3.薔薇の名前
年の割に大人びた、どこか寂し気なオリヴィアの笑顔をぼんやりと眺めているとオリヴィアが困ったように眉を下げた。
「ねえ公子、駄目なら駄目と言っても良いのよ?これはあなたの薔薇なのだから」
「いえ。殿下が望むのなら、全てお贈りします」
「良いの?」
「はい。最期に愛でてくださるのが殿下であれば、きっと、この薔薇たちも嬉しいでしょう」
ローレンスがうつろに微笑みながら頷くとオリヴィアの赤の瞳が一瞬痛ましげに細められたような気がしたが、気のせいだったのか瞬きのあとにローレンスの目に映ったのは静かな笑みだった。
「ありがとう。……ねえ、公子」
「はい」
「この薔薇の名前を聞いても良い?」
「っ、名前、ですか」
名前。薔薇の名前。
この薔薇は彼女のために作った薔薇だ。だから名前も、彼女の名前を冠している。いかにオリヴィアがまだ十三とはいえ、今、彼女の名を王族の前で口にすることはローレンスはできなかった。
「あ…な、まえ……」
適当な名前を答えるでも良い、うまい受け答えはいくらでもあるはずなのにローレンスは答えられなかった。彼女の色の、彼女のための薔薇。この薔薇に彼女の名前以外を嘘でも、いっときでも答えることをローレンスの心が拒否した。
どう答えるべきか分からずローレンスが視線を泳がせていると、オリヴィアが小さくため息を吐いた。
「そうね…ごめんなさい、公子」
「え?」
「開発中の薔薇であればまだ名前がついていないこともあるわよね。とても綺麗だったからもう名前もあるのかと思ったのよ。困らせてごめんなさいね」
「あ、いえ。こちらこそ…申し訳ありません……」
眉を下げて微笑んだオリヴィアに、ローレンスは曖昧に笑った。酷い罪悪感と、安堵。それと、上手く嘘を吐くことも誤魔化すこともできない自分の愚鈍さへの失望。
ローレンスはいつも駄目なのだ。考えて、考えて、考え過ぎて。気が付けば何もできないまま全てが終わっている。もう、周りは次へと動き出している。
もしも、などと思っても意味が無いとは分かっている。でも、何度も思ってしまうのだ。もしもローレンスがもっと自分に自信を持てていたら…彼女の前に薔薇と共に跪くことができていたら。もしかしたら、何か変わっていたのだろうか。彼女は今も、この薔薇園で「ローレンスは相変わらずのんびりね」などと笑ってくれただろうか。
焦点の合わないローレンスの瞳に、ふわりと、赤が揺れた。
はっとして前を見れば少しだけ強く吹いた風にオリヴィアの蜜色の髪と、明るい赤のふくらはぎほどの長さのドレスの裾が揺れている。
「あ……」
ぱちりと、オリヴィアの赤の瞳と目が合った。強く、それでいて優しい眼差しになぜだか泣きそうになりローレンスが唇を噛みしめると、オリヴィアは小さく口角を上げた。
「ねえ、公子」
「………は、い」
「覚えていたらで良いの。もしも覚えていたら………。この薔薇を、わたくしの結婚祝いに贈ってちょうだい」
「え?」
「この美しい薔薇を……そうね、十年後くらいにはさすがにわたくしも結婚すると思うのよ。だからその時に、覚えていたらで良いの。わたくしに、花束にして贈ってちょうだい」
「っ!!!」
捨てようと思っていたのだ、薔薇を。ローレンスはこの薔薇を、思いごと、記憶ごと、捨ててしまおうと思っていたのだ。
なのに―――。
「十年後、ですか」
「ええ、わたくしの立場が少し、何と言うのかしら、難しいからもう少しかかってしまうかもしれないけれど…」
「それまで、この薔薇を、生かし続けろ、と?」
「ええ……。覚えていたらで、良いのよ」
ごくりと、ローレンスの喉が鳴った。
許されない薔薇。生きていてはいけない薔薇。もう、名前を呼べない薔薇。七年以上の間、ローレンスが大切に育てて来た薔薇。
「良いの、でしょうか」
「なにがかしら?」
「この薔薇を……捨てなくて………」
「捨てたいの?」
「分かりません………」
「そう、ならば捨てなくて良いわ。わたくしのために育ててちょうだい」
「殿下の、ために」
「そうよ、わたくしのため。……そう、なさい」
雨が、降って来たと思った。
頬に、口元に、ぽつぽつと水が垂れるからローレンスは思わず空を仰いだが憎らしいほどの晴天で。それなのにローレンスの頬はずっと濡れ続けていて、行儀が悪いと分かっているのに、ローレンスは袖口でぐっと頬と目元を拭った。
「殿下のために、生かします。殿下の結婚式に、贈らせてください」
「ええ、お願いね。覚えていたらで、良いわ」
そう言ってオリヴィアは静かに頷いた。
それから程なくしてオリヴィアの侍女が呼びに来てあの日はそこで別れた。
それからもセシリアやライオネルに呼ばれたりちょっとした行事に参加させられた時にオリヴィアを見かけることはあったがほとんど関わることも無いまま十一年が過ぎた。
周囲との関わりをできる限り絶っていたローレンスは小耳に挟むだけだったが、あの日十三歳だった少女はいつの間にか二十四歳の気高く美しい淑女になり、あの力強い眼差しそのままに並み居る求婚者たちをその知性と論理で次々と蹴散らす女傑になったらしい。
けれど、ローレンスの中ではあの日のオリヴィアが…静かに微笑み花弁に優しく触れるオリヴィアの、どこまでも悲し気な赤の瞳だけがローレンスの心に残り続けた。
ローレンスは十一年前のあの日、オリヴィアに捨てない理由を貰った。捨てたくなったらいつ捨てても良い理由までももらった。
オリヴィアがどこまで分かっていてあんな提案をくれたのかは分からない。
だが、あの日ふらりと現れたオリヴィアは間違いなくローレンスの心をほんの少しだけ救い、淡い琥珀色の彼女の薔薇は今もこうしてここで咲いている。ローレンスは今も、オリヴィアのためにと自分に言い訳をしてこの薔薇を育て続けている。




