彼の思惑は誰がために
物心付いての初めの記憶は、この『修復の魔法』と共に始まる。
いつから使えたのかはもう記憶にないが、決定的なことが起きた日のことは今も鮮明に覚えている。王太子殿下の婚約者になる前、まだ侯爵家にて家庭教師の元で勉強していた頃の話だ。
ある日、私はお気に入りのぬいぐるみが破れてしまったことから『修復の魔法』を使った。
すると側で見ていたお父様が急に目を鋭くして、私からぬいぐるみを取り上げたのだ。
「シュゼット、こんなくだらない力を使うな。お前のためにならん」
「おとうさま……?」
私は訳がわからなくて、ぬいぐるみを取り上げられたことと、お父様に怒られたことがただ悲しかった。
魔法が得意ではない私が唯一まともにできることだったのに。もしかしたらお父様も褒めてくださるかしらって、思っていたのに。
「修復など、この世の誰も関心がない。こんなものを使ったら馬鹿にされる」
「それ、なら……使っては、だめなのですか……?」
「そうだ、二度と使うな。普通の暮らしを送りたいのならな」
お父様は冷たい瞳で言い捨てると、どこへともなくぬいぐるみを持って行ってしまった。
一人残された私は、呆然とその場に立ち尽くしていた。
お父様は喜んで下さらなかった。
この魔法は、誰かのために役立つどころか、人に見せるようなものではなかったのだ。
私、何にもできない。魔法も勉強も、ダンスも何もかも、成果が上がらない。
家庭教師の先生には「あのフォルタン侯爵のお嬢様なら、もう少し頑張っていただきたいですね」とまで言われたのだから、きっとお父様だって失望している。
「おとうさま、ごめんなさい。ごめんなさい……」
悲しさと寂しさだけで作られた雫が、頬を滑り落ちていく。
慰める者はいない。静かになったリビングで、私は一人で涙を拭い続けていたのだった。
王太子殿下の婚約者に内定したのはそのすぐ後のこと。
王城で教育を受けるようになっても、修復の魔法のことはその単語すら耳にすることはなかった。本当に世間では必要とされていない力なのだと理解した私は、以降二度と人前で修復の魔法を使うことは無かったのだ。
*
……という経緯があったので、修復の魔法を使うのはかなり久しぶりだったのだけれど。
サディアス様が頭を抱えて動かなくなってしまった。
ようやくお役に立てるかもだなんて、やはり思い上がりも甚しかったらしい。
きっと彼なら馬鹿にしたりはしないだろうと感じていたのだが、やはりこの魔法、よっぽど世間で蔑まれているのだろうか。
「あの、サディア——」
「……シュゼット。この力、いつから使ってた?」
どうにかして取り成そうとしたところで、サディアス様が有無を言わさぬ声音で問いかけてきた。頭は抱えたままだけど、話してくれたことが嬉しくて、私はそっと息を吐いた。
「幼い頃です。でも、人前で使ったのは父以外では初めてです」
「本当か⁉︎」
サディアス様は音がする勢いで顔を上げた。焦りと安堵が入り混じった瞳で私を見つめたかと思えば、最終的には大きなため息をついている。
「良かった……もし世間に知れ渡ったら、守りきれなくなる」
彼の言い分が全く意味がわからないものだったので、すぐには頷くことができなかった。
必要とされない魔法を披露しただけで、どうしてサディアス様はこんなに心配そうな顔をしているのだろう。
「……わかった。色々と確認が必要みたいだな」
彼は観念したように息をついて、少しの考える間の後に、ゆっくりと話し始めた。
「シュゼット、よく聞いてくれ。まずはこの修復の力だが、この世には存在しないはずのものなんだ」
サディアス様がごく真剣な様子で話す内容は、私にとって意味のわからないものだった。
この世に存在しない力とは、一体どういうことなのか。それにサディアス様は一貫して『力』と呼んでいるが、私はごくありふれた『魔法』だと思って生きてきたのだ。
「あの……修復の魔法、と私は呼んでいるのですが。この魔法は世間ではくだらないものとされているのでは?」
「くだらないもの? そんなわけないだろ。ただ世間では特に崇められているわけでもなく……そもそも、そんなものがあるという認識自体がないんだ。この世には修復の力も魔法も、一切存在しない」
あまりにも衝撃的な宣告に私が言葉を失う中、サディアス様は話を続ける。
「これは『大地の乙女』だけが持つ修復の力であって、魔法じゃないんだよ。シュゼットがどう教わってきたのかは知らないが、この力を世間で披露したら間違いなく大騒ぎになるぞ」
私はこの時点でも中々話が理解できなかったのだが、海の色をした瞳に嘘がないことは明らかだった。
大地の乙女も修復の力も初めて聞く単語だけど、サディアス様はこんな嘘を言う方じゃない。それがはっきりしているのなら、よく考えてちゃんと彼の言うことを理解しなければ。
「あの、よくわからないのですが、『大地の乙女』とは一体何なのでしょうか?」
「ああ、そうか。やっぱり知らなかったんだな……」
サディアス様は私が何も知らないことを察していたようだった。未だに容量を得ない私に苛立つ様子を見せることもなく、どこから話すべきかを思案する間を取って、彼は慎重に話し始めた。
「フメルを含むエーヴェル大陸には、古くから大地信仰ってやつがあるだろ。ここまではいいか?」
