大魔導師様との出会い①
「いやだから、キツいってばあああああ!!!」
王城を摘み出されて少し歩いたところで、私は飲み込んでいた叫びを解放した。
大声を上げたものの、この夜の最中に貴族のタウンハウス街を通りがかる者はいない。幸いにも誰にも聞かれることはなく、静まり返った街には私の荒い息遣いが反響している。
無理、もう、無理だ。私はよく頑張った。ものすごく胃が痛い思いをして王太子妃教育に耐えてきたけれど、今日の出来事で完全に容量をオーバーした。
自身の責任を果たすならば、この婚約破棄についてお父様と話し合ったり、国王陛下とも会談の場所を持ったりと、やることは山のように立ちはだかっている。
けれどもう無理なのだ。もう頑張れない。今すぐこの街を離れないとたぶん死ぬ……!
そんな確信ばかりが脳内を占拠しており、私はとにかく自身の直感に従うことにした。
まずは城下の質屋に向かう。身につけていた宝石を全て売り払い、手に入れたお金で町娘としての服を購入した私は、店の鏡に映った自分を見て小さく頷いた。
ありふれた栗色の髪に、くすんだ緑色の瞳。顔立ちは十人並みで、街のお嬢さんたちの間で流行っているというワンピースを着てしまえば、どこからどう見ても一般庶民にしか見えない。
これなら問題ないだろうという確信のもと、次に乗合馬車の切符を買って飛び乗った。
馬車の行き先は知らなかったし、何も考えていなかった。ただこの場所から逃げ出したかった。
そして馬車に揺られること一晩。明け方になって見知らぬ港町にたどり着いた私は、海が一望できる崖の上に立っていた。
別にここから飛び込もうとか、そんなことを考えていた訳ではない。山でも海でも構わないから、できる限り遠くに行きたかったのだ。
「綺麗……」
意志とは関わりなくこぼれ落ちた呟きは、涙に滲んでいた。
海というものを初めて見た。水平線から登る朝日がキラキラと水面に反射し、薄紅色の輝きを投影している。こんなに広くて、まっすぐで、暖かい色を見たことがない。
いく筋もの雫が頬を伝って、せっかくの景色がぼやけていく。私は乱暴に目元を拭って、もう一度前を向いた。
小さな頃から勉強詰めで、お父様も私を厳しく育てること以外考えていなかった。誰かと温かい思い出を作ったこともない。能力も見た目も平凡な、ちっぽけな私。
けれどこれ程に綺麗な景色が見られるなら——ここまで来た甲斐も、あったのかもしれない。
「おい、そこのあんた! 早まったら駄目だ!!!」
突如として背後から呼び止められたのは、海を見て満足した私がひとまずこの場を離れようかと考え始めた時のことだった。
「え?……きゃあっ!」
何が何だかわからないうちに背後から腕を掴まれて、思い切り引っ張られる。
体が大きく傾いで、堪えきれずにお尻から転んでしまった。けれど少しも痛みを感じることはなく、状況を理解できない私はのろのろと身体を起こす。
すると至近距離に歳上と思しき男性の顔があって、私は思わず目を丸くした。
どうやらこの男性に腕を引っ張られて、一緒に背後へと倒れ込んでしまったらしい。怪我はないかと尋ねようとしたのだけど、男性はそんなことに構っていられる余裕のない様子で、私の両肩を掴んできた。
「あんたまだ若いだろ! こんなところから飛び降りる気なのか⁉︎」
「……え?」
「何があったのかなんて知らねえけど! でも、自ら死を選ぶなんて、そんなの絶対に駄目だろ⁉︎」
男性の青い瞳は必死の思いにきらめいていた。王城でもそうは見かけない程に整った顔立ちに、輝く銀の短髪がよく似合う、生命力に溢れた人。
ああ、そうか。私、この方に勘違いをさせてしまったのね。
「申し訳ありません……私、とくに死のうとしていた訳ではないんです」
おずおずと切り出すと、男性ははたと我に返ったような顔をした。
「違うのか? あんなに意味深な雰囲気で、崖っぷちに立ってたのに……?」
「はい、ただ海に見惚れていただけなのです。誤解させるようなことをしてしまい、申し訳ありませんでした」
本当に申し訳ないわ。見知らぬ方をこんな危ない目に合わせて……!
私はどう謝るべきかと必死で考えていたのだが、男性は怒ることもなく、安堵の溜息をついたようだった。
「何だ、良かった。俺の早とちりか」
男性は気の抜けた笑みを浮かべて私の肩から手を離した。迷惑をかけたのに文句を言われないだなんて、私にとっては初めての経験だった。
「地面に引き倒すだなんて、本当に悪いことしたな。お嬢さん、怪我はないかい?」
「えっ⁉︎ い、いいえ! 貴方が受け止めて下さったので、怪我はありません!」
「本当か? ならいいんだけど」
男性はなおも心配そうにしていたが、立ち上がって手を差し伸べてくれた。
「俺はサディアス。お嬢さんの名は?」
綺麗なのにどこか粗野で、そして朗らかな人だ。打ちのめされてここへと辿り着いた自分が、馬鹿馬鹿しくなるくらい。
私は圧倒されてしまったのと、自身の名を明かしていいのか迷ったのとで、ほんの少しの間口をつぐんだ。不自然な間に気付いたサディアス様が首を傾げた時、恐れていた事態が起こった。
「いたぞ! こっちだ!」
海と反対側はなだらかな丘陵地帯になっており、舗装された道に三頭の馬が現れていた。馬上から私を指差すのは三人の男たちだ。
個人的に親しくしていた訳ではないので名前は知らないが、この制服は明らかに近衛騎士のもの。私は一気に血の気が引く感覚を覚えて、上げかけていた手を胸の前でぎゅっと握り込んだ。
そんな、嘘。わざわざ近衛騎士を動員してまで私を探し出そうとするなんて……!
「フォルタン侯爵令嬢! お探しいたしましたぞ!」
馬を降りて駆け寄ってくる騎士たちは皆必死の形相をしている。私はもう逃げられないことを悟ったのだが、生憎と体は覚悟もなく震えていた。
嫌だ、帰りたくない。もう……もう、あんなところには戻りたくないのに。
「この度はお辛い思いをされましたな。けれどもう大丈夫です。お父上が今度こそ貴方を守ると仰せですゆえ」
今更優しい言葉をかけてきたって、彼らの中には同情心なんて存在しないだろう。
私の周りに寄ってくるのは、将来の王妃に取り入りたいという下心を持つ者だけ。お父様だって外聞が悪いから私を探している。きっとただそれだけのことだ。
「さあ、我々と共に帰りましょう。陛下もお待ちです」
先頭に立った男がゆっくりと手を伸ばしてくる。
そうよね、初めから解っていたことだもの。
逃げたってどうにもならない。地位ある家に生まれた者として、私は私の役目から逃げてはならない。
勉強をしなければ。バスチアン殿下を支え、フメル王国を守る礎にならなければ。
この旅が続かないことくらい知っていた。それでも衝動的にここへ来たお陰で、綺麗な景色を見て、久しぶりに誰かに心配してもらえた。
それだけで、十分すぎるくらいじゃない。
私は最後に決意を固めるため、ぎゅっと目を瞑った。
「おっと、よせよ。嫌がるレディに触れようとするなんて、近衛騎士様のすることとは思えないね」
再び目を開けた時、不敵な笑みを浮かべたサディアス様が騎士の腕を鷲掴みにしていたので、私は瞳を瞬かせた。