大嶋廻り余話012 -風の道-
母鳥の後をよちよちと雛鳥たちが連なって、転びながら高原の草陰を行く。
涼やかな秋口の風は柔らかく、灰色の空の下でも穏やかな風光に心は和んだ。
「あとひと月もすれば、あの子たちも親元を離れて立派に巣立ちます」
千羽姫の言葉に頷いて、私は口元に笑みを含んだ。雷鳥の雛たちは飛ぶことを得意としない鳥だからか、ころころとして本当に可愛らしい。
「この辺りはご神域だからいいけど、風喰平には狐や貂もいるんでしょ? 雷鳥は飛ぶのが下手っぴだから、大変だよね」
「ええ。他にも猿だとか、鷲や鷹にも狙われますから」
「えっ、千羽姫も雷鳥を食べるの?」
「私が、ではなく鷹が、です。ここ風渡に於いて、神や宮守衆が鳥類を獲物とすることは稀です。お互い付き合いもありますから」
「だよね。びっくりした」
ここは風渡北部に広がる高原、風喰平。中でも雷鳥トーテムを祀るらいの鳥神社のご神域だ。
呼子神社での托卵騒動に終止符を打った私たちは、千羽姫から是非にと乞われて二宮である真白斑神社を訪れた。次はその足で一宮を目指そうと思ったのだけれど、千羽姫の提案を容れてここ、風喰平へとやって来た。
「それにしても高原ならもっと風が強いかと思ったのに、驚くほど穏やかだよね」
「それが風喰平の名の由来です。至る所に溝の走る複雑な地形が、風を散らし、或いはぶつかり合わせて、強風が起こるのを阻んでいるんです」
「へー、不思議な場所だねぇ。それで、ここから風渡去まではどのくらい?」
「狼の足なら十日ばかりでしょうか。風喰平は溝さえ避ければどこまでも平坦ですから、進むに差し障りもありません。風喰平を抜けて直ぐの所に風渡去の里があるので、後は風の道に乗って半日もすれば一宮です」
風の道。それは最辺境にある風渡去の里から一宮の鳥居前町である風渡返の里までを一方通行に結ぶ突風ライン。一たび風に乗れば超長距離を瞬きもせず飛び抜ける奇跡の空路だ。
私は千羽姫からその話を聞かされるなり、是が非でも空渡る風の道を通りたくなった。故に今、こうして風喰平に立っているのだ。しかも、そのルートを行けば風渡北部を旅して尚、風渡月三日の天開神事に間に合う。
「それでは首刈様。私は神事の支度があるので社へ戻ります。次は一宮でお会いしましょう」
「うん。ここまで付いて来てくれてありがとう。現地のガイドさんがいるといないとじゃ大違いだもん。色々聞けて楽しかったよ」
「それは何よりでした。この先は阿呼様の言うことをよくお聞きになって、無事な旅をお過ごし下さい」
「あ、はい」
千羽姫と旅をした時間が楽しかったことは間違いない。ただ、今もこうして釘を刺して来る点から分かる通り、この娘と来たら何かと口喧しくていけない。何事もビシッとしていないと気が済まない性質なのだろう、真白斑神社へのお誘いも「寄って行って下さい」と言われれば無下にもしないものを、「是非ともご来臨の栄誉を賜りたく」と来るんだから肩が凝ってしまう。その上、阿呼と妙に意気投合して、私と放谷は何かにつけて二人のお説教を喰らう日々。今日までに心根疲れ果てたと言っても決して言い過ぎではなかった。
一宮での再会を約して、らいの鳥神社へと去る千羽姫を見送った私は、やれやれ清々したと大きな大きな深呼吸。そこへ入れ違いに阿呼と放谷が戻って来た。らいの鳥神社で食べ物やら野掛装束やら分けて貰ったそうで、それらを輪違に放り込んたら、ここからはまた三人の旅路だ。
