大嶋廻り余話010 -花曇弥生姫命-
作中曲「蜉蝣の歌」のDLリンクはメモ書き(https://ncode.syosetu.com/n5560gr/1/
)にあります。
空幻千草姫命。
それが琥珀に閉ざされた女神の名前。
琥珀を覗き込んだ心媛からその名を告げられた時、私は、生い茂る草陰に優曇華の花が咲く様子と、舞い踊る蜉蝣の儚い美を思い浮かべた。
私は悩んだ。
薄翅を広げて風に煽られながら空を行く姿。更にはその命の短さを以って幻とする物悲しさ。けれども千々揺れる草原に描かれた群影には、眩しいほどの命の輝きが見て取れる。
完璧だ――。
千草姫の母神は真を打ってこれしかないという名を付けた。それに勝る一名を、どうすれば名付けられるだろう。
「心さん」
「なぁに、皇ちゃん?」
「蜉蝣神の神名は?」
「ああ、それね。恨めしいけど残滓だもの。名前の翳りはどこにも見当たらなかったわ」
「そう、ですか」
彼の名はあの時、私と共に巻き起こした星霊の渦の果てに消えてしまった。ならば尚のこと、その残滓だけでも双子神に受け取って貰いたい――。
私は記憶を手繰り寄せた。
千草鼠の千早に山藍摺の袴を履いて、目にも鮮やかな左伊多津万の神気を纏っていた蜉蝣神。
濃く揺らめく左伊多津万の緑を、私は自らの若草色の星霊で押し込めて、渦を巻く流れの中に紅葉を散らして掻き消した。
「花――。花はどうかな?」
散り際に添えたのが紅葉なら、出迎えの今は花を贈りたい。双子神の名に花を冠すれば、蜉蝣神の残滓も霞草のように咲く気がした。
私は少し離れた所で折り目正しく正座している妹を見た。その隣りでは胡坐を掻いたお伴の蜘蛛神が舟を漕いでいる。
「阿呼はお花、とってもいいと思う。蜉蝣の翅は花弁みたいに奇麗だもの」
色よい答えに頷いて、再び思考を巡らせる。
空、幻、千草。
そこへ花のイメージを重ねたとしたらどうなる? 空と花を映す景色に幻を視るとするならば。
私は桜の岸辺を思い浮かべて、心だけ花暖簾の下をそぞろ歩いた。そうして湧き上がって来た言葉は――。
「花曇り――」
呟けば、ザンバラ禿の心媛がうんうんと頷いた。妹も感心したように両手を合わせている。放谷は相変わらず居眠りしていたけど、由良々ちゃんもお茶を淹れかえる手を止めて微笑んでくれた。
春の盛りを迎えた今こそ花曇りの言葉は似つかわしい。野に敷き詰めた緑を塗り替える花の色は、これから生まれ変わろうとする女神にぴったりの名だと思えた。
一方、千草は草の生い茂る様子。そこにあるのは生命力の表われだ。となればまた別の言葉で言い表すことができる。
古人は草木の芽吹く春の様子を、いやおいという言葉で表現した。文字には旧暦三月、弥生の字を当てる。ここ大嶋では水追月。今が正にそうだ。
今日ここに戻ると同時に新生する女神。その門出を祝うに相応しい名ではないだろうか。
これでよし。
他にはない。
私は心に襷して筆先を墨に浸した。左手に短冊を取って筆先を宛がい、頭から仕舞いまで、一筆書きの覚悟で走らせる。
技は技。上手であるに越したことはないけれど、「技術で書くな。心で書け」と、この短い間に心媛から教わった通り、多少の振れや滲みには目もくれず書き貫いた。
花曇弥生姫命――。
書き終えた短冊を返して一同に差し向ける。文字通り、神々もご照覧あれと。
「とてもいい名前だわ」
心媛はそう漏らして、受け取った短冊をしばらく凝っと見つめていた。
***
儀式の場は整った。
私は八角の縁台から成る内陣の、階を背にした縁に座している。先程まであった文机が片付けられると、両横に阿呼と放谷が戻って再び三人横並び。