「はい、それはもちろん。多くの宗教の元になったと言われる信仰ですね」
エーヴェル大陸は世界で最も広大な面積を誇る大陸であり、古来から住む人々はこの大地を非常に重要なものとしてきた。
大地信仰とは『地上にあるもの全てこの大地から生み出された』という理念からなる、自然信仰の一種である。
現在では消え入りつつある信仰だが、この考え方に共感した者達によって、主流となる多くの宗教が生み出されたのだ。
「その大地信仰から生まれたのが、権力者の間で伝わる『大地の乙女』に関する伝説だ。いわく『大地の乙女』は大地からの祝福を受けており、全てのものの傷を癒やし、国々を繁栄させる力がある。聞いたことは?」
「ない、ですけど……まさか」
冷や汗が背中を通り過ぎる感覚があった。
うん、ええと、まさかとは思うけど一応聞いておかないと。
私は固唾を飲んで話の続きを待った。できることなら外れて欲しかった予想は、儚くも的中した。
「シュゼットこそが大地の乙女だ。修復の力を持つ時点で、間違いないだろうな」
——やっぱりそうなんですか⁉︎
私はあんぐりと口を開けてしまった。話の流れで予想できたこととはいえ、二つ返事で納得するにはあまりにも寝耳に水だ。
「で、ですが……! その話が本当だとすると、私は当事者なのにどうして何も知らないのでしょうか?」
「ああ、何も知らされずに育ったってのは、実際ちょっと不思議だな。トラブルを避けて周囲に伏せるにせよ、本人には話して自覚を促したほうがいい気がするんだけど」
まあこれは考えてもよくわからねえしと受け流して、サディアス様は無情にも言い切った。
「特に『国を繁栄させる力』は、大地信仰が残る国にとって垂涎の的だ。あんたはこれから『大地の乙女』だってことがバレないように、気をつけて生きていかなきゃならないんだよ」
更には大地の乙女は感情が昂ると瞳がエメラルドグリーンに輝くことがあり、サディアス様と出会った時にまさにその色に輝いていたのだと、彼は丁寧な説明をした。
つまり、大地の乙女には隠さなければならない特徴が二つある。
一つは修復の力で、これは使わなければ問題ない。
しかしもう一つの瞳の特徴は、意図して隠すのが非常に難しいものと言えるだろう。
「そんな……」
呆然と呟く声は、汽車が前へと進む音よりもよほど小さかった。
ようやく自由になれたのだと思っていた。これからは仕事をしながら一人で立派に、慎ましくも穏やかに暮らしていくのだと。
無理だったのだろうか。
私は初めから、あの王城を出ることなど不可能だった……?
「大丈夫だ、シュゼット。瞳の問題は俺が何とかしてやる」
不意に優しくも力強い言葉が投げかけられて、私はいつのまにか俯いていた顔を上げた。
サディアス様は静かに微笑んでいて、覚悟を瞳の奥に秘めているように見えた。
「魔導師として約束する。瞳の色を変えるような魔法を、俺が必ず開発するから安心して待ってな」
「サディアス様……」
「それまではゆっくりしたらいいだろ。あんた、今まで頑張ってきたんだからさ」
サディアス様のさっぱりとした笑みに対して、この時の私は不安を顔に出してしまっていたと思う。
優しさは無償で与えられるべきものではない。サディアス様がこんなにも親切にしてくれる理由を、私はいい加減に聞かなければならないのだ。
「どうしてこんなに良くしてくださるのですか。私はこれ以上、貴方に迷惑をかけるわけには……」
スカートを握る手にぎゅっと力を込めても、続く言葉が出てこない。
「迷惑だなんて思わねえよ。乗りかかった船だろ」
サディアス様が優しいことは、もう十分理解したつもりだ。
今回私を助けてくれたのは、女性が困っているのを放っておけない彼の性分ゆえ。お礼なんていらないと言われてしまったけれど、やはり何とかしてお返しをしたいと思う。
「サディアス様。貴方は『大地の乙女』の力を見込んで、私を助けて下さったのではないのですか?」
意を決して尋ねると、サディアス様は一瞬、とても無防備な顔をしたように見えた。
真意を言い当てられるのは、彼にとっては珍しいことだったのかもしれない。
けれど私は考えを見透かそうとしたわけではない。ただ、そうであって欲しいことを口に出しただけ。
何故ならば、サディアス様がこの力を求めているのなら、ようやくお礼をすることができる。
一生かかっても返しきれない恩ではあるけれど、ほんの少しでも彼の助けになれたならどんなに嬉しいだろう。
「……参った。やっぱ王族の内政に巻き込まれてただけのことはあるよ」
サディアス様が落とした呟きは苦笑じみていた。
思ったよりも柔らかい声音にほっと胸を撫で下ろしていると、彼の瞳と視線がぶつかった。
「けど、お礼をしようだなんて考えるな。俺は今からものすごく自分勝手なことを言うから、憐れんでくれたらそれでいい」
隣の線路に対向する汽車が通りがかった。鉄の塊の圧力を受けて車体が大きな音を立て、窓の景色が隣の汽車の黒一色になる。
すぐに黒い塊が通り過ぎると、窓の外の風景はのどかな牧場だ。しかし可愛らしい羊も視界に入らず、私は海の瞳が真剣な輝きを宿す様を見つめていた。
「妹が、病気なんだ。シュゼットの修復の力なら治るかもしれない。どうか力を貸してもらえないだろうか」