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第4話:価値のパラドックス

水無月さんへの観察は、僕を奇妙な思索へと導いた。それはもはや彼女個人への興味というより、僕と彼女の間に横たわる、あの五百円硬貨そのものに向けられた、ほとんど哲学的とも言える問いだった。


五百円。

その価値は、一体何によって保証されているのだろう。日本のどこででも、自動販売機で冷たい飲料を四本買い、若干のお釣りがくる値段。古書店に足を運べば、日焼けした文庫本が二、三冊は手に入るだろう。それは昼食の代金にもなり得るし、電車に乗って少し遠くの街へ行くための切符にもなる。つまり、五百円とは、我々の日常における様々な欲求や必要性と交換可能な、極めて機能的で代替可能な価値の単位であるはずだった。


しかし、僕のポケットに鎮座するこの五百円硬貨は、その普遍的なルールから逸脱していた。それは他のいかなる五百円硬貨とも交換不可能であり、いかなる商品やサービスとも等価ではない。

この金属片は、水無月さんから僕へと渡され、そして僕から彼女へと返される、という一方通行の運命を宿命づけられている。それはもはや貨幣ではなく、失われたパズルの最後のピースであり、開かれることのない扉の唯一の鍵だった。この世にたった一つしか存在しない、絶対的な価値を持つ「何か」へと変容してしまっていた。


僕は週末、あてもなく渋谷の街を歩き回った。雑踏に身を置き、人々が貨幣という共通言語を用いて、いかに滑らかに、そして無感情に価値の交換を行っているかを観察した。

カフェで客が千円札を店員に渡し、コーヒーとサンドイッチを受け取る。アパレルショップで若者がクレジットカードを提示し、高価なスニーカーの入った紙袋を嬉しそうに抱える。

その光景は、巨大で精緻な機械の内部を見るようだった。誰もが貨幣の価値を信じ、そのシステムに自らを委ねている。その滑らかな流れの中で、僕だけが、たった一枚の硬貨をポケットにしまい込み、その流れに乗ることのできない異物となっていた。


僕は大型書店の哲学書の棚の前に立ち、価値論や貨幣論に関する本を手に取った。難解な言葉の羅列が、僕の混乱を助長するばかりだった。マルクスは、商品が持つ「使用価値」と「交換価値」について語っていた。僕の五百円は、もはや飲料を買うという使用価値を持たず、他の何かと交換される価値も失っている。あるのはただ、水無月さんに返却される、という一点のみに向けられた「関係価値」とでも言うべきものだった。その価値は、僕と彼女という、たった二人の人間にしか通用しない。なんと孤独で、なんと傲慢な価値だろうか。


このパラドックスは、僕を奇妙な陶酔感に浸らせた。この巨大な資本主義のシステムの中で、僕と彼女だけが、二人だけの経済圏を築いている。それは滑稽な妄想であると同時に、抗いがたい魅力を持つ思考だった。スクランブル交差点でのあの出来事は、彼女が僕を、この陳腐な日常のアルゴリズムから引きずり出し、二人だけの秘密のゲームへと誘うための招待状だったのではないか。


僕はふと、あの交差点の真ん中に再び立っていた。信号が青に変わり、無数の人々が交錯する。誰もがそれぞれの目的のために歩き、価値を交換し、消費していく。その中で、僕だけがポケットの硬貨の重みを感じながら、立ち尽くしている。


この五百円は、僕に何を見させようとしているのか。それは、あらゆるものが値段をつけられ、相対化されていくこの世界で、決して値札をつけることのできない「何か」の存在を、僕に突きつけているのかもしれない。友情、愛情、信頼、あるいは孤独。そういった、数値化できないものたち。水無月さんは、そのことを僕に教えようとしているのだろうか。完璧な記号として生きる彼女が、その記号では測れない領域の存在を、この五百円に託して僕に投げかけたのだとしたら。


僕の思考は、もはや迷宮そのものだった。出口は見えない。しかし、僕はその迷宮を彷徨うことに、ある種の喜びすら感じ始めていた。なぜなら、その迷宮は、僕と彼女だけが共有する、秘密の場所だったからだ。

僕はポケットから五百円硬貨を取り出し、手のひらの上で転がした。鈍い銀色の輝きが、渋谷のけばけばしいネオンを映し込んでいる。その輝きの中に、僕は僕自身の、そしておそらくは彼女の、孤独な魂の輪郭を見たような気がした。

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