王太子殿下、登場!
シュゼットが眠る部屋から物音一つしないのを確認して、俺は家を後にした。
春の朝は粉っぽい感じがするのであまり得意ではない。欠伸が出るのを深呼吸で誤魔化して、商店街を早足で進む。
朝八時半のケルダンは通勤通学のピークを少し過ぎた頃ではあるが、商店が開店準備をするお陰で活気と喧騒に満ちている。隣を自転車がゆっくりと通り過ぎてゆき、ベルを鳴らしたかと思ったら、道路に飛び出し掛けていた黒猫がびくりと身をすくめた。
「おい、危ないぞー」
適当に黒猫へ注意を促して、石畳の道をそのまま歩いていく。我が家は庶民の多く住む区画の端に位置しており、少し歩けば官庁街に差し掛かる。
仕事場である魔導師団司令部に出勤するのも数日ぶりだ。俺は煉瓦造りの巨大で重厚な建物を見上げ、特に感慨もなく門をくぐった。
司令部は一階に受付兼事務室を設けており、二階に第一師団、三階に第二師団、四階に第三師団と、師団ごとに各部署を配置している。
この階層の差別化は古くからある内部の軋轢から生じたもので、四階に追いやられた第三魔導師団の扱いは見たままと言ったところだ。
優秀とされる魔導師の中でも第一魔導師団は貴族のみで構成されており、家柄と実力が伴ったエリート中のエリート。
戦場では先陣を切るし、パレードや式典等の華やかな舞台に立つのはこの第一師団の役目であり、幹部級になると一般市民にまで顔と名前が知れ渡っている。
第二魔導師団は貴族と平民混合で、主に魔法の研究や調査を担う学術的な部隊。
戦闘には不向きな者も多いが、市民生活への貢献度は最も高いため、これもまた尊敬を集めている。
そして我が第三魔導師団はというと、便利屋と言ってしまえばわかりやすい。
第一、第二師団で処理しきれなかった仕事が回ってくるし、団員も平民もしくは爵位を持たない貴族のみの雑多な集団。能力が高すぎたり性格が個性的すぎる手合いが多いので、まとめ上げるのは至難の業だ。
師団ごとにそうした特性を持つため、別の師団の人間とはまあ反りが合わない……というのが、魔導師たちの共通認識だ。第一師団は他の師団を見下しているし、第二師団は他の師団を単細胞だと思っているし、第三師団は他の師団をお高くとまっていると思っている。
俺はそういうのどうでもいい派なんだが、仲が悪いのも伝統というやつらしい。
とはいえ、最近は分け隔てのない性格の第一師団団長のおかげで、表面的な嫌がらせは随分と減ってきている。このまま仲良くなってくれると、俺としてはやりやすいんだけど。
事務員たちに挨拶をしながら一階を抜けて階段へと向かうと、今まさに思い浮かべていた顔と出くわしてしまった。
「やあっ、サディアス、我が友よ! 久方ぶりではないか!」
このトリスタン・ニール・クロフォードは、王太子でありながらエリート揃いの第一魔導師団団長を務める傑物である。
黒の長髪を低い位置で縛り、翡翠色の瞳を煌めかせた美青年。いつも魔導師の正装である魔導服を着こなしており、軍服に似た作りのこの衣装は背の高いトリスタンに良く似合う。
市民にも愛されし唯一無二の王太子殿下は、魔法の実力は言わずもがな、部下にも非常に尊敬されているのだ。
しかし将来を約束された彼だが、性格に難ありというか、悪い奴ではないけど癖が強すぎるというか。とりあえず、今みたいにいちいち右手を前に突き出すポーズを決めるの、何とかなんねえのかなとは思う。
「おー……久しぶりい」
「はっはっはあ! お前、朝なのに元気が無いではないか! そんなに出張が大変だったのか⁉︎」
いや、朝からお前に会ったせいで元気を吸い取られたんだ。わかってくれ。
とは言え、同い年の団長同士として、こうして気安い態度を取らせてくれることはありがたい。
トリスタンと俺は魔法学校の同級生で、当時はよく首席争いをしていた。俺は苦学生で働きながら学校に通っていたから、特待生ラインを超えていれば何位でも良かったんだが、トリスタンはいつでもがむしゃらで、平民の俺を対等な存在として負けまいと一生懸命だった。
いい奴だ。まあ、あの賢明な女王陛下の息子とは思えないくらい変な奴だけど。
「特にキツいことなんてねえよ。こっちは変わりなかったか」
