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第2話:不在の債権者

交差点での出来事は、一夜明けても僕の頭から離れなかった。あの奇妙な静寂と、群衆の中の孤立感。そして、鼓膜に直接響いた水無月さんの声。それは夢だったのかもしれない、と僕は半ば本気で考え始めていた。しかし、ジーンズのポケットを探ると、昨日と同じ場所にあの五百円硬貨は確かに存在し、その冷たい金属の感触が、あれは紛れもない現実だったのだと僕に告げていた。


僕はその日から、「債務者」になった。たかが五百円。されど五百円。その金額の多寡はもはや問題ではなかった。僕と水無月さんという、本来交わるはずのなかった二つの点の間に、一本の細いが、しかし決して無視できない線が引かれてしまった。僕の役割は、その線を断ち切ること――すなわち、返済を完了することだった。


月曜日の朝、僕はいつもより少しだけ早く教室のドアをくぐった。ポケットの中の五百円玉を、お守りのように握りしめながら。彼女が登校してくるのを待ち構え、何でもないことのように、「はい、これ」と硬貨を手渡す。僕が描いたシナリオは、それだけの内容だった。しかし、その単純なはずの行為が、これほどまでに困難なクエストになろうとは、その時の僕には予想もできなかった。


水無月さんは、始業のチャイムが鳴る直前に、いつもと変わらぬ涼しい顔で教室に入ってきた。僕は席を立ち、彼女に近づこうとした。その刹那、僕と彼女の間に、クラスのムードメーカーである快活な女子生徒が割って入った。

「ねえ水無月さん、週末のコンクールどうだった?」

その声に、周囲の生徒たちの関心が一度に彼女へと集中する。僕は動きを止め、人垣の向こうで淡く微笑む彼女の横顔を、ただ見つめることしかできなかった。まるで、見えない壁に阻まれたかのようだった。


一度目の機会は、そうして失われた。休み時間になるたびに、僕は彼女の姿を探した。教室で友人と談笑している彼女を見つけ、今度こそ、と意を決する。だが僕が二、三歩踏み出したところで、別のクラスの男子が彼女を呼びに来る。

「水無月さん、先生が呼んでるぞ」

彼女は小さく頷き、僕に一瞥もくれることなく廊下の向こうへ消えていく。彼女の背中が雑踏に紛れて見えなくなるのを、僕はまたしても為す術なく見送った。


昼休み、僕は弁当もそこそこに、彼女がよく利用するという図書室へ向かった。しかし、そこに彼女の姿はなかった。購買のパンを頬張る生徒たちの群れの中にも、中庭のベンチにも、彼女はいなかった。彼女はまるで、僕の視線そのものを避けるかのように、僕の行動範囲から常に一歩先んじて姿を消してしまうのだ。


これは果たして、偶然の連続なのだろうか。それとも、彼女による意図的な回避行動なのだろうか。僕の心の中で、疑念がじわじわと黒い染みのように広がっていく。


放課後、僕は最後の望みをかけて、彼女の友人である例の快活な女子生徒に声をかけた。

「あのさ、水無月さん知らない?」

僕のぎこちない問いに、彼女はきょとんとした顔で小首を傾げた。

「水無月さん? さっきまでいたけど……あ、そういえば土曜日に渋谷で見かけたって言ってた子いたよ。あんたもいたの?」


その言葉に、僕の心臓がどきりと音を立てた。あれは僕の妄想ではなかった。

「いや、俺は……まあ、用事があって」

「ふうん。あの子、時々どこにいるか全然わかんないときあるよね。まるで蜃気楼みたいじゃない?」

彼女は悪気なく笑いながらそう言って、友達の元へ駆けていった。


蜃気楼。その言葉は、僕の感じていたもどかしさの正体を的確に射抜いていた。僕は確かに彼女を見ているはずなのに、手を伸ばすとそこには何もない。追いかければ追いかけるほど、彼女は遠ざかっていく。


ポケットの中の五百円硬貨が、ずしりと重みを増したように感じられた。それはもはや単なる金属片ではなく、僕の無力さと、この不可解な状況そのものを象徴する呪物のように思えた。返済という単純な行為が、なぜこれほどまでに複雑な儀式性を帯びてしまったのか。この状況自体が、水無月さんの仕掛けた巧妙なゲームなのではないか。そして僕は、ルールも知らされぬまま、その盤上で踊らされている哀れな駒なのではないか。


生徒たちがほとんど帰ってしまった夕暮れの校舎を、僕は一人で彷徨っていた。西陽が長い影を廊下に落とし、教室の窓ガラスをオレンジ色に染めている。僕は彼女の机にそっと近づき、誰も座っていないその椅子を眺めた。そこには、彼女の残り香も、生きた痕跡も、何も感じられなかった。まるで、最初から誰もいなかったかのように、あまりにも空虚で、静かだった。


僕は、不在の債権者を探し続ける、孤独な債務者だった。夕闇が迫る校舎に立ち尽くし、僕はポケットの硬貨を強く握りしめた。その冷たさだけが、僕と彼女を繋ぐ唯一の、そしてあまりにも頼りない接点だった。

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