車窓の景色
「サディアス様、見てください! ボードウィン橋と、海が見えますよ!」
一通りの観光を終えて汽車に乗ってからも、シュゼットは景色を眺めては楽しそうにしている。
俺たちが取った座席は向かい合わせの特等席だ。当然ながら個室になっており、窓からは川に架けられたボードウィン橋と、その向こうに広がるステービナ海峡が一望できた。
「ああ、いい景色だな。海が綺麗だ」
「本当に! 何だか名残惜しいくらいです」
俺は肘を付いた姿勢で、煌めく瞳を海へと向ける彼女の横顔を眺めた。
ほんと、良い子なんだよなあ。
素直で勤勉で、ニコニコしてて。世間知らずなのが危なっかしいけど、その分外に出れたのが嬉しいのだろう、どんなものを見ても感動してるし。
シュゼットがどんな経緯で王太子との婚約をやめて王都を飛び出してきたのかは知らない。
だけど出会った時の今にも崖下に吸い込まれそうな雰囲気と、今の輝く表情を比べれば、想像するのに十分なように思う。
先程のこと、フルーツ店で厳しい王太子妃教育の一端が垣間見えたとき、俺は思わず言った。
『あーあ、くだらない連中だね。世間知らずのお嬢さんを縛り付けて頼り切って、情けないったらねえよ』
そう吐き捨ててからすぐに後悔に襲われた。
どの口が言ってんだよ。縛り付ける気は無いにしても、俺だってシュゼットの力に頼ろうとする「くだらない連中」の内の一人じゃねえか。
彼女はこの先どうするつもりなんだろう。俺が力を貸して欲しいと言ったらどう思う?
貴方も私を利用するつもりなのかと怒るだろうか。悲しむ? それとも、失望するかも——。
「サディアス様、一体どうなさったんですか?」
心配そうな声に呼ばれて、俺は思考の渦から引きずり出された。
見れば向かい合わせに座ったシュゼットが、緑色の瞳に不安を映してこちらを見つめている。どうやら思っていたよりも深く考え込んでいたらしい。
「あ……ああ、悪い。ちょっと考え事をな」
「本当ですか? 体調が悪いのでは……」
それは想像もしない出来事だった。シュゼットがゆっくりと手を伸ばしてきて、俺の額をそっと覆ったのだ。
つまり今の俺と彼女の距離感は腕一本分しかない。じっと俺の目を注視する瞳には、嘘を見抜こうとする真剣さがあって、俺は一瞬だけその必死さに和んだ。
——いやいやいや、違うだろ。何だこれ、近くないか。
お姫様の距離感ってこんなもん?
べったり張り付いてくる女なんて珍しくもないはずなのに、シュゼットが近いと妙に緊張するのは何なんだ……?
「良かった、確かに熱は無いみたいですね」
シュゼットはほっと息を吐いて離れていった。元の位置に座り直したのを見届けて、俺はそっと胸を撫で下ろした。
彼女は体調が悪いのでは無いかと心配してくれただけなのに、何を動揺しているんだ、俺は。
けど、実際こんなことをされたら男なら舞い上がるだろう。
ましてや今のシュゼットは出会った頃の今にも倒れそうな雰囲気は見る影もなく、すっかり明るくて可愛い女の子になっているんだから。
俺みたいに弁えている男なら大丈夫かもしれないが、普通の奴にこんなことをしたら大変だ。忠告しておくべきだろうか。
「申し訳ありません、サディアス様はいつも快活なご様子だったので心配になってしまって」
しかし安堵したような柔らかい笑みを見ると、何も言えなくなってしまった。
俺は口をつぐんで、ただ彼女の話を聞くことにした。
「そりゃ悪かった。シュゼットは、何か俺に言うことがあったのか?」
「ああ、そうでした。サディアス様のお召しのジャケットが、少し破れているようなのです」
俺は意外な方向からの指摘に、思わず自身の灰色のジャケットを見下ろした。
シュゼットが右の裾だと言うので確認すると、確かに縫い目のところが少し避けてしまっている。
「うわ、ほんとだ。やらかしたなあ……」
どこで破いたのか定かではないが、各地で体力仕事をこなしているので無理もない。
着心地が良くて結構気に入っていた服だし、直るかはわからないが、王都に着いたら修理にでも出すか……。
「あの、私でよければ直しましょうか?」
思いもよらない申し出を受けた俺は、信じられない気持ちで顔を上げた。
「シュゼットが? 直せるのか?」
「はい、多分できると思います」
シュゼットの笑みは柔らかな気遣いに溢れていて、俺は胸中で罪悪感と喜びが入り混じるのを感じた。
彼女にとって、俺は危ないところを救ってくれた恩人に見えているんだろう。
だからこういう親切だって買って出てくれる。良い子なんだ、困っている恩人を捨て置ける訳がない。
それを解っていても尚、優しくしないでくれと思わずにはいられない。
俺は勝手な人間なんだ。あんたが『大地の乙女』じゃなかったら、多分ここまで連れてきたりはしなかった。
「……じゃあ、頼もうかな」
「はい、任せて下さい!」
何とかいつもの笑みを浮かべてみせたずるい男に対して、シュゼットは嬉しそうに頷いている。
ジャケットを脱いで手渡したところで、俺はようやく頭の片隅に違和感を覚えた。
そういえば、シュゼットは裁縫道具なんて持っていたっけ。
あの崖の上にいた時は着の身着のままという風情だった筈だが、道中で買ったのだろうか。そんな素振りは感じなかったが、いつの間に?
俺は疑問を抱きながらも彼女の動きをぼんやりと観察していた。まあお気に入りと言っても大して高い物でもないし、仮に失敗しても構わないか。
そんな呑気な考えは、シュゼットの次の行動によって一気に吹き飛ばされることになった。
特に前置きをすることもなく、細い掌が破れた布地に翳される。そうしてエメラルドグリーンの光が手から滲み出てきたかと思ったら、数秒のうちに破れた箇所は綺麗さっぱり修復されていたのだった。
あまりの衝撃に息をするのも忘れていた。だってまさか、こんなところでその力を目の当たりにするなんて思わないだろう。
「はい、出来ました。これで問題なく着て頂けますよ」
笑顔と共に差し出されるジャケット。心なしか全体的に張りを取り戻したようにも見えるのだが、多分気のせいではないだろう。
俺はまともに頭を抱えた。今見た現実が、自らが持つ危機感と乖離しすぎている。
……いや。いやいやいや。
普通に使ってる。
この子、『大地の乙女』しか持ち得ないはずの修復の力を、普通に使っちゃってるわ……!