***
来る日も来る日も黙々と歩くのは、人里の少なさや、地形の起伏の乏しさもあるけれど、何より頭上から圧し掛かって来るものが原因だった。
「これで空が晴れてたら文句なしなのに」
幾日歩こうと見上げる空は常にぶ厚い雲に覆われている。千羽姫によれば風渡では一年を通じて雲を見ない日はないのだそう。勿論晴れる日はあるけれど、青一色の快晴はないのだと。
変わり映えのない曇天。これが風に流されて風渡台地の端を越すと順々に千切れてはぐれ雲になる。黒鉄に陽が射すのはその為だ。月卵山が流れ雲を阻む真神では、一転して青々と晴れる日が多い。
「お姉ちゃんは風渡八大の神事のこと、何か知ってる?」
寒い土地柄から、足の速い秋色が風喰平の所々を赤や黄色に染めていた。そんな、目に楽しく映る物を探しながら妹の質問に答える。
「天開神事でしょ? 大嶋中の鳥トーテムが集まるとは聞いてるけど、それ以上詳しいことは知らないかな。放谷はどう?」
隣を行く放谷は頭の後ろに手を組むいつもの格好で、軽く仰け反るようにして歩いていた。
「んー? 風渡の秋冬は鉛色の雲に厚く覆われるって話だろー。それこそ寒さに木枯れる土地って訳さー」
「それが神事とどう関係するのよ?」
「そりゃー関係するよー。天開神事ってのは沢山の鳥たちが一斉に羽搏いて、それで以って垂れ込めた雲を打ち払おうって神事だぞー。秋と冬とに晴れ間を拝めるのも、みーんな天開神事のお蔭って訳さー」
へぇ、と唸った。四季の内二つもの季節を雲に閉ざされたとあっては気鬱の上にも気鬱だろう。それを数知れぬ鳥の翼が割って開く空は紛う事無き天の恵み。割れた雲塊から注ぐ黄金色の陽射しを思えば、その美しさを期待しない訳には行かなかった。
「そうなると、今頃から神事までの間は本当に、こうして雲ばっかりを見上げる毎日ってことか」
風渡台地に上がってからこっち、晴れ間を目にしなかったのも当然だ。大嶋の秋は野飛月、風渡月、黒鉄月と続く。天開神事は毎年風渡月の三日に行われるから、ここ風渡では野飛月が丸々雲の季節ということになる訳だ。
私はふと足を止め、改めて低く漂う雲底を眺めた。そして自然と思い浮かんだ詩を口遊む。
幾年ふるさと 来て見れば
咲く花 鳴く鳥 そよぐ風
門辺の小川の ささやきも
なれにし昔に 変わらねど
荒れたる我家に 住む人たえてなく
昔をかたるか そよぐ風
むかしをうつすか すめる水
朝夕かたみに てをとりて
あそびし友人 今いずこ
淋しきふるさとや さびしき我家や
風渡の景色には犬童球渓の詩情がよく似合う。初めの頃は寂し気に映るばかりだった場景も、今ではどこか昔を思わせて、ともすれば朽ちて行く景色に見えるのだけど、そこかしこ、小さな営みは確かにある。そこに温もりを湛えている。吹き寄せる旅愁の中にホッと安らぎを落としてくれるのだ。
「私は好きだな。無量感ばかりじゃなくて、なんだかふっと、帰って来たくなる場所って感じがする」
「そりゃー風渡だけになー」
放谷の駄洒落が歌の余韻と感傷を風の谷間に突き落とした。けれども口振りとは真逆に、懐かしむようにして周景を一望する相棒の瞳。
放谷の生まれ育った風合谷も風とは縁深い土地で、何より放谷自身、その神名に風を冠している。故郷を想う歌を耳に、心だけ風合谷へ渡っているのかもしれなかった。
