ビアと唐揚げ
サディアス様は宣言通り追手を全員倒し、ご丁寧に彼らの記憶まで消し去ってくれた。増援がないことを確信した私たちは、今ようやくウェリス行きの客船に乗り込んだところだ。
「はいよ。出奔記念のビアな」
出港してすぐに訪れたのは客船内の食堂の、開放感溢れるテラス席だった。
サディアス様によって差し出されたのは、しゅわしゅわと泡の弾ける黄金色の飲み物。おそらくはお酒と思われるが、今はまだ午前中の時間帯だ。
「……あの、サディアス様。朝からお酒だなんて、良いんでしょうか」
「おいおい、真面目だねえ。良いことがあったら酒を飲むのは大人の常識だろ?」
そういうものだろうか。私は十八歳で、成人してからは二年ほど経つけれど、催し以外で飲んだことは一度もない。
とはいってもこの二年良いことなんて一つも無かったから、無理もないのかもしれないけど。
「ああでも、警戒してるってんなら良いことだよ。シュゼットは若い女の子なんだから、見ず知らずの男の酒なんて本来飲まないほうがいい」
すみません、その警戒は全くしておりませんでした。
ぎくりと肩を強ばらせたら、サディアス様は苦笑気味に肩をすくめた。
「危なっかしいな。ま、大丈夫だよ。俺は善人なんでね」
「自分のことを善人と言う人には気をつけろと、本に書いてあった気がします」
「はは! そうそう、その調子だ。で、飲むのかよ、それ」
快活に笑ったサディアス様が私のジョッキを指差した。「飲まないなら俺がもらうよ」と彼は言うが、私自身が美味しそうなこのお酒に惹かれてることも確かだった。
「いいえ。ありがたく、いただきます」
私が観念したことを受けて、にっと笑ったサディアス様がジョッキを掲げ持つ。乾杯、との掛け声と同時にお互いのジョッキをぶつけた私は、意を決して謎のお酒に口をつけた。
「……う」
「あはははは! 正直で良いねえ!」
ビアの苦さに負けた私が思わず渋面を作ると、間髪入れずに爆笑するサディアス様。どうやらこの反応を予見していたらしい。
「ビアってのは味わうものじゃないんだ。つまみを食って、一息に飲む。無理はせずにな」
おつまみを食べて、一息に飲む。ううん、難しいなあ……。
「ほら、これとか定番だぞ。バーチ鳥の唐揚げだ」
「わかりました。いただきます」
初めて目にする唐揚げという料理は、こんがりとした色をしてみるからに美味しそうだった。私は初見の食べ物に対する躊躇いを捨てると、フォークで突き刺して口へと運んだ。
途端に口の中に広がる背徳的な味わいに、私は目を見開いた。
美味しい。なんて美味しいのかしら……!
揚げたてのアツアツで、じゅわっとジューシーで、それでいてシンプルな味付けがされている。いくらでも食べてしまいそう。
私は久しぶりに思い出していた。
美味しいことは楽しいことなのだ。生きるのに必要なはずのこの感覚を、どうして忘れていたのだろう。
「はい、そこでビアを飲んでみな」
「は、はい」
私は言われるままにジョッキを傾ける。味わずに一息で、ごくりと喉を鳴らして——。
「これは……!」
ああ、わかったかもしれない。
喉を通り抜ける泡の刺激と、髪を揺らす海風。天はどこまでも高く広がり、カモメが腹を見せて旋回する。
これは解放の味なのだ。一仕事終えた時、良い事があった時。きっとお酒というのは何倍も美味しくなる。
「美味いか?」
「はい。初めての味ですが、新鮮で美味しいです」
白い手摺りの向こうには、港に向かって漁船が戻ってくるのが見える。海は青く晴れ晴れとしていて、店の活気と相まって全てが輝いている。
「そうか。なかなかいける口だな」
嬉しそうに言ったサディアス様の笑顔は、精悍でありながらも華やかだった。
銀色の髪と海の色をした瞳、更には高い身長に端整なお顔立ち。白いシャツに黒いズボン、灰色のジャケットというシンプルな出立ちだけど、余計な装飾がないのがかえって彼の美しさを引き立てているようだ。
それでいてどこか野生味があって、上品な貴族男性とは違った魅力を放つのだから、サディアス様は当然のように目立つ。先ほどから女性客からの熱烈な視線を浴びているのだが、本人はどこ吹く風の様子だ。
確かサディアス様はウェリス帝国の第三魔導師団の団長を務めているのだったか。そんなにも偉くて、更には見目麗しい彼が、一体どうして我が国の港町に?
