君に願った我儘は
奴らがツンだと誰が決めた!という気持ちで進めております。
ほっこりして頂けると幸。
しゅっと、何かが目の前を横切った。
思わず視線を向けた先にあったのは、長い尻尾がふわっふわの『ねずみ』だ。
幾度にも及ぶ攻防で、僕はもうこれがお腹を満たす獲物じゃないと知っている。
だから気にしないようにしたいのに――。
それは見ている間にぷるぷるぷると震え出し、ぴゅっと僕の脇へと回り込む。
そういう風に動かれると、気になってしょうがないよっ。
本能をくすぐる絶妙な動きに、僕はたまらずとびついた。仕舞っていた爪がにゅっと出て、手のひらにふかふかの毛が触れる。
捕まえた!
――と思ったのに、なんとそいつはあとちょっとのところでぴょいと逃げた。
むっ。
さささと移動するのを追いかけて、一瞬の隙をみてもう一回とびかかる。
よしっ。
今度こそ自慢の爪がもこもこの毛を捕らえれば、やつは抜け出そうともがき始めた。もぞもぞとする動きを手の中で感じ取り、僕は逃がすものかと抱え込む。勢い余って体が転がっちゃったけど、絶対絶対、離すもんか。
がじがじがじと噛みつくと、そいつはとうとうぴくりともしなくなってしまった。
うーん。完全に動かなくなっちゃうと、どうにも面白くないんだよね。
口を離して握った手を緩めると、それはねずみにあるまじき動きで宙へと舞い上がり、代わりに軽やかな笑い声が降ってきた。
「ふふ、楽しかった?」
声がした方に目を向ければ、僕を見つめる黒い瞳。
それはとっても幸せそうに細められ、見ている僕までなんだか嬉しくなってくる。
くるりと回って体を起こし、ちょっと崩れた膝の上によじ登る。驚いたような顔を覗き込み、あのねと声を掛けてみると――。
「――か、可愛すぎる……!」
その人はなにかを我慢するみたいに口を押さえて、じわりと目を潤ませた。
あれれ、今度は泣きそうに。
大丈夫?と僕は頬を擦り付けた。
なんたってこの人はすぐ泣いちゃうんだ。昨日も薄い板の向こうで、眠る生きものを見てぽろぽろしてた。僕の毛をもふもふしたら止まったけどね。
だからこれでどうだ、とごろごろしてみれば、ひゃぁという声がして、ふわりと僕の身体が浮き上がる。
「うう、尊い……幸……」
いい感じにお尻を支えられ、お腹を肩に沿わされる。
ほっとしたような吐息が傍から聞こえて、僕もふぅと息をつく。
よかったぁ、この人はこうでなくちゃ。
そのままほんわか馴染んでいると、またわしりと脇腹を掴まれた。小作りな顔が向かい合うなりふにゃりと緩み、徐々に僕との距離を詰める。そしてもふりと、お腹に沈み込んだ。
……時々されるんだけど、これは何なのかな……。
少しばかり遠い目になって窓の外を見つめたときだ。
あっ。
「うっ」
聞こえた声に目を向ければ、僕の足がその人の頬を押し返していた。
わぁ、ごめんっ。
でも僕も慌ててるんだ。
きゅっと身体を捻って手から抜け出す。
とっと軽く床に着地し、駆け寄った透明なガラスをかりかりと引っ掻いた。
「ああ、突然のツン……まぁそんなとこも可愛いけど」
沈んだ声と共に足音が近づき、窓が少し開かれる。
涼しい風がさあっと入り込み、僕の髭をふわりと揺らした。
飛び出す前にもう一度ごめんねと振り返ると、温かい手が顎を撫でる。
「しょうがないなぁ、早く帰って来てね?」
元通りに向けてくれた笑顔に、僕は元気よく行ってきますと返事して、夜の闇へと繰り出した。
***
猫の目みたいに細い月。それが昇る日は大事な用事があるんだ。
もともと僕はお外で暮らしていた。
お腹をペコペコにして食べ残しを漁っていたら、今の人が僕にご飯をくれたんだ。
食べものを譲るなんて信じられなかったけど、僕がもぐもぐするのがすーっごく嬉しそうで。
それからはあの人とずっと一緒。
だから今日も急いで帰ろうっと。
ぴかぴか光る灯りに照らされながら、塀の上を伝って速足で進む。虫が鳴くのを聞きながら草むらを突っ切り、壁にできた穴をくぐった。
目指すのは人間には見つからない、僕たちのひみつの場所だ。
「遅れてごめんなさいっ」
はぁはぁと息を切らせて声をかければ、先に来ていた先輩たちが振り返る。
「おう、ちび。やっと来たか」
「はい、途中でちょっと転んじゃって」
「あらまぁ大丈夫?」