***
風渡月に入って間もなく、私たちは風喰平を抜けて風渡去の里に到達した。道中のほとんどを獣の姿で走ったのは、千羽姫から狼の足でなら間に合うと言われていたからだ。
「小さな里だけど、建物はどれも立派ね」
「うん。風渡北部でここだけが地図に名前の載る里だから」
「早いとこ今日の宿を見つけて飯にしよー」
夕暮れの里は栗の木の板葺に石を乗せた民家ばかりだけれど、簡素に見えるのは屋根だけで、どれもしっかりとした構えの大きな造りだった。やはり風の強い土地だから、草を葺くとなると大変なのだろう。
私たちは人の姿に移姿て里へ入り、宿を探し歩いた。けれども目当ては見つからない。ここまでの辺境になると旅人や行商人の行き来もないだろうから、当然と言えば当然だ。
「仕方ない。里長の所へ行って、どこか泊めて貰える家がないか聞いてみよう」
里人に道を尋ねて長の家の戸を叩く。すると夕餉を終えて早寝しようという寝間着姿の老夫婦が出迎えてくれた。案の定、里に宿泊所はないとのこと。それでも時折里の様子を見に来る鳥神様の為の祠が寝泊まりもできるように設えてあると聞き、早速そちらへ向かうことに。
強まる向い風に負けじと進めば、防風林の裏手は茜色の夕空に向かって開かれた断崖。そこにぽつねんと五間流造の、祠と呼ぶには立派なお社が建っていた。横手から回り込むと、恐ろしいことに裏は懸造。震えが来るほど大きく崖から迫り出して、今にも落っこちそうだった。
「この祠、寝てる間に海に落ちちゃったりしないよね?」
「心配ならあたいの糸で括っとくかー?」
「それもどうなの。勝手に手を加えるのはちょっと……。いや、朝になったら解けばいいか。念の為に括っといてくれる?」
「任しとけー」
ほとんど後ろ半分が迫り出しているから、如何に懸造の桁がしっかりと組まれていても、不安なものは不安だ。
「それにしても風が強い」
断崖を覗き込むと一粁下から海鳴りが響いて、激しく砕ける波飛沫が見えた。地図で見る限り、天気さえよければ海を挟んで対向里島が見える距離にある。
「島は見えたかー?」
「全然ダメ。雲がかかってる上にもう陽が暮れちゃうもん」
「そいつは残念だったなー」
「天開神事が終わって雲が晴れたらまた来ればいいよ――。あれ? 阿呼は?」
「んー? そー言えばさっきから見てないけどー」
「どこ行ったんだろ。阿呼ー!」
祠前まで一緒だった妹が影もない。しっかり者の真面目ちゃんが一言もなしにフラッといなくなるとは妙な話だ。私は放谷に補強作業を任せて祠の真正面まで戻った。すると、私と放谷が回り込んだのとは反対側の角辺りにポツンと佇んでいる我が愛妹。
「どうしたの阿呼。呼んでたんだよ?」
「ごめんなさい。でもお姉ちゃん、阿呼、あれを見つけたの」
「おん?」
雲に見飽きて見上げることを忘れていた私は、高い空に浮かぶ瑠璃色の帯に目を瞠った。
「何あれ!? 放谷ーっ、ちょっとこっち来てー!」
押っ取り刀で駆け付けた放谷が何事かと問いを発すれば、私は背伸びをして上空を指差した。
「おお? なんだあれー?」
「謎。でも滅茶苦茶奇麗」
薄っすらと半透明な、晴れた日なら空色に紛れて見落としそうな瑠璃色の帯。それが分厚い雲のキャンバスに浮いて、ストローのような口を向けている。帯の先は斜めに切れ上がって雲の中へと溶け入っていた。
「お姉ちゃん、阿呼ずっと考えてたんだけど、もしかして、あれが風の道なんじゃない?」
「ああっ、風の道か!」
降って湧いた謎は立ちどころに氷解した。