「サディアス様はいかなるご用事でこちらにいらしたのですか?」
「ああ、ただの休暇。今日帰る予定だったんで、最後に散歩をしていたらシュゼットを見つけたんだ」
まさか休暇中だったとは。せっかくゆっくりしに来ていたのに、巻き込んで悪いことをしてしまった。
しかも私みたいな訳あり女を助けたことで、今後さらなる迷惑をかけることになるかもしれない。サディアス様は詳しい事情を聞いてこないけれど、本当にこれで良かったのだろうか。
「サディアス様、申し訳ありませ——」
「謝るのは無し。俺は好きであんたを助けたんだから」
苦笑気味の声に遮られて、私は下げかけていた顔を上げた。
「言っただろ、困っている女の子を捨て置けないたちだって。俺は俺の信念に基づいて行動しただけなんで、謝られても困るんだ」
サディアス様は片肘を付いてビールジョッキを傾けている。お行儀の悪い格好なのに、彼がすると一枚の絵みたいに見える。
「では、せめてお礼を。何か私にできることはありませんか」
「ありがとな。気持ちだけで十分だ」
……困った。サディアス様は笑顔で全てを躱し切る不思議な力を持っているようだ。まあ無能で無力な私なんて、彼の力になれないのも当然なのだけど。
返事に窮して口を噤むと、少しの時間を置いてサディアス様が小さく吹き出した。
「ああ、わかったわかった。ではこんなものは如何ですか、お姫様?」
パチン、不意に指を鳴らしたサディアス様によって、テーブルの中央に小さな魔法陣が出現する。
小さくとも輝きを放つそれに目を奪われていると、想像もしないことが起こった。なんと魔法陣の中央から、白い花弁の花が一輪、音もなく出現したのだ。
サディアス様はその花を手に取ると、恭しい仕草で差し出してきた。
「さあどうぞ。報酬は貴女の笑顔で十分です」
一際強い風が吹いた。頭上ではカモメが羽ばたいて、高らかな鳴き声を奏でている。
普通の女の子なら勘違いしたであろう場面だが、王太子妃教育によってめった打ちにされた私は自惚れたりはしなかった。
サディアス様は所謂伊達男というやつで、その立ち居振る舞い全てがスマートで格好いい。けれど何よりも私が嬉しかったのは、あえて冗談めかして笑ったであろう彼の気遣いだった。
「ふふ。本当に、楽しい人ですね」
笑ったのは何ヶ月ぶりのことだったのか。ここ数年でも一番楽しい気分になれたのは、全部が全部サディアス様のお陰なのだ。
私はそっと白い花を受け取った。男性から花を貰うだなんて、きっと後にも先にもこれきりだろう。
「わかりました。私、貴方の御恩に報いるためにも、もっと気楽に楽しく生きます。だってせっかくあの暮らしから逃げ出せたんですもの」
ね、サディアス様。
私はそう言って締めくくり、彼に笑いかけた。しかし中々返事は返ってこず、見れば目の前の端整なお顔が呆然とした表情に様変わりしている。
「……びっくりした。笑うだけでこんなに可愛いとはね」
「あの、サディアス様? どうかなさいましたか?」
「いいや。喜んでもらえて何よりだ」
返事が返ってきたことに安堵した私は、もう一度ビアに口をつけた。
やっぱり少し苦い。けれどこれから自由に働いて飲んで食べるようになれば、きっと感じ方も変わるのだろう。
ここまでお付き合い頂きありがとうございました!
次回からようやく短編の後の物語となります。
どうか楽しんで頂けますように。