目の前の黒い毛氈には襖二枚分の半紙が敷かれ、半紙を抑える金の文鎮の両脇に、産霊山の金と銀で拵えた柱台が据えられていた。
台の先端の皿部分にはそれぞれ、金の側に双子神の琥珀、銀の側に蜉蝣神の星霊結晶が安置され、静かに時を待っている。
心媛と由良々ちゃんは文鎮の先にある祭壇前に並び、祭壇には神名短冊を供えた三方が置かれていた。
二人が祭壇を拝むと、それに合わせて私たちも座拝を行った。顔を上げれば由良々ちゃんは祭壇脇に控え、心媛は縁台中央へ出て半紙の上に佇立した。
「神鳴手形――」
静謐が震えた。
堂間を囲む八本の柱から燈明の光が射して、差し上げられた心媛の右手に忽然と、本人の背丈よりも長大な筆が現れた。そこには物々しさこそないけれど、引力を持つ神気が漂っていて、目が釘付けになってしまう。
手形とは筆や筆致を指す言葉でもあるから、恐らくはこれが、扇宮に代々受け継がれし筆神の神宝なのだろう。
私が過去目にした同じ位階の神宝としては、千軽ちゃんの持つ真木割槌が挙げられる。更には私と阿呼が継いだ天津百眼と天左右牙も同様だ。それらはいずれも原初の九柱の初代様の手による神宝で、比肩する物のない逸品だった。
「皇ちゃん、リラックスよ。今からすることは何も難しいことではないの。鶏の卵を叩いて割るくらいの気楽さでいいのよ」
あって間だから心配ないと心媛は言う。そうは言っても堂間に漂う気配を察すれば、こっちはどうしたって背筋が固まる。
「それで、私たちは何を?」
「そこにいて。今からこの神座に文字が躍るから、一つ一つの文字を心に念じて、星霊を注いでやって頂戴。分かった?」
「はあ……」
珍紛漢紛ですがな。
文字が躍る?
まぁ、ここは筆神様の神座なんだから、そういうこともあるんでしょうね。でもってそこに星霊を注ぐと。ふむふむ。やることは単純だけど、果たして――。
「要するに、名は体を表すと言うことよ」
「その心は?」
「蜉蝣の神はここで姿形を得るの。その姿は皇ちゃん、貴女が記した神名によって形作られる。分かるでしょ?」
「そう言われると物凄いプレッシャーなんですけど……」
「乳バンドの話はしてないの」
「いや、ブラジャーじゃなくてプレッシャーね。しかし参ったな。で、星霊を注ぐって言うのは? 琥珀と結晶の分じゃ復活には足りないって意味ですか?」
「ちがーう」
そんな呆れ調で否定しなくても。そりゃ私はバカだけど、そうまでされると哀しくなる。
「号けの儀は心ここに在らずでは成り立たないの。しかも神名よ? 名付けは想いを宿す御業。名を改めて生まれ出ずる子には、健やかなれ、幸多かれと願う心があってこそでしょ? そうでないなら、どうして命は生まれて来たいと思えるの?」
それはその通りだ。命は望まれてこそ生まれるて来るんだし、無垢な命の誕生は祝われて当然。私たちだって再生の祝賀を期待して黒鉄の地へと来たのだから、だったら素直にその想いを注げばいい。つまりは誕生を言祝ぐ為の星霊、と言うことか。
「分かりました。それじゃあ他になければ始めて下さい。阿呼も放谷もいいよね?」
「うん。阿呼はいつでもおっけーよ」
「あたいもー。文字でも槍でもどんと来いってなー」
こちらの気構えが整うと、心媛は「行くわよ」と発して大股を踏み込んだ。
ズンと腰を沈めた勢いを駆って半紙の中心にグルンッと体を一回転させる。すると併せて滑った神筆の毛先が勢いよく墨飛沫を散らし、大輪の円を描き上げた。
てっきり文字を書くと思ったものがどうしてか円で、その訳を疑るより早く、飛沫に備えて両の瞼を反射的に閉じる。
あれ――?