そそっかしいなぁと笑うトラのおじさんの向こうから、ミケのお姉さんが駆け寄ってきてぺろぺろと頭を舐めてくれた。
「えへへ、ありがとう」
ほんとなら受け身を取れるはずなんだけど、何故だか身体が上手く動かなかったんだ。
それに最近、ここまでくるのも大変だったりするんだよね。
うーんと考えている間に、積み上げた瓦礫の上にサビのボスが姿を見せた。威風堂々とした兄貴分は、外見に見合った渋い声で話を始める。
雨風をしのげる場所、ご飯が手に入りやすい区域、絶対近づいちゃいけない人間の縄張り……。
良いことも悪いことも全部みんなで分け合って、その日も無事解散になった。
ちらほらと闇夜に消えていく仲間を見送って、僕は近くにいた白毛の大先輩に声をかける。
「ねぇ、じいさま」
「なんじゃ?」
「えっとね、ぼく最近、ここがとっても遠く感じるの」
なんでかな?と尋ねれば、知恵の詰まった頭がうむ、と深く頷いた。
「恐らく、眠りが近いんじゃな」
「そうなの?」
僕なんてまだまだひよっこなのに、どうしてだろう。
こてんと首を傾げると、じいさまはこれじゃと言って僕の胸元をちょいとつついた。
「どきどきしてるじゃろう。おぬしはそれが他の者より早いんじゃ。どんな生き物も同じ数だけしか動かんからの」
思いがけない情報に、僕はえっ、と驚いた。
「人間も? あの鳥もおんなじなの?」
「そうじゃ。早さの違いはあれど、皆決められた数を数えておる」
へぇぇ、と僕は声をあげた。
かみさまはすごいものを作ったものだ。
「じゃあ数え終わると眠くなるの?」
「そうじゃ」
「絶対?」
「絶対じゃな。といっても心配することはないぞ。誰しも同じように眠り、同じところへ行くものでな」
おぬしのことはわしが待っておる、とじいさまは真っ白な髭をそよがせて微笑んだ。
そっかぁ。それじゃあなんにも気にすることなんてなかったね。
僕はじいさまにありがとうと尻尾を振って、身を翻した。
「お帰りっ」
行きと同じようにして外からガラスを掻けば、中から笑顔が現れる。
それを見た瞬間、僕はあれっと瞬いた。
僕が眠ったら、この人はどんな気持ちになるのかな。
ぽろぽろすると冷える手を思い出し、僕は尻尾をしおりと下げた。
「どうしたの?」
声の調子が気遣わしげな、困ったような色をもつ。僕はそれにはっとして、伸ばされた手に毛皮を擦って応えてみせた。
大変だ。
何とかしなくちゃ。
***
どうしたらいいのかな。揺れるふさふさを目で追いながら、僕は考えていた。
こうして毎日一緒に過ごせば、楽しいがどんどん重なっていく。素敵で幸せなことなのに、なぜだかよくないと思ってしまうんだよね。
ころりと転がって、ぼんやりと空を見上げた。
いっそ僕の体も思い出も、溶けるみたいになくなって、初めからなかったみたいにならないかなぁ……。
そしたらきっと、楽なのに。
窓の向こう、澄んだ広い空を鳥がばさばさと飛んでいく。
そういえば空っぽになった鳥の巣に、あの人は泣いたりしなかった。
毎日少しずつ長く飛んで、最後には遠くへ行く。そんな彼らに微笑んでいた。
――よし、決めた。
次の日から僕は毎日お外に出るようにした。
そして少しずつ時間を延ばす。
朝から昼、朝から夜。朝から朝。
はじめは帰る度にぎゅうぎゅう抱き締められたけど、近頃は慣れてきたみたい。
それはね、とてもいいことなんだ。
僕は何度もそう思った。
集まるみんなには会う度にさよならを言って、ありがとうと笑った。
トラのおじさんは楽に過ごせと言ったけど、クロのお兄さんはそれも一つの道だと頷いてくれた。
きっとみんな、それぞれ大事なものがあるんだろうな。
なら僕も変わらず歩いていこうと考えた。
こうして僕の身体が前よりずっと重くなって、あの人がひとりに慣れたころ。
いつになくもふもふしようとする手をすり抜けて、僕はいよいよ外へと歩き出した。
塀を伝って馴染みの角を反対に曲がり、どこか知らない場所へと向かって進む。
あの人が行けるところはとても広い。
だから僕もたくさん歩いた。
お腹が空けば昔みたいに食べ物を漁って満たし、時には余所者として追いかけられる。
だれもいない物陰で眠って体を休め、そしてまた、歩く。
猫の目みたいな月がぷっくり太って、まただんだんと細くなっていった。
