1.名残の薔薇
第十章『胃痛持ち宰相閣下の後継者探しと胃薬について』の37話の後のお話。
ばちり、ぱちりと花がらを摘んでいく。
見た目に良くないのもあるが薔薇は実をつけると弱る。夏の剪定にはまだ早いが、花が萎れてきたら早い段階で花がらを切ってやる方が良い。
すでに春薔薇の盛りには遅く六割程度の開花だが、それでもローレンスが手塩にかけて手入れをしている薔薇たちは美しく咲いて春の名残を惜しんでいる。
「そろそろ花の形が崩れて来る、か」
ぱちりと、今日の最後の花がらを摘み、ローレンスは額の汗を袖で拭いながら呟いた。あまり行儀の良いことでは無いが気にしない。そもそも庭師も青ざめそうなよれよれのシャツとトラウザーズで庭仕事に勤しんでいること自体が公爵家の子息として大問題なのだから今更だ。
摘んだ花がらを麻袋に詰め、道具を道具箱へしまいゆっくりと後ろへ数歩下がる。そのまま周囲を見回せば、ふわりとぬるい風が吹いて濃い薔薇の香りを運んで来る。
「………良い、かな」
今、ローレンスの目の前にあるのは数あるローレンスの薔薇の中で最も特別な薔薇。いくつも品種改良をして品評会で賞をとってきたローレンスの最高傑作であり、同時に最も表に出せない薔薇だ。どの薔薇よりも気高く、どの薔薇よりも堂々と、そしてどの薔薇よりも弱い。ローレンスの庭にだけ咲く、特別な薔薇。
この薔薇と向き合う時間が長いせいで『ローレンス・ドラモンド公子は庭の薔薇と結婚している』などと揶揄されることもあるほど、ローレンスはこの薔薇を愛している。
「………覚えて、いるだろうか」
ローレンスは明日、この庭に王妹オリヴィアを招いている。
美しさという意味では今の時期、この区画の薔薇園よりも別の区画の薔薇園や庭園の方が見頃だろう。けれどオリヴィアと会うなら絶対にここだと、父でありこの国の宰相であるヴァージル・ドラモンド公爵にオリヴィアとの婚約を提案されてローレンスはすぐに思った。
あの日も、ローレンスはここに立っていた。
十一年前のちょうど今頃、今は一面に広がっているこの薔薇はまだ数本でやっと品種として落ち着いてきたころだった。少しずつ増やして数年後には品評会へ出してみようか…そういう段階だった。
けれど、ローレンスはあの日、この薔薇を全て処分…捨てるつもりで綺麗に咲いていた花も、蕾も、全て切り落とした。
本当は根こそぎ抜いて燃やしてしまうつもりだった。けれどできずに呆然と…あたりに散らばった切り落とした薔薇に囲まれて呆然と薔薇を見つめていた時、唐突に後ろから声が掛かった。
「綺麗な薔薇ね、何ていう名前なの?」
びくりと、ローレンスが肩を震わせてゆっくりと振り向けば、そこには見覚えのある少女が立っていた。
蜜色の髪に赤の瞳。今よりもずっと幼い顔立ちの、けれどあの強い眼差しは今と変わらぬままの当時は王女―――王妹オリヴィアだった。
「………名前」
「ええ、名前。ずいぶん切ってしまったみたいだけれど、とても綺麗」
そう言うとオリヴィアは足元に落ちていた薔薇を一輪拾い目を閉じて香りを嗅ぐように口元に近づけた。
「触らないでください」
思わず、ローレンスは言っていた。王族を相手に挨拶もせずずいぶん無礼な態度だったと思う。あの時もローレンスは今と似たようなくたびれた服装で、とてもぱっと見で公子には見えなかったはずだ。ただの若い庭師見習いくらいに見えただろう。けれど、オリヴィアは怒ることも無く軽く口角を上げただけだった。
「あら、落ちていたからいらないのかと。何か駄目だったかしら?」
「いえ……申し訳ありません、失礼をいたしました」
「良いわ、勝手に庭園に入って不躾なことを聞いたのはわたくしのほうだもの」
そう言ってオリヴィアは少し名残惜しそうに薔薇をそっと地面に置こうとした。
「あの!」
「え?」
「あの、どうぞ……それ………」
「よろしいの?」
「はい……記念に、どうぞ」
今日で消えてしまう薔薇。今日で最期の薔薇。それならばこの、彼女とどこか似た眼差しの少女に貰って欲しいと、ローレンスはそう思った。
「ありがとう……本当に、美しいわ。香りも少し独特で…何だか切なくなるような……気高くて、気品に溢れて、力強くて。なのにそれでいて、どこか儚い」
「そう、そうなんです。大きな花を咲かせる薔薇なんですが、少し弱くて水の量とか、肥料の配合とか、切り戻しの時期とか、温度や日差しの管理とか…本当に我儘で。とても手が掛かりますが……その分余計にでしょうか。咲いた時は……どうしようもなく美しくて、どうしようもなく、愛しい」
―――まるで彼女そのもののように。
ローレンスはその言葉をぐっと飲みこんだ。それは今……いや、これから先もずっと、絶対に口にしてはいけない言葉だ。だからこそ、ローレンスはこの薔薇を終わりにしようとしていたのだから。
「そう。あなたはこの薔薇を愛しているのね」
「愛して………そう、ですね。はい。僕はこの薔薇を、愛しています」
この薔薇を、彼女を、ローレンスは愛していた。幼い頃から…初めて茶会で顔を合わせた日から、ローレンスの愛は彼女のものだ。彼女は、ローレンスに見向きもしなかったけれど。
黒に近い茶の艶やかな髪、少し釣り気味の大きな目は淡い琥珀。決して目立つ色彩では無いのに強い印象を残すのはその眼差しの強さときゅっと上がった赤く潤んだ唇のせいかもしれない。
目が合った瞬間、どこか好戦的に細められた彼女のその視線と鮮やかな笑顔にローレンスはひと目で恋に落ちたのだと思う。
思えば、ローレンスが絵を描き始めたのはあの頃からだ。彼女のあの何とも言えない眼差しをずっと見ていたくて、ローレンスは何枚も何枚も彼女の絵を描いた。
父にも母にも呆れられたが、あまりにもローレンスが熱心に絵を描くことと才能が見られたこともあり、勉学と貴族としての生活を怠らないのなら、と自由にさせてくれた。