「てっきり目に見えない物だと思ってた。全然そうとは気が付かなかったよ。多分合ってる。雲に紛れちゃってるけど南の空に向いてるし、あの切れ口から飛び込めば、雲の上の空を渡って一宮まで運んでくれるんだよ、きっと」
想像もしていなかった美景に見入って、明日はあれを渡るのかと興奮気味に話をしていたら、三人揃って仲良くお腹が鳴り出した。
とにもかくにも晩ご飯だ。
祠に入って驚いたのは奥行きのある懐深い造り。中央一間は白木の板張りで、奥正面に簡素な祭壇。右手を見れば艶のある黒木の板敷に囲炉裏が切られて、手前方に堀られた土間には井戸、流し、竈、と炊事ができるようになっている。左手前は板囲いに戸が二つ。奥は畳敷きで、寝床用の分厚い御座畳がお誂え向きに三つ並べられていた。
「ほほー。こいつは祠と言うより無人宿だなー」
「ほんとね。見て、立派な御座畳よ。隅にお布団も積んであるから、今日はぐっすり眠れそう」
感心する二人を促して先ずは祭壇に礼拝。祭壇奥の壁には数々の御神紋が筆書きされていて、どうやら風渡の全トーテムが祀られているようだった。
「あの戸はなんだろう?」
「開けて見りゃ分かるさー」
言うが早いか駆け戻って戸を開けて行く放谷。後ろから阿呼と覗き込むと、一方は厠、一方は木桶風呂だった。
「お風呂付の祠とか初めて見た。何これ。最高じゃん」
「だったら飯より先に風呂じゃないかー?」
「うん、そうしよ。井戸水を張ったら阿呼が御業で沸かすから」
「おけまる! それじゃあ早速水汲みだ」
井戸水を汲み上げて風呂桶やら盥やらに移し、せっせと湯船に運び込む。何往復かしてそろそろ半分かという辺りで突然、背中に怒涛の如く冷や水がぶち当たった。
「ふぎゃー! 冷たいっ、何すんのよ!」
振り返って文句を言うと戸口で茫然と立ち尽くしている阿呼。その阿呼がそっと片手で土間の方を指差した。私が風呂場の戸口から顔を出して土間を睨むと、
「ごめーん。水曲で水を飛ばしたら早いかなと思ってさー」
なとど宣い頭を掻いている放谷。こんにゃろめ。お蔭様でこっちは水浸しだよ。
「やるならやるって言ってからにしてよね! 全部私に当たって湯船には一滴も入ってないんじゃないのよっ、おバカ」
「ごめんてばー」
笑顔の謝罪に怒る気も失せる。濡れはしたけど清水をお洗濯モードで使えば問題ない訳で、とにかく一気に体か冷えたから、急いで水汲みを終わらせることにした。
カポーン――。
お風呂と言えば幻聴のように聞こえて来る謎のフレーズ。それを背景に三人では手狭な木桶風呂に肩まで浸かる。すると溢れたお湯がザザーッと贅沢に流れて、冷えた体に血がめぐった。
「三人でギリギリだね。大人なら二人でも目一杯だ」
「うん。真神の庵のお風呂より二回りは小さいもの」
故郷の木桶風呂を懐かしく思い出しながら、どうやっても肌の触れ合う狭さがかえって心地よく感じられた。
「でも、あれだなー」
「うん? あれって?」
「やー。今晩ここに寝泊まりして、明日には一宮だろー? するってーと、転宮、土宮、暗宮、波宮、馬宮と来て、白守は北風宮だったけど、扇宮にも行って終に風宮だー。巡り巡って八大宮。これで大嶋廻りも一区切り付くってもんだよなー」
放谷の言う通りだ。大嶋廻りに於いて大なる目的の一つだった八大神のお膝元歴巡。白守には次の春にでも再訪するとして、天開神事を節目に大きな区切りが付くことに違いはない。