飛沫が飛んで来ない。
そろりと目を開ければ眼前に繰り広がる御業の玄妙。
宙に留まった飛沫は俄かに蝙蝠へと姿を変え、描かれた円の上を筒状に舞い踊り始めた。それを目で追う内に蝙蝠たちは再び溶けて姿形を変えて行く。
「何してるの、星霊よ!」
「あ、はいっ」
呆気に取られて忘れていた。意識を切り替えて役目に立ち戻り、両隣りと息を合わせて星霊を注ぎ込む。すると姿を溶かした蝙蝠たちは次第に文字へと化けて回り始めたではないか。
花――淡い花片を徒然に、乱れ咲きの舞扇。
曇――筒状に霞を曳いて、薄く棚引く春催い。
弥――蔓を引き、蔦を絡め、差連く若葉の条。
生――墨引きの円に萌え立つ青いきれは双葉の閫。
姫――花も蔦も草も、憙に震えて結ばれる姫垣。
命――白く輝く翅を広げ、垣根から群立つ花蜉蝣。
なんて美しいんだろう。これが命の息吹か――。
紅白の夾竹桃が編む低い垣根。それが円筒を螺旋に繋いで流れて行く中、星霊の彩りに光り輝く翅を広げて、蜉蝣たちが一斉に飛び出した。
「私これ、どこかで見た――」
呟めきと共に脳裏を過ったのは、大地の金継ぎから飛び立った無数の虫たちか。或いは青海鏡の闇に見た蒼い魚群の影絵なのか。他にも草原を埋め尽くした獣たちの円陣があれば、凍える冬に見た煌めく細氷も輝いて、まるで大嶋そのものの息吹がいっぺんに迫って来るようだった。
例えばそう。胎児の夢が進化の過程を辿ると言われるように、私は今、生命の生まれ変わる鮮烈なイメージを目の当たりにしるんじゃないだろうか。
自視点映像を見て揺さぶられる体のように、私の心はグラグラと揺られ、そんな意識の片隅で、尚も止まらない心媛の筆運びを追いかけた。
筆先はボッタリと含んでいた墨を力書きした円に吸われ、しなやかに細まった毛先でサラサラと精緻な図柄を描いて行く。
鶴翼を模る枝葉から細い糸を幾筋も引いては、その先端に可憐に結ばれる繭玉たち。
そうか。心媛が描かんとしているのは蜉蝣トーテムの御神紋。華胥の夢に咲く優曇華の花だ――。
「お姉ちゃん、阿呼、なんだか怖い」
私だって怖い。
隣りを見ると放谷も、頬は緩んでるのに目が緊張で笑えていなかった。
でもこれって怖いだけじゃない。
感動と、期待と、不安。そんな感情が混ざり合った中から希望と恐れが顔を出して来るような。それは多分、生みの苦しみに伴う心理と似てるんだと思う。どうしてそう思うのか理由なんて分からないけど、無性にそんな気がしてならなかった。
「首刈ー、台を見ろー。何か来るぞー」
ハッとして目を走らせると、円筒の幻想の外側、金の台と銀の台の上で琥珀の勾玉と星霊結晶が眩い光を発していた。
私たちが送り込んでいる星霊は円筒の幻をなぞるように流れて、終端から外へと向かっては金銀の台へと流れ込んでいる。星霊は台の支柱を煙のように立ち昇り、琥珀の勾玉と星霊結晶を光の珠に包んでは宙へと押し上げていた。
琥珀が纏うのは錆びを知らない不屈の金色。
結晶が纏うのは奸邪を知らせる清らの白銀。
それぞれの色に包まれた玉と結晶が、フワッと浮き上がって無軌道な舞いを披露する。そうかと思うと次の瞬間、渦巻く姫垣の中へ一直線に飛び込んだ。と同時に完成した御神紋がまるで魔法円のように若草色の輝きを発し始めて――。
「心さん!?」
玉と結晶が円筒の中心に寄って心媛にぶつかる。そう見えた刹那、心媛の姿は掻き消えて、無数の蝙蝠が円筒の外へ飛び出して来た。
一群の蝙蝠は祭壇の横手、佇立する由良々ちゃんと対の位置に容を結び、丹色の瞳輝かせる心媛の立ち姿を映す。
「皇ちゃん、仕上げよ。言祝いで!」
恐らく散の御業で外へ出たのだろう。姫垣を流す幻燈を前に、心媛の発した言葉を受けて、こっちは周章狼狽だ。
そんな無茶振りってある!?
