港町観光
寝るだけ寝たので目が覚めた、という状況は久しぶりだった。
私は意識が浮上した瞬間に頭がすっきりしているのを自覚して、ためらうことなく目を開けた。
水平線だけを切り取った窓から日差しが差し込んでいる。綺麗で立派な部屋だけど、ここは海の上なのだ。
軽い体を持て余しながら上体をおこすと、窓と反対側の方向から声がかかった。
「おー、起きたか。気分はどうだ?」
振り返ると、そこではサディアス様がソファに腰掛けてコーヒーを飲んでいた。
黒いシャツに灰色のトラウザーズ。長い足を組んでティーカップを傾ける様はやっぱり絵になる。
それにしても彼はわざわざ着替えたようだが、シャワーを浴びたのだろうか。
「とてもすっきりしました。ありがとうございます」
「そりゃ良かった。じゃ、起き抜けのところ悪いけど準備してくれるか。もう到着する頃合いだ」
「……え?」
私は間抜けな声を上げた。
おかしい。私は午後一時ごろに眠ったはずなので、今はまだ夕刻前くらいの時間なのでは。
困惑が思い切り顔に出ていたのだろう、サディアス様は苦笑を返してきた。
「わかってなさそうだから言っておくが、シュゼットが寝てから一晩経ってる。今は朝の八時半過ぎだ」
「ええええ⁉︎」
あまりの衝撃に今度は叫んでしまった。私は確認すべきとの使命感からテラスに飛び出して、開けた視界を見渡した。
すると進行方向に陸地を発見し、目眩を感じて手を額にかざす。どうやら本当にウェリスに到着する直前らしい。
「な、見えるだろ。あれがウェリス王国だ」
サディアス様がのんびりと歩いてきて言う。大寝坊した同行者に対してこの柔らかい対応、どれだけ寛大でおおらかなのだ、この方は。
「私ったら、呑気に申し訳ありません!」
でも凄く申し訳ないけれど、頭にかかっていた靄が晴れたような、実にすっきりとした気分だ。
こんなに眠ったのは生まれて初めて。実際のところ思っていたよりも睡眠が足りておらず、安心したことで一気に疲れが出てしまったのだろう。
私の顔色の良さに気がついたのかもしれない。サディアス様は満足げで、やはり少しも怒っていないようだった。
「別に構わねえよ。ああ、朝食食べるか? ルームサービス取れるけど」
気楽な調子で首を傾げたサディアス様に一応の残り時間を訪ねた私は、返ってきた数字によって準備のみに徹することを決めた。
*
船は程なくしてボードウィン港へと到着した。
ウェリス王国は世界に名だたる島国である。フメルを含む大陸諸国とは一線を画した存在感を維持し、軍事から経済、文化まで独自の発展を遂げた歴史ある国。
このボードウィンは大国ウェリスの中でも有名な観光地かつ交通の要衝だ。出発地点のフメルの港町とは違って、華やかな活気に満ちている。
港には漁船から客船までさまざまな船が並び、国旗や信号旗が海風にはためく。行き交う人はみな薄着で、それぞれ散歩をしたりテラス席でのんびりしたりと思い思いに楽しんでいるようだ。
ボードウィンはウェリスの中では南に位置するため温暖で、国内外から多くの観光客が訪れるのだが、当然初めての私は高揚する気持ちを抑え込むことなど到底不可能だった。
「うわあっ……! サディアス様、あれはなんですか⁉︎」
「あれは土産物屋だな。食堂から物産品までなんでも揃ってる」
「では、あれは⁉︎」
「アイスクリーム屋だな。食べ歩き用だ」
そういえば市井の人々は、食べ物を買ってその場で食べることもあるのだったか。
生活習慣までもが面白くて、何だか街全体がキラキラしている。ああ、テラス席に座るあの方は、一体何を食べているのだろう。
「はははっ! 歩いただけでこんなに楽しんでもらえるとは、連れてきた甲斐があるね」
サディアス様が快活に笑った。私は自身の態度がはしたないものであったことに思い至り、頬に熱が宿るのを感じた。
「ごめんなさい。はしゃぎすぎました……」
「どんどんはしゃいだら良いだろ。でもまあ、まずは汽車の切符を買った方が良いかな」