「真神を出てから丸三年とちょっとか。長かったような気もするし、思ったより早かったとも思える時間だよね」
「そうね。色んなことが沢山あって、阿呼はとっても楽しかった。どこもまた行ってみたい場所ばっかりよ」
「あたいも白守以外ならまた行ってもいーよー」
「白守には冬以外の季節に行くから平気だよ。私だってあの冬には懲りたもん」
「なら風宮の次はどこへ行くの?」
「どこへ行こうかなぁ――。そうだ。風渡を旅しながら犬神神社まで戻って、今度のお正月はそこでのんびりしない?」
「そいつはいーなー。あそこの温泉は最高だー」
「阿呼も賛成。久し振りにみんなと一緒に過ごしたい」
大宮の家族とはまた別の、犬神夫婦と仔狐兄妹が待っていてくれる我が家。まだしばらく先のことに思いを馳せて、その日、私たちは寝床に就いてからも、秋の夜長を想い出話に耽って過ごした。
***
「よし、じゃあ行くよ。二人とも忘れ物はない?」
「うん、大丈夫」
「おー、いよいよ風の道だなー」
一晩お世話になった祠を隅から隅まで奇麗にし、用心の為に懸造の桁に巻き付けた糸も取り払って、整然、私たちは崖際から瑠璃色の空道を見上げた。
「今、丁度午後の一時。風渡返まで半日かかるって言うから、着くのは真夜中になるよ。街道と違うから途中休憩はなし。間違っても飛んでる最中に寝たりしないよう気を付けてね」
「はいっ」
「あいさほいさー」
空の旅はそれだけでロマンチックな半面、現実的に考えるとかなりの困難が伴う。十二時間の空中拘束と考えただけでも相当辛い。睡眠は元より、食事休憩、トイレ休憩、一切なし。
昨晩話し込んでいる内にそのことに思い当った私たちは、今朝は二度寝で寝溜めをして、食事は水分を極力控えた献立にした。
半透明の筒状に見える風の道が、実際にどういった構造なのかは分からない。原理も不明だ。ただ普通に考えたら眠った途端に海へ落っこちることは明らか。飛行の御業を維持できなくなるのだから当然だ。空腹に関しては輪違から摘まめるものを出せばいいとして、尿意便意は気合で我慢する他ない。無論、清水のお洗濯モードで奇麗にはできるけど、漏らした事実は一生消えない。花の年頃の乙女が背負うには余りにも重い十字架だ。唇を食い破ってでも耐え忍ばなくては――。
私と阿呼は一種悲壮な面構えで挑む気になっているからまだいい。問題は放谷だ。この生来楽天家な蜘蛛は事態の重大さを理解できているのだろうか。さっきから終始ヘラヘラとしてけつかる。知らないよ? 注意はしたからね。
「お姉ちゃん。阿呼、もう一回お手洗い」
「行っといで。慌てなくていいよ」
妹を見送って相棒にも「行っとけば」と促せば、薄い胸を叩いて「どんと来い」などとほざく始末。心配してるこっちが馬鹿みたい。
やがて阿呼が戻って来ると再び空を睨め上げた。
「飛鳥――!」
三人同時に星霊の翼を広げて、いざ行かん、空の旅路へ――。
海側から吹き寄せる風は断崖にぶつかって上昇気流を生む。その勢いに乗って帆翔すれば、遠く見えた風の道がみるみる迫って来た。
「なんかこれ、自分の感覚で飛べない! 二人とも平気?」
瑠璃色の口穴が近付くほどに、それがまるで掃除機のホースであるかのように吸い寄せられて行く。口穴の直径は四、五〇米はあるだろうか。上昇気流がいつの間にか押し上げる突風と化して、バランスを取るのがやっとだ。速度の調整に手が付かないまま、あれよという間に吸い込まれてしまった。
瑠璃色の内壁にぶつかる――!
