展望風呂
スイートルームに入った私はまず歓声を上げた。なにせそこには想像以上に豪華な空間が広がっていたのだ。
入ってすぐにあるのはメインルーム。ソファとテーブルが置かれ、天井にはシャンデリアが吊り下げられている。大きな窓からはテラスと、その向こうに広がる青い海が見える。
さらに奥の扉を開くと、そこはベッドルームだった。大きなダブルベッドと、家族連れに対応するためのシングルベッドが一つ。家具調度品は奥行きのある彫刻が施され、重厚感がありながらもどこか落ち着くような部屋に整えられているようだ。
「本当にすごいわ。船の上だなんて思えないくらい」
部屋を見物して満足した私は、座り心地の良いソファに腰掛けて一息ついた。
サディアス様が仰ることには、本当は空を飛ぶこともできるが、あえて移動を楽しむために今回は船を取っていた、ということらしい。
そして自分だけならいいが、私を伴って飛ぶとなると色々と準備が必要なのだそうだ。何せ上空は寒く、箒などの乗るための物も持っていない。
そんな訳で、元々サディアス様が取っていた部屋に同乗させてもらうことになったのだけど。
(今更だけど、サディアス様って本当に、かなり凄い方なのね……)
あの若さでスイートルームを取って旅を楽しんでいるくらいなのだ。しかしいかにサディアス様が余裕あるお金持ちだろうと、せっかくの豪華旅行を台無しにしたのは申し訳ないことこの上ない。
私はため息をつきかけたところを、両手で頬を叩いて立ち上がった。
暗い顔をするのはサディアス様に対して失礼だ。こんなにも良くして下さっているのだから、まずは宣言通り気楽に生きることを考えよう。
勢い良く歩いてパウダールームの扉を開ける。実は着替え類は港町で買い揃えておいたので問題なし。タオルが置いてあることを確認した私は、ふと洗面台に置かれたガラス瓶の存在に気が付いた。
ラベルには「入浴剤」と書かれている。
……あまりにも気になる。使っちゃっても、いいかな⁉︎
サディアス様に悪いかしら。でも明らかに二回分以上の分量があるし、「俺はシャワーだけだから気にせずバスタブ使えよ」とも仰ってたし……!
よし、使いましょう。
欲望にあっさりと負けた私は、服を脱いで浴室に足を踏み入れた。
そこは別世界だった。
太陽が降り注ぐ中、たっぷりと湯の張られたバスタブが微かに波打っている。海風が通り抜けて、耳の後ろの後れ毛を揺らす。側にはシャワーブースがあって、体も洗えるようになっている。
すごい。凄すぎるわ。こんなの初めて見た!
私はもどかしい気持ちで頭と体を一通り洗った。自分で洗ったことがなかったので苦労したけど、やってみたらできなくもなかった。
うん、かなり大変ではあったけど、これからはずっと一人なのだから上達していかなければならない。
そして待ちに待った、入浴のお時間である。
まずはサービスの入浴剤を投入してみることにした。白っぽい粉末状の入浴剤なので、乳白色になるのだろうと想像していた私は度肝を抜かれることになった。
想像通りお湯が乳白色へと変貌していく傍ら、桃の花が現れては表面に浮かび上がって来たのだ。
どうやら魔法付きの入浴剤だったらしい。当然普通の入浴剤よりお値段は張るはずだが、流石はスイートということなのだろう。
この手の贅沢品には今まで縁がなかった。別段使うお金を制限されていた訳ではなかったのに、こうしたものを選ぶ手間すら惜しんで日々を送ってきたことを、今更ながらに実感する。
しみじみしていたらくしゃみが出た。そろそろ冷えてきたことに気付いた私は、そっと爪先からバスタブに浸かっていった。
この感覚を何と言い表せば良いのだろう。ビリビリと痺れるような衝撃が走り、すぐに温かいものに全身を覆われる。程よい圧迫感の中で手足を伸ばせば、ため息がこぼれ落ちた。
「っはあ〜! 生きてるって感じ!」
そして本当に自然に、あまりにも感覚的にそんな言葉が口から放たれていったので、私は自分で驚いてしばしの間呆然としてしまった。
生きてるって感じ。
……生きてる。
そっか。
私、死ぬつもりなんてなかったけれど。
それはとっくの昔に、生きている実感を失っていたからだったのね。
目の前に広がるのは大海原。船は青を割いて進み、潮騒と、動力源が放つ地鳴りのような低い音が耳に心地いい。
お湯を掬い上げると、掌には桃の花が残ってふわふわと遊んでいる。手で遊ぶたびに水飛沫が上がって、乳白色のお湯に波紋が生まれる。
(ああ、世の中には、こんなに素敵なことがあったのね……)
サディアス様がくれた贅沢な時間だ。この最高の施設と品物はもちろん、そこに自由があるからこそ何倍も素敵になる。
私は大きく息を吸い、両手を上げてうんと伸びをした。温かいお湯と、風にさらされた顔との温度差が心地良い。
少しだけゆっくりしよう。今はこの時間を楽しんだって、きっとバチは当たらない。
*
湯上がりには備え付けの寝巻きを借りることにした。ストンとしたワンピースで、着心地も良いのだから有難い。
サディアス様は少しの間を置いて部屋に帰ってきたのだが、私の顔を見るなり驚いた様子で眉を上げた。
「随分血色が良くなったな。出会った時とまるで別人みたいだ」
「本当ですか? ありがたくもしっかり温まらせて頂きましたので」
彼の言い様を鑑みるに、崖の上にいた私は幽鬼のような顔でもしていたのかもしれない。栄養を摂ってお風呂も頂いて、すっかり人間らしい体を取り戻せたのかも。
「よし、後は睡眠だな。どうせ昨日は寝てないんだろ」
言い当てられた私は目を逸らして頷いた。乗合い馬車ではもちろん寝ているお客さんも多かったのだが、私は防犯上落ち着かないのと神経が昂っていたのとで、全く眠れなかったのだ。
「俺は俺でゆっくりするからあんたは寝な。何も悪さはしないから安心してくれ」
「はい、それはもう心配しておりませんけど」
サディアス様に限って悪さなんてするはずがないと思う。
何かするつもりならとっくにしているというのは勿論あるけれど、私は今までのやりとりの中ですっかり彼のことを信頼しているのだ。
「そりゃ光栄だね。ほら、好きな方使っていいぞ」
「では落ち着くのでシングルベッドで……」
冷静な時の私だったなら、男性と密室に二人きりの状態で眠るだなんて有り得ないことだ。それがいくら信頼する相手だったとしても、流石に危ないしマナーとしてもよろしくない。
けれどこの時の私は残念ながら冷静じゃなかった。天地がひっくり返ったような状況下で、更にはとてつもなく寝不足だったのだから。
ベッドに入った途端に睡魔に襲われた私は、一瞬にして眠りの世界に引き摺り込まれてしまった。
***
休暇でフメルに来ていたと言ったのは嘘。本当は仕事だ。
スイートしか空いていないことにしたのも嘘。本当は護衛がしやすいからだ。
純粋なシュゼット。出会ったばかりの俺を簡単に信用して、目の前で眠りこけている。
「俺はそう良い奴じゃないよ、お姫様」
口元にかかった栗色の髪をそっと整えてやる。
無防備な寝顔を前にすると胸が痛むことには、気が付かないふりをした。