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第1話:アルゴリズム

僕の記憶というのは、どうも信頼に足るものではないらしい。それは例えば、明け方の微睡みの中で見た夢の精緻なディテールが、覚醒という名の強い光を浴びてたちまち白く飛んでしまうのに似ている。

あるいは、長い間磨かれることのなかった銀食器の表面が、鈍い酸化膜に覆われて本来の輝きを失っていく過程にも似ている。確かな輪郭があったはずの出来事が、時間の経過という名の風化作用によって、その角を丸められ、やがては曖昧な印象の塊へと変質してしまうのだ。


昨日、僕が水無月さんから五百円を借りたという事実も、その不確かな記憶のコレクションに新たに加わった一つだった。


水無月(みなづき)さん。その姓が、彼女という存在の本質を的確に言い表しているように僕には常々思えた。梅雨の晴れ間に不意に差し込む、どこか湿り気を帯びた、それでいて抗いがたいほど強い陽光。

クラスの誰もがその輝きに目を細め、羨望と畏怖の入り混じった溜息の末に、彼女を「クラス一の美少女」という便利なカテゴリーに分類して安心していた。


僕もまた、その他大勢の凡庸な観測者の一人に過ぎなかった。彼女の完璧すぎる造形は、もはや現実感を伴わない。それは遠い異国の風景が刷られた美しい切手であり、美術館の温度管理されたガラスケースに収められた古代ギリシャの工芸品だった。触れることも、その価値を本当の意味で理解することも許されない、ただ遠くから眺めるだけの対象。

だから、僕と彼女という、本来ならば決して交わるはずのない二つの軌道の間に、「貸し借り」という極めて人間的で生々しい関係性の痕跡が生じたこと自体が、僕にとっては小さな宇宙的奇跡、あるいは世界のシステムに生じた重大なバグのように感じられたのだ。


一体、なぜ僕は彼女から金を借りる羽目になったのだろう。放課後の、西陽が差し込む廊下の隅にある自動販売機の前だったか。喉が焼けるように渇いていて、ポケットというポケットを探っても、出てきたのはくたびれた十円硬貨が数枚だけだった。隣に立っていたのが、本当に偶然、水無月さんだったのだろうか。そんな、ありふれた青春小説の一場面のような記憶では、どうにも腑に落ちなかった。

僕の記憶は濁っていて、その出来事の前後がすっぽりと抜け落ちている。あるいは、もっと別の、僕が忘却の彼方に追いやっただけの、何か特別な文脈が存在したのかもしれない。僕には、どうしても思い出せなかった。その忘却こそが、これから起きることの序章であるとは知らずに。


そして今日。僕は渋谷にいた。理由などない。ただ、週末の午後の、行き場のない時間を持て余した結果だった。世界で最も多くの人間が、信号ひとつで同時にその歩みを進めると言われる、スクランブル交差点。僕はその巨大なアスファルトの舞台を前にして、信号が変わるのを待つ群衆の一人に埋没していた。

巨大な街頭ビジョンでは、有名な女優が声もなく微笑みかけ、最新のポップソングが耳障りなほど大音量で流れている。あらゆる方向から押し寄せる人々の塊が、スタートラインに立ったランナーのように、見えない緊張感を漂わせている。僕はその巨大な生命体の流れに、ただ身を任せるだけの、無名の粒子の一つに過ぎなかった。


信号が、赤から青に変わる。その瞬間、世界から音が消えた。いや、正確に言うならば、世界から発せられるありとあらゆる音が、一度僕の鼓膜の手前で濾過され、意味を剥ぎ取られた遠い残響となって意識の淵へと追いやったのだ。アスファルトを踏みしめる無数の靴音、様々な国の言語が入り混じる会話、けたたましい広告のメロディ、それら全てが、分厚い防音ガラスの向こう側で繰り広げられるパントマイムのように、僕の現実から乖離していった。


僕の目の前に、水無月さんが立っていた。彼女は、まるでこの交差点の中心で、最初から僕を待っていたかのように、静かにたたずんでいた。周囲の喧騒とは不釣り合いな、季節外れの白いワンピースが、灰色の群衆の中で淡く発光しているように見える。不思議なことに、四方八方から押し寄せる人の波は、僕と彼女の周囲だけを巧みに避けて流れていく。まるで、見えない磁力が働いているかのように。そこだけが、時間の流れからも、物理法則からも切り離された、真空のポケットになっていた。


彼女の、彫刻のように整った唇が、ゆっくりと動く。その声は、僕を包む奇妙な静寂の膜をやすやすと突き抜け、僕の鼓膜だけを正確に、そして明瞭に震わせた。


「昨日貸した500円、返して」


その言葉は、まるで秘密結社の合言葉のように響いた。金の催促というあまりに日常的で卑しい行為が、この極度に非日常的な空間と結びつくことで、全く別の意味を帯びたテクストへと変容する。これは本当に、たかが五百円の話なのだろうか。それとも、僕の不確かな記憶と、彼女という遠い存在と、この都市の絶対的な匿名性を結びつける、何かの儀式なのだろうか。


僕は無意識に、履き古したジーンズの右ポケットに手を入れた。ざらついた裏地に指先が触れ、やがて一つの硬い感触に行き当たった。冷たくて、丸くて、縁にギザギザのある、紛れもない硬貨の感触。それは確かに、五百円硬貨だった。だが、僕はこの硬貨を、この金属片を、ただの返済の道具として彼女に手渡してしまっていいものか、まるで確信が持てなかった。


群衆は黙っていた。僕と彼女を取り巻く世界が、沈黙していた。この奇妙な静寂の中で、僕は返すべき本当の答えを探し始めていた。この五百円が象徴する、まだ名もなき真実の在り処を。僕たちの足元で、無数の人々が作り出す複雑な模様だけが、静かに(うごめ)いていた。

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