サディアス様はもちろん王都エイデンにお住まいとのことで、私はこの旅の最後まで同行させてもらうことになっている。
このボードウィンから見てエイデンは北に位置しており、なんと鉄道が開通しているのだ。お陰様でぐっと移動時間が短縮され、今日の夜にはエイデンに着く予定とのこと。
その後のことは何も決めていないけど、とりあえず現地でホテルを取って、明日から住むところを探すつもりだ。ついに一人になるのだから頑張らなければ。
「切符ですね。参りましょう」
すっかり体力を回復した私は、むしろ出奔する前より元気になっていた。意気揚々と駅に向かい、汽車の座席を確保することに成功する。
発車時刻にはまだゆとりがあったので、時間まで街を見て回ることになった。
「シュゼットは朝食がまだだったろ。何か食べたいものはあるのか」
「食べたいもの、ですか」
私は言われて周囲を見渡してみた。
色とりどりの看板に、店先で呼び込む店員の威勢のいい声。その中でも特に気になるのは——。
「フルーツ、美味しそうですね……」
店先には色とりどりの美しいフルーツが並び、テラス席は商品を使ったであろうメニューを食べる人々で賑わっている。
サディアス様は特にこだわりもないようで、あっさりと頷くとフルーツ店へと入って行った。テラス席へと通された私たちは、早速メニュー表を開くことにする。
どうやらボードウィンでは苺が名産品のようだ。
ああでも、オレンジに、輸入品のマンゴーなんかもあるのね。流石は港町だわ。
ここはやはり苺サンデーにするべきかしら。でも、盛り合わせなんかも良いわよね。ああ、トライフルも美味しそう。朝食セットなんかもあるし……!
「これは迷いますね! サディアス様はお決まりですか?」
「俺はカットフルーツくらいで十分かな」
サディアス様は船内で朝食を食べたとのことで、あまりお腹が空いていないのに文句も言わずに付き合って下さっている。
「では、私は定番の苺サンデーにします」
「もっとゆっくり決めても良いんだぞ」
「いえ、名産の苺が食べたいのです」
「そっか、なら注文しよう」
サディアス様がウェイトレスを呼んだ。
年若いウェイトレスさんは超絶美形の男性に呼ばれて明らかに浮き足立っており、高い声で注文を復唱すると、店の奥へと帰って行った。
「しかし、あんた……」
サディアス様が不思議そうに首を傾げるので、私は話の続きを促した。
「今更だけど随分ウェリス語が堪能なんだな。船に乗った瞬間に喋り出した時も言ったけどさ」
そう、実のところ今まで乗っていたのはウェリス籍の船だったため、私は乗船した瞬間からウェリス語を話していたのだ。
既にサディアス様には上手いと褒められていたのだが、メニュー表を読み解く私を見てさらに感心したらしい。
サディアス様だって出会った時はフメル語を話してくれていたし、ウェリス語が話せてもそう大したことではないのに。
「ええ、一応は王太子妃教育で学びましたので。日常会話に困らない程度には話すことができます」
「ほお、すげえなあ。俺はフメル語なんて難しい言葉はわからないし、大したもんだよ」
そうなのだろうか。でも確かに、ウェリス語がわからなければサディアス様との会話も困ることも多くあっただろうし、これに関しては頑張ってきて良かったのかもしれない。
「後は主要言語をいくつか、外交の場で使える程度には」
「マジかよ⁉︎ あんた、本当に優秀なんだな!」
サディアス様は大袈裟に驚いてくれている。誉めるのが上手いというか、人付き合いが上手い人だなあ。
「ふふ、そんなことはありません。だって王族なら五カ国語くらいマスターして当然だと、先生方が仰っていましたから」
そうそう、ウェリス語で手一杯になるなんてと、先生方にはいつも怒られたっけ。面倒をかけたのは申し訳なかったけど、今となっては懐かしいなあ……。
しかしながら、ほのぼのとした気持ちにすらなっていた私の前で、サディアス様は露骨に眉を寄せた。