「ああ、平和そのものだぞ。この私が守護するケルダンに悪さをしようとする不届き物など、そうそういるとは思えぬがな!」
トリスタンが自信満々の口調で言い切ったことは、実際俺にとっても頷けることだった。
我が国にはいくつかの魔導師団が存在し、第一から第三師団までが王都ケルダンでの勤務を担当している。
当然軍隊も近衛兵も駐屯しているし、鉄壁の防御と言って差し支えはない。どこの国でも首都の守りは万全にしているものだが、島国であるウェリスは国境を殆ど持たないため、戦力を集中させやすいのだ。
トリスタンは王太子なのに、団長に就任したのを名誉職のことにするでもなくきっちりと勤めているから、そういうところも人気の理由なのだろう。
どちらともなく階段を登り始める。しかし第一師団司令室が入るはずの二階に到着したところで、俺は違和感に気が付いた。
いつもは忙しく立ち回っているはずの第一師団員が、今日は不思議と静かなのだ。
「なんか人が少なくないか? 特別な仕事でも入ったのかよ」
「ああ、そのことなら、シュゼット・フォルタン侯爵令嬢の捜索に人員を割いているのだ!」
俺はポーカーフェイスが得意なのだが、そうでなければ顔に出ていたと思う。それほどに衝撃的な返答だった。
やっぱり。こいつ、シュゼットを探していやがったのか……!
「知ってる知ってる、新聞で見たわ。婚約破棄されて家出したっていうお嬢様だろ」
「うむ、その通りだ。何とも気の毒な話だろう!」
知り合いと聞いた時点で嫌な予感はしていた。トリスタンは知人のか弱いご令嬢が行方不明というこの状況で、高みの見物を決め込むような冷酷さは持ち合わせていないのだ。
それでもまさか部下を動員するとは想定の上を行っているのだが、そうまでするほど心配だとでも言うのだろうか。
「恐らくだが、彼女は婚約破棄にショックを受けたというより、何もかもが嫌になったのではないかと思うのだ。帰りたがってはいないだろうが、可憐なご令嬢が一人で彷徨っているのを放置する訳にも行かぬ。故に探し出して保護しなければと思ってな」
トリスタンが珍しくも真面目な面持ちで述べた内容に、俺は頭の中でいくつかの考えが交錯するのを感じた。
トリスタン、悪い。シュゼットは既に俺が保護しているんだ。いっそのこと打ち明けて協力を仰ぐべきか……?
いや、駄目だ。フメルに知られるのだけは避けたい。トリスタンが完全に味方で、シュゼットを隠すのを手伝ってくれると確信が持てない限り、俺の一存では伝えられない。
というかこいつ、随分とシュゼットのことを理解しているんだな。
部下まで動員したのはフメルに向けての協力姿勢のアピールでもあるんだろうが、それでもトリスタンの個人的な善意も大いに関係しているようだ。
まさか、恋愛的な意味で好きだったりとか、そういうことがあったりするのか……?
「それで探してるのか。お前、やっぱいい奴だな」
刹那の間に思考を断ち切った俺は、トリスタンに向かって笑って見せた。
余計なことは考えなくていい。俺はただ、シュゼットが自由になるための手助けをすればいいんだ。
「何を言うか、私は国王になるため研鑽を積んできた身ぞ! 困っている友も救えずに、王太子とは名乗れまい!」
「はいはい、そうだねー」
また高笑いをして手を前に突き出してきたので、俺はいつものごとくツッコミを諦めて受け流した。
シュゼット、あんた随分面倒臭いのに友達認定されているんだな。まあ、俺もだけどさ。
「何だサディアス、やる気のない。お前は『困っている女の子を捨ておけないタチ』を自称していたではないか」
「ああ、良くご存知だね。俺はそのお嬢様のこと知らねえし、目の前のことで精一杯なのさ」
本当に悪いな、トリスタン。お前の部下を空回りさせるのも申し訳ないが、やっぱり言えないんだ。
けど、シュゼットはトリスタンのことを良い人だと言っていた。帰ったら一応は相談してみるべきだろう。
「それで、手がかりはあったのかよ」
「ないな! 部下たちには周辺諸国に飛んでもらったが、今の所一つの情報も無い!」
トリスタンの成果なし宣言があまりにも堂々としていたので、俺は曖昧な笑みを浮かべるしかなかった。