流された体を制御できず、衝撃に備えてギュッと目を閉じた。しかしどうしたことか。衝撃はおろか、口穴を潜る時には猛然無類の勢いだった風がはたともそよがない。そろりと目を開ければ目と鼻の先に迫った半透明の壁の向こう。恐ろしいほどの勢いで流れて行く雲が見えた。
「何これ? これだけの勢いで進んでるのに、空気抵抗がちっともない」
「お姉ちゃん。ここ、翼を広げてるだけで独りでに安定するみたい」
阿呼の指摘に強張っていた四肢を弛緩させると、体は風の道の中央に寄せられて、三人等距離に並んで飛び始めた。
「思ったより楽ちんそーだなー。これなら寝てても付くんじゃないかー?」
「おバカ、そんな訳あるか。絶対に寝ないでよ? 翼を引っ込めたらどうなるかなんて、誰にも分かんないんだからね」
瑠璃色のチューブラインは分厚い雲に管を通して、グングンと斜めに切れ上がって行く。流れて行く雲の色が段々と鈍色から乳白色に変化して、青味の強い蛍光灯の色になったと思った刹那、眼前に真っ青な空が開かれた。
「うわーっ、こんなに奇麗な青空見たことない! 凄い凄い!」
なんと言うか、空が滅法近い。よく抜けるような青空と言うけれど、ここまで近いと空の青が今にも降って来そう。
「お姉ちゃん、見て。下の方もびっくりするくらい素敵よ」
眼下を覗けば無辺の雲海が燦々と降る陽射しを照り返していた。真綿を一面に敷き詰めたような、私の二度の生涯に於いて空前絶後の快絶極まる美の世界。
「まるで別の次元に迷い込んじゃったみたいだ……」
ともすれば心の洗われる音が聞こえて来るようで、雲心月性の境地に達したんじゃないかなと、妙な気すら覚えるほどだ。
「後ろから鳥が来てるぞー」
今度は後ろか。
肩越しに振り返れば星霊の翼を透かして真鴨の群が飛んで来る。彼らは非常に高高度、そして長距離を渡る鳥だ。すると海抜一〇〇〇米の風渡台地から雲を突き抜けた私たちは今、四〇〇〇から六〇〇〇の高度を飛んでいるのかもしれない。
ガァガァと鳴きながら、雁、鴨系の鳥が織り成す見事なV字編隊を二段に組んで近付いて来る。きっと風の道を飛び慣れているのだろう。流れに任せて飛ぶだけの私たちよりも、一段速い速度で羽搏きながら上と下を通り越して行った。
「どこまで行くのー? 一緒に行こうよ」
遠ざかる群に呼びかけると、鴨たちは一斉に翼を打って大きく右へ。そのまま瑠璃色の壁を摺り抜けて高度を下げて行った。
「おお、途中でも降りられるんだ。またね。素敵な空の旅を!」
風の道を抜けた鴨の群は途端に速度を減じて、それこそあっという間に後方に消え去ってしまった。
それにしても感動だ。もう驚き慣れたと思っていた心を、こうまで震わせる事象がある。きっと、この先何年かけて大嶋廻りを続けたとしても、様々な未知が様々な感動を運んで来るのだろう。それを思うと止め処なく期待に胸が膨らんだ。
「凄いね。私たちの住んでる世界は本当に底知れない! この素敵な惑星を、いつまでも、どこまでも、私たちの手で守って行かなくっちゃだよね」
「うん! 阿呼はお姉ちゃんと一緒に頑張る。楓露で暮らす全部の命に幸せになって欲しいもの」
「あたいにも頼ってくれよなー。なんたって蜘蛛は真神の護宮だー。守ることなら任せとけー」
込み上げる嬉しさに笑い合いながら、光る風に乗ってどこまでも。風の道は途中、幾度か高度を下げて下界の空へ舞い戻り、海岸線の崖を掠めては再び雲海の上へと飛び出した。恐らくは低い空を飛ぶ鳥たちが通れるようにそうなっているのだろう。大抵の鳥は五〇〇米未満の高さまでしか舞えない。一〇〇〇にも達すれば大したものだ。中には一〇〇〇〇米の上空を舞う禿鷲もいると聞くけれど、滅多矢鱈にお目にかかれるものではなかった。
下界と天界を行き来する内に、秋空の夕日は雲の彼方へ。雲海の上に青藍のケープが広がると、次第に濃く藍を深めて、鉄紺の夜空が映し出された。
「もう、これは、どう言葉にしたらいいの? 分かんないよ」
