第6話:清算
期末試験が終わった、七月の終わりの土曜日。僕は再び、渋谷のスクランていた。しかし、今日は以前とは全く違っていた。僕はもはや、この巨大な都市の奔流に翻弄される無名の粒子ではない。明確な意志を持って、この場所に立っていた。僕は、水無月さんを待っていた。
約束をしたわけではない。しかし、僕には確信があった。彼女もまた、ここに来るだろうと。この物語が始まった場所で、全てを終わらせるために。いや、あるいは、何かを新しく始めるために。
信号が赤に変わり、人々が歩みを止める。巨大なビジョンが、僕の頭上で無音の映像を垂れ流している。僕は、向かい側の歩道に立つ群衆の中から、彼女の姿を探した。見慣れた白いワンピースが、人垣の向こうに見えた気がした。僕の心臓が、静かに、しかし力強く鼓動を始める。
信号が青に変わる。世界が、再び動き出す。四方八方から押し寄せる人の波。僕はその流れに逆らうように、まっすぐに彼女の元へと歩き出した。人々が僕の肩にぶつかり、訝しげな顔で振り返る。だが、僕の目には、一点を目指して進む自分の道のほか、何も映っていなかった。
彼女もまた、僕に気づいていた。群衆の真ん中で、彼女は立ち止まり、まっすぐに僕を見ていた。僕と彼女の間を、無数の人々が川のように流れていく。だが、僕らの間には、もはやあの日のような不自然な静寂はなかった。むしろ、周囲の喧騒が、僕らの存在を際立たせるためのBGMのように聞こえた。
僕は、彼女の数歩手前で立ち止まった。そして、ポケットからあの五百円硬貨を取り出した。この数週間、僕の思考の中心にあり続けた、この小さな金属片。僕はそれを、彼女の目の前に差し出した。
「水無月さん」
僕は、はっきりとした声で言った。
「これは、君が僕に貸してくれた五百円だ。自販機の前で借りた、ただの五百円。僕はそれを返す。でも、君が僕に投げた問いは、確かに受け取った」
彼女は、驚いたように少しだけ目を見開いた。
「君は、記号なんかじゃない。君が水槽の中にいると感じるなら、僕も水槽の外から君を見ているだけの人間だった。でも、君が投げたこの石ころが、僕らの間のガラスにひびを入れた。だから、もう一人で寂しそうな顔をしなくていい」
僕の言葉が、喧騒の中でどれだけ彼女に届いたかはわからない。しかし、彼女は僕の目をじっと見つめ、そして、ゆっくりと僕の手から五百円硬貨を受け取った。
硬貨が、僕の手から彼女の手のひらに渡った瞬間。世界に、音が戻ってきた。車のクラクション、広告の音楽、人々の笑い声。全てが、まるでボリュームのつまみを最大まで上げたかのように、僕の耳に流れ込んできた。世界の再起動。僕と彼女を隔てていた特別なフィルターが取り払われ、僕らは再び、この雑然とした日常の中に、ただの高校生として放り出された。
彼女は、手のひらの上の硬貨をしばらく見つめていた。そして、顔を上げて僕を見た。その顔には、初めて見る表情が浮かんでいた。それは、完璧な微笑みでも、物憂げな影でもなかった。困惑と、安堵と、ほんの少しの照れくささが入り混じった、どこまでも曖昧で、不完全で、そして信じられないほど美しい、ただの少女の微笑みだった。
「ありがとう」
彼女は、そう言った。その声は、もう僕の鼓膜だけに響く特別なものではなく、周囲の喧騒にかき消されそうな、普通の声だった。
僕も、ただ微笑み返した。信号が点滅を始める。僕らは、言葉を交わすこともなく、それぞれの方向へと歩き出した。僕は雑踏の中に溶けていく彼女の白いワンピースの背中を、もう振り返らなかった。
僕と彼女の間にあった「債務」は、確かに清算された。しかし、僕らの間には、全く新しい、まだ名前のない関係性が生まれたような気がした。それは、不確かな記憶から始まった、奇妙な物語の、確かな結末だった。
ポケットにはもう、あの硬貨はない。しかし、その重みの代わりに、僕の胸の中には、温かくて、少しだけくすぐったいような、新しい感情が宿っていた。渋谷の空は、どこまでも青く澄み渡っていた。