言葉を「音」として捉え、再調律していく場合、「詩」はその貴重な教材となりうるはずだが、詩人たちは客観的分析を嫌う。
言葉の再調律。
ここ数日における個人的議題。
ひとつひとつの言葉、単語が持つ音の「触覚性」。
一文が持つ「リズム」と、文章化した時の「調和性」。
これらが「意図的」に操れるようになれば、おそらくこれまでに使ってきた言葉が根本的に変わる。
読んでいて、ひとを不快な気分にさせる文章に潜む、異物性とリズムの悪さ。たとえそれが差し障りのない内容であったとしても、不快感が付きまとう。しかし、そういった文章にも価値はある。不快感の正体を探るサンプルとして。
心を「調律する」文章。
分かりやすい例としては「詩」が挙げられる。
しかし、詩が持つ力は、儚く、脆い。
計算しつくされ、調整された詞ではなく、指一本でたどたどしく弾かれた、ピアノの音色にも似ている。
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まず最初に手を付けるとすれば、「音象徴」と「オノマトペ」か。音が持つイメージと意味が繋がったもののコレクション。そして、リズムへ。
リズムは句読点の打ち方から、一文の長さ、反復。
音楽的に文章を捉え、感情を揺さぶるような文章の構成を分析し、メロディーを真似る。
後は、ダブルミーニングのある単語を「不協和音」のように使い、韻律を揃える。そんなところか。
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おそらく、こういった研究は、詩人の好むところではないだろう。だが、分析家にしても、文章には論理的整合性の集合体としてのそれしか、求めてもおるまい。
だとすれば、誰の出番だ?
一番は、ミュージシャンなのだろうが、最近の音楽は「BPMの速さ」だけで誤魔化している節がある。
現在、調律に最も必要なのは「スロウなテンポ」だ。あきらかに現代人たちは、社会変化のスピードについて行けず、そこかしこで酸欠を起こしている。必死にしがみついた果てに、波に飲まれ、そのまま溺れかけているひとの「浮き輪」を用意する必要がある。それがおそらく、これから最も求められる言葉となりうるのだろう。