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第3話: 水槽の中の熱帯魚

追いかけることを諦めた僕は、戦略を変えることにした。それは敗北宣言のようでもあり、同時に、より深い領域へ足を踏み入れるための新たな覚悟でもあった。僕はもう、水無月さんを性急に捕まえようとはしない。その代わり、僕はただ、観察することにした。教室の南側、窓際から二番目という僕の席は、斜め前方に座る彼女を観察するには、好都合な位置にあった。


僕は、完璧な観察者になろうと努めた。感情を排し、先入観を捨て、ただそこにあるがままの事象を記録する科学者のように。


水無月さんは、やはり完璧だった。数学の教師が黒板に難解な数式を書き連ねる間、彼女の背筋は少しも揺らぐことがない。滑らかな黒髪が、時折窓から吹き込む風に静かにそよぐ。彼女がノートを取るために動かすシャープペンシルの先端からは、カリ、カリ、という乾いた、しかし規則正しいリズムの音が聞こえてくるようだった。

古典の授業で、彼女が指名されて立ち上がり、よどみなく本文を朗読する声は、まるで訓練されたアナウンサーのように澄んでいて、感情の起伏を感じさせなかった。その完璧さは、時に僕を不安にさせた。それは生身の人間の持つ「揺らぎ」や「遊び」といったものを、一切排除した美しさだったからだ。


僕は以前、彼女のことを「水槽の中の熱帯魚」のようだと感じていたが、この観察を通じて、その比喩はより一層のリアリティを帯びて僕に迫ってきた。教室という名の、透明だが強固な水槽。その中で、彼女は決められた生態を完璧に演じている。鮮やかな色彩を誇り、優雅にひれを動かし、水槽を訪れる誰もがその美しさに感嘆する。しかし、誰も水槽の中に手を入れることはしない。彼女もまた、水槽の外の世界に興味を示すそぶりを見せない。

僕のいるこちらの世界は、雑然としていて、不確かで、時に醜い。水槽の外から彼女を眺める僕と、水槽の内側で完璧な世界を生きる彼女との間には、目には見えないが、決して越えることのできない一枚のガラスが存在していた。


時折、クラスメイトたちの交わす噂話が、情報という名の餌のように僕の耳に投げ込まれた。

「水無月さん、またピアノのコンクールで全国一位だったらしいよ」

「そりゃそうでしょ。お父さん、世界的な指揮者なんでしょ? サラブレッドだよ」

「でもさ、時々、屋上で一人で空を見てる時あるよね。なんか、すごく寂しそうな顔して」

「まさか。あれは物思いに耽ってるだけだって。そういうキャラじゃん」


これらの断片的な情報は、彼女の人間的な実像を僕に教えてはくれなかった。むしろ、その逆だった。ピアニスト、良家の令嬢、物憂げな美少女――そういった記号が彼女の周りに無数に貼り付けられ、彼女の神話性を高めていく。それはあたかも、熱帯魚の学名や原産地、生態を記したプレートを読むような行為であり、その知識が、僕と熱帯魚そのものとの距離を縮めることには繋がらないのと同じだった。


そんな観察を続けていた、ある雨の日の放課後のことだ。僕は図書委員の仕事を終え、一人で昇降口へと向かっていた。外は激しい雨が降りしきり、傘を持たない生徒たちが数人、雨が弱まるのを待っている。

その人垣の少し離れた場所で、僕は水無月さんを見つけた。彼女は一人で、濡れた紺色の折りたたみ傘を、細い指で丁寧に畳んでいた。水滴が彼女の白いブラウスの袖をわずかに濡らし、床に小さな染みを作っている。


その時の彼女は、いつもの完璧なオーラを纏ってはいなかった。眉間に寄せられたかすかな皺、わずかに伏せられた瞳、固く結ばれた唇。そこには、ただ目の前の厄介な作業に集中する、一人の少女の姿があった。僕はそこに初めて、記号化されていない「人間」の生々しい気配を感じ取り、不意に心臓が大きく脈打つのを感じた。


僕の視線に気づいたのだろうか。彼女はふと顔を上げ、僕と目が合った。時間が止まった。僕は息を呑んだ。何かを言わなければ。今なら、あの五百円のことを切り出せるかもしれない。しかし、僕が口を開くより先に、彼女の表情はすっと変化した。憂いを帯びた影は瞬時に消え去り、そこにはいつもの、あの完璧で、どこか遠い微笑みが浮かんでいた。彼女は僕に小さく会釈すると、何も言わずに傘立てに傘を置き、昇降口の雑踏の中へと消えていった。


僕はその場に立ち尽くしたまま、彼女が消えた空間を呆然と見つめていた。あの瞬間の、無防備な表情。あれこそが、水槽のガラスに偶然生じた、一瞬のひび割れだったのではないか。


僕は確信した。あの交差点での出来事も、この不可解な鬼ごっこも、全てはこの水槽と関係があるのだと。完璧な世界の住人であるはずの彼女が、なぜ僕のような不確かな世界の住人に対し、「債務」という名の歪んだコミュニケーションを求めたのか。彼女は、あのガラスを叩き割ってくれる誰かを待っているのだろうか。それとも、ただ、ガラスの向こう側から自分をじっと見つめてくれる存在を求めているだけなのだろうか。


僕の心は、二つの相反する感情に引き裂かれそうだった。彼女の真実に触れたいという強い欲求と、彼女のその壊れそうなほどの完璧さを、この手で汚してはならないという身が縮む。。まるで、美しい熱帯魚に魅せられながらも、その水槽に指一本触れることすら躊躇うように。


ポケットの中の五百円硬貨が、また一つ、新たな問いを僕に投げかけていた。僕は、ただ見つめ続けることしかできないのだろうか。

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