第5話:投げかけた問い
迷宮を彷徨い続けた僕に、転機は唐突に訪れた。それは、期末試験を数日後に控えた、蒸し暑い放課後のことだった。僕は居残りで勉強をするため、ほとんど人のいない図書室の片隅に座っていた。分厚い参考書と格闘していると、不意に、僕の向かいの椅子が引かれる音がした。
顔を上げると、そこに水無月さんがいた。彼女は手に一冊の古い画集を持っていて、静かに僕の正面に腰を下ろした。僕は息を呑んだ。これまで僕がどれだけ追いかけても捕まらなかった彼女が、自ら僕の前に現れたのだ。図書室の静寂が、あの日、交差点で感じたものと同じ種類の、濃密な沈黙へと変わっていく。
「邪魔だったかしら」
彼女が、囁くような声で言った。
「いや、そんなことはない」
僕はかろうじて、そう答えるのが精一杯だった。心臓が早鐘のように打ち、ポケットの中の五百円硬貨が、まるで生き物のように熱を帯びていくのを感じた。
沈黙が続く。彼女は手元の画集に視線を落としたまま、ページをめくるでもなく、ただじっとしている。僕は、今しかない、と思った。この機会を逃せば、僕は永遠にこの迷宮から抜け出せないだろう。
「水無月さん」
僕の声は、自分でも驚くほど震えていた。
「なぜ、あの交差点で?」
僕の言葉に、彼女はゆっくりと顔を上げた。その瞳は、深い森の湖のように静かで、僕の姿を映し込んでいる。しかし、その奥にある感情を読み取ることはできない。
「なぜ、今まで返させてくれなかったんだ?」
僕は続けた。それは問いかけであると同時に、僕の独白でもあった。僕がどれだけこの五百円に、そして彼女自身に振り回されてきたか。僕の言葉は、まるで堰を切ったように溢れ出した。価値のパラドックスについて、水槽の熱帯魚について、蜃気楼のような彼女について。僕は、この数週間で僕の中に溜め込んできた全ての思考と感情を、彼女の前にぶちまけた。
僕が語り終えると、再び長い沈黙が訪れた。彼女は僕の言葉を、まるでスポンジが水を吸い込むように、ただ静かに受け止めているようだった。やがて、彼女は小さく、ほとんど聞こえないような声で呟いた。
「……あなただけだったから」
「え?」
「あの時、交差点で。みんな、私を『水無月さん』としてしか見ていなかった。でも、あなたの目だけは違った。あなたは、ただそこにいる『誰か』として、私を見ていた」
その言葉の意味を、僕はすぐには理解できなかった。彼女は続けた。
「みんなが私に求めるのは、完璧なピアニストで、優等生の『水無月さん』。家に帰ってもそう。誰も、ただの私を見てくれない。私は、記号でできているの。でも、あの交差点で、大勢の知らない人たちの中で、あなたの視線だけが、私に貼り付けられた記号をすり抜けて、まっすぐに届いた気がしたの」
僕は、雷に打たれたような衝撃を受けた。僕が彼女を「遠い存在」「記号」だと感じていた、その視線こそが、彼女にとっては唯一、記号の外側から向けられた視線だったというのか。なんという皮肉だろう。
「だから、試してみたくなったの、この人になら、意味のないボールを投げても、受け止めてくれるんじゃないかって。ただのお金じゃない、意味のわからない、面倒くさいだけの、この五百円を」
彼女の瞳が、わずかに潤んでいるように見えた。それは僕が初めて見る、彼女の完璧な仮面の下の、脆くて、人間的な表情だった。水槽のガラスに、確かなひびが入った瞬間だった。彼女は、僕が思っていたような絶対的な存在ではなかった。彼女もまた、自分を閉じ込める見えない檻の中で、息苦しさを感じていたのだ。
あの五百円は、彼女がその檻の中から外の世界に向かって投げた、小さな石ころだったのだ。誰かに気づいてほしい、ここにいるのは記号じゃない、と叫ぶ、声にならないSOSだったのだ。
「ごめんなさい。困らせたわね」
彼女はそう言って、寂しそうに微笑んだ。僕は、何も言えなかった。ただ、ポケットの中の硬貨を強く握りしめた。その重みが、今は全く違う意味を持っていた。それはもはや呪縛ではなく、彼女が僕に託した、か弱く、しかし確かな信頼の証のように感じられた。
僕はこの時、ようやく理解した。僕が返すべきだったのは、単なる五百円硬貨ではなかったのだ。彼女が投げた問いに対して、僕自身の言葉で、僕自身の答えを返すこと。それこそが、この長い返済劇の、本当の結末なのだと。




