してローレンスの意に反することはしない。ほとんど。ローレンスの方に酷い問題が無い限りは。
「ウォルト」
「はい、若様」
「見合いにはカイルをつけて」
「そのつもりでございますよ」
「良いの?相手は王妹殿下だよ?」
「もちろん私も側に控えます。ですが……お目通りは必要でございましょう」
カイルは三人いるローレンス付きのうちのひとり。今、嬉々としてローレンスを脱がしにかかっている執事ウォルトの息子であり立場としてはまだ執事補佐。ローレンスより五つも年下だが、領地のカントリーハウスと王都のタウンハウスを合わせてもウォルトの次にローレンスの扱いが上手い。ローレンスがこの家を出る時に連れて行くのはカイルになるだろうとは思っていたが、やはりそういうことだ。
「そうだね。殿下にも、顔は知っておいて欲しいな」
「光栄でございます、坊ちゃま」
「その坊ちゃまっていうの、いい加減止めよう……」
「おっと、つい。失礼いたしました若様」
ウォルトの家は代々ドラモンド公爵家の執事を勤める家系で、男児なら執事や従者、上級使用人に。女児なら侍女や上級メイドになるよう育てられる。
家はカントリーハウスでもタウンハウスでもドラモンド公爵家の敷地内に専用の離れがある。爵位は子爵家。現在の子爵はウォルトの兄であり、ウォルト自身はドラモンド公爵家の持つ男爵位を下賜されている。
ローレンスはほとんどこのウォルトとその妻であるローレンス付きの上級メイドに育てられたと言っても良い。人見知りをし過ぎてどうしても保母や家庭教師に馴染めず逃げ回っていたローレンスを捕まえては教師代わりに様々なことを教えてくれたのはふたりだ。ローレンスがタウンハウスに移った時に希望して領地から一緒に来てくれたほどに。
だからこそ、ローレンスはウォルトに逆らわないし父と母もウォルト夫妻には全幅の信頼を寄せている。ふたりがいなければ、ローレンスはもっと偏屈で、まともに人と話すことすらできない人間に育っていたかもしれない。
「いかがでございましょう」
ウォルトの声でローレンスは我に返った。またも思考に沈んでいたらしい。
鏡を見れば相変わらず父に良く似た平凡な、良く言えば警戒心を抱かれにくい穏やかな容貌の見慣れた男が刺繍の見事なコートまでしっかりと着せられている。胸元にはクラバットと、小さいが見事に赤いピジョンブラッドがついた金細工のクラバットピン。
「これは、外して良い?」
「それが本日の装いの最も重要な点かと存じますが」
「駄目だよ、ウォルト。まだ決まっていないのに殿下の負担になるようなことはいけない」
「王妹殿下にお喜びいただけるかと愚考いたしましたが」
「殿下には思い人がいる。僕にも、思い人がいる」
「……差し出がましいことをいたしました。お許しくださいませ」
元々用意していたのだろう。ピジョンブラッドの代わりに翡翠のクラバットピンが首元を飾る。
「いや、ごめんね」
口角を薄く上げて首を横に振り、ローレンスはもう一度鏡を確認すると「これで」と頷いて目を閉じため息を吐いた。