踏みしめるほどあの人の匂いが薄くなっていくことに気づいて、僕は笑った。
僕の匂いも同じように、いつかきっと消えるだろう。
行く道の、ひんやりとした感覚が足の裏に伝わる。
冷たいのは好きじゃないけど、大丈夫。
そんなことを思っていたら、突然目の前がぐにゃりと揺れた。
為す術もなく塀から身体が落っこちて、がさりという音と共になにかが僕を受け止めた。
独特な匂いが鼻を刺す。
なんだ、ごみ捨て場かぁ。
いくつも重なった袋の上、僕は横向きに倒れていた。
始まりに戻ったような偶然に、妙な可笑しさが込み上げる。
これで間さえ抜け落ちれば言うことないのになぁ。
眠るにはいい場所じゃなかったけれど、とにかくとってもだるくって。
ちょっとだけ、ちょっとだけ休憩しようと僕はゆっくり目を閉じた。
光の消えた真っ暗な中で、風だけがさわさわと僕の毛を撫でていく。
描くのは、小さな僕を振り返る君の笑顔。
――あぁ、嬉しいなぁ。
まるで陽だまりの中にいるみたい。
だからね、どうか。
笑っていて。
たとえ遠く離れても。
僕の願いが生きて、君に届きますように。
***
それからどれくらい経っただろう。
ぶんぶんぶんと音がして、何かがヒゲをくすぐった。追い払うのも面倒で、目を閉じたまま遣り過ごす。
そうしていると、ぽたぽたぽたと体に何かが落ちてきて、毛皮にしっとり染み込んだ。
あぁ、雨かなぁ。
まだもう少し、歩かなきゃ。
雨をしのげる場所を探そうと、僕はすうっと目を開けた。
すると――。
――え。
ぽたりと水滴が落ちてくる。
そんな、うそだよ。
あり得ない景色に、なぉぅ、と喉から音が出る。
その瞬間、大粒の雫がいくつも降ってきた。
「……よかっ、たぁ……」
冷えた両手が僕を拾いあげ、そしてぎゅっと、抱き締める。
それが、とても、あたたかくて。
なんで。
大丈夫、って、言ったのに。
平気だって思ったはずなのに。
君の存在が容赦なく心の中に染み込んで、僕は震えながら手を伸ばす。
どうしよう。
どうしよう、やっぱりすごく、すごく――。
離れたくなんてないんだなぁ……。
我儘な思いを胸に、僕はその人の肩に巻き付いた。
ぐすぐすと、悲しいくて辛いはずの響きが耳に届く。
なのに僕は胸がいっぱいで、そのまますぅすぅと眠ってしまった。
***
それから僕は、その人が用意したふかふかの枕に埋もれて過ごした。
起きては撫でられ、ご飯を食べては目を閉じる。
寄せては返す眠気があまりにも穏やかで、起きられなくなっちゃいそう。
――だめだめ。
その前にちゃんと伝えておかなくちゃ。
人間の言葉を話せない僕だけど、この気持ちだけはどんなにしたって届けたい。
だから君が笑うときみたいに目を細くして、優しい手に小さな額を押し付けた。
たくさん、たくさんありがとう。
君が誰より大好きなんだ。
伝わったかなって見上げたら、嬉しそうな顔からぽたっと雫が落ちてきた。
なんだか、お天気雨みたい。
君の笑顔が温かくて、零れた涙がきらきらしている。
幸せだなぁ。
こんな贅沢、きっと他にないんだよ。
***
私は昔、ある可愛い子と一緒にいた。
終わる間際に、ひっそりを願った小さな子。
我儘な私は君の望みを叶えてあげなかったね。
暑苦しいくらい傍にいて、さいごは大泣きして見送ったのを覚えてる。
ねぇ、酷いでしょう?
だけどね、いつか来る喪失にどれだけ涙を零しても、君と一緒にいたかったの。
小さな温もりを抱えて家に戻り、柔らかな毛をただ撫でる。
言葉を話せない相手に、それ以上想いを伝える方法を知らないから。
届いたかなんて分からない。
でもいちばん最後は、気持ちよさそうに目を閉じたよね。
――あれからどれくらい経ったかなぁ。
会えてよかった。
傍に来てくれてありがとう。
大好きだよ。
そんな幸せな思いと共に、君は私の胸に生きてるよ。
お読み頂きありがとうございます٩(*´꒳`*)۶°˖✧
1.腹モフ、2.猫会議、3.終わりを悟ると居なくなる
という猫要素を詰め込んだら、何故かにゃんこっぽさを消失してしまいました。なんでやねん……。
まぁ心臓の話はともかくとして、いい人ほど早く……と言うのは本当だなとよく思います。皆さまひっそりなんていわず、是非とも我儘にいきましょう~