浮かび上がって来たのは目にも絢爛な星たちの舞踏会。彼方に見える丸みを帯びた大気の層の上、繊月に席を譲られた大小色とりどりの星が妍を競うかのように瞬いている。
紫に煙る天の川はさながら星たちの舞踏室。連星の流れ星が五線譜を描けば、線上の星々は音符となって少歩舞曲を奏でだす。
「阿呼たち、まるでお星様の海を泳いでるみたい――」
「あたい白守のことは思い出したくもないけど、この星空はオーロラって奴にも負けないくらい奇麗だなー」
世界には、どう讃えても讃えきれない美というものが確かに存在する。精神的にではなく物理的に。それらは両の眼でしっかと捉えておきながら、尚もその存在を疑いたくなるほど輝やかしく映るのだ。
高い空から見上げる星界は果てをも知れない深さの奥から、神秘の光で私たちの胸を貫いた。一瞬、鼓動と呼吸が同時に止まり、瞬きも忘れて見入る内に音もなく爆発する感動。そうなるともう、キャーキャー騒ぐゆとりはなくなって、言葉少なに沈黙に身を委ねる以外、あらゆる手立てが失われてしまう。
「やばいなー、これ」
放谷の呟きにもう少し言葉を選んで欲しいと思ったけれど、確かにこの景色はやばい。
「やばいね、実際」
「首刈もかー。じゃーどーするー?」
「どうする? どうもしないよ。こうしてるだけでお腹一杯だもん」
「お腹一杯? あー、首刈は大の方かー。そりゃー大変だー」
「大? 放谷、あんたさっきからなんの話をしてるの?」
「あたい、おしっこ漏れそー」
「をいっ!!」
この場面でそれを言うとか、何から何まで台無しだよ!
「言わんこっちゃない! だから最後にトイレ行っとけって言ったじゃんかっ」
「あの時は平気だったんだよー」
「あほか! もう夜になったんだからあとちょっと我慢して」
「真夜中に着くって言ってたよなー? 今は何時だー」
「ちょっと待って」
輪違に手を入れて懐中時計を引っ張り出す。パカッと蓋を開ければ時刻は午後九時になろうかという辺り。
「まだあと三、四時間はかかる」
「えー! そんなに長くは無理だよー。あたい漏っちゃうよー」
「喝!! 下っ腹に力込めて我慢する。心頭滅却すれば火もまた涼しなんだから」
「下っ腹に力って、それ絶対漏れるやつじゃんかー!」
「知らないよ。放谷が悪いんでしょ」
ひーこら言う放谷のお蔭でせっかくの夜景も霞んでしまった。けれど、私にも阿呼にも手の施しようなんてない。最悪、漏らした後で清水をかけてあげるくらいが関の山だ。
ところがどっこいすっとこどっこい。小一時間唸り続けていた放谷が急に静かになった。これは終にか、と横手を覗くと、開放感に満たされた顔で悠々と空を飛んでいる。
はて? 訳を求めて視線をずらせば、半ズボンの内股から黄金色の細い帯。
「こらぁ! 放谷!」
「大丈夫。あたい思い付いたんだー。水曲で流せば服にも肌にも触れないよー」
こいつ、いらん知恵を回しよった。まぁ股座に大きな染みを作らずに済んだのは僥倖。それにしても神が空から放尿とかあり得ない話だよ。ギリギリ海上とは言っても、風渡の東海岸は海風がきつい。下手をしたら誰かの頭にひっかかるなんてこともなくはないのだ。
けれど放谷ばかりに気を取られてもいられない。実のところ、私もさっきからチラホラと尿意に苛まれている。十二時間の長丁場というのも理由には違いないけれど、放谷が漏れる漏れると騒いだことが大きい。せっかく絶景に気を逸らされていたのに、一気にそっち方面へと意識を向けられてしまった。
「お姉ちゃん、大丈夫?」
「うん? うん、なんとか持つと思うけど、着いたら速攻トイレだね。阿呼は大丈夫?」
「……だいじょぶ」
「……そか」
やばいわこれ。姉妹揃ってピンチですわ。ホントこれどうしてくれよう? 星と雲の海の狭間を、尿意抱えて飛ぶ神とか、シュールが過ぎて眩暈がして来る。
もしもの時は放谷、絶対にあんたを許さないんだからね!