星霊を注ぐだけでいいって。鶏の卵を割るように簡単な儀式だって。そう言ってた舌の根も乾かない内に、ここへ来て予定にないことを言わないで欲しい。
言祝げって?
そりゃ気持ちはあるけど、拝詞の草案も用意してないのにどうやって?
思ったことを口にすれば立ちどころにケチが付くこの首刈様に、一体何を言えと?
「お姉ちゃん、歌よ!」
「歌えー! 首刈ーっ」
真っ白な頭に分かりやすい答えが放り込まれて、そうか歌かと得心した。
おけ、はあく。
それにしたってこの流れではキツイけど、気持ちはあるんだからやってやれないことはない。だって私は今日と言う日を、彼女の帰還をずっとずっと待っていたんだ。
「分かった、歌うよ!」
今、目の前では金の輝きが人の形を取ろうとしている。更にはまだあやふやなその姿を銀の被膜が覆うように被さって行くのが見える。
私の使命は、双子神の手を取って、谷川の畔に立つ蜉蝣のお宮へ連れて帰ること。その想いを叶える手段が歌ならば、それは私が大嶋廻りに際して風合谷で願ったことと寸分も違わない。正に本望ズバリだろう。
さあ、出ておいで。
私は手を差し伸べた。そこへ姫垣の走馬灯を透かした黄金色の御手が伸びて来る。
ミトンを付けたような手は次第に一本一本の指の形をはっきりさせて、指先に留まった一匹の蜉蝣が必死に煽る風に耐えていた。
大丈夫。
もう平気。
怖がらずに、さぁ、私の手を取って――。
おはよう おかえり
あなたを手招く世界は
やさしさ いとしさ
あふれる想いに満たされ
笹舟の行き着く
岸辺に乗り上げて
懐かしい小路を
二つ曲がれば花宿
ゆっくり おやすみ
青苧の香るふるさとで
疲れた 体を
静けさが癒してくれる
忘れてた温もり
段々畑から
吹く風に誘われ
夢に見た昔を
行く当てのない
想い出ひとつ
忘れないで
どんな時も
寄り添える
花蜉蝣
私は最初、双子神を迎えるその喜びを歌った。
目の前に蘇らんとする彼女の手を取り、里帰りの道案内に立つ自分自身を想像した。
そこにあるべき安らかな時間。穏やかな青苧畑を見渡して、束の間、過ぎ去りし日々に思いを馳せる。
想像の中の彼女の横顔。その向こうに影を見つけた時、銀の光となって彼女を包む蜉蝣神の姿を見た気がした。
忘れられよう筈もない。
私は恐らく、彼を殺した。
星霊結晶という形で縁は残ったけれど、歌の中にその影を見止めた時、はっきりと自分のしたことを理解した。
取り返しのつかないことをしたんだと思う。已む無しと言えども、許されないことを。
だから私は、それでも精一杯やったんだと自らを叱咤して、これから先、しっかりと前を向いて生きようと誓った。
いつまでも忘れずに。少なくとも私と彼女だけは、仇花のように咲いた花蜉蝣を、永遠に心の中に留め置くんだと――。
「やっとお会いできましたね」
獣の耳に触れたその一言で、それまで引きも切らず胸に去来していたあらゆるものが、音もなく引き潮に浚われて行った。
「今日まで待たせちゃって、ごめん、ね……」
泣くまいと。笑顔のお出迎えをしようと思ったのに、へんてこりんな泣き笑いになってしまって、手を取り合う距離だと言うのに、弥生姫の顔がちっとも見えない。
「首刈様。乙弟には最後までよくして頂きました。弥生は心より感謝しています」
そんな嘘かと思うような言葉が、嘘とは思えない声音に聴き取れて、私は込み上げるものを抑えきれなかった。
許されないことをしたと思い。許されなくていいんだと固めた心を尚も許されて、どこか怯えていた気持ちが丸裸になってしまったのだと思う。
わんわん泣けば阿呼と放谷に優しく背を摩られ、前からは弥生姫に抱き竦められた。
「よかったね、お姉ちゃん」
「これでようやく胸の閊えが取れたなー」
うん、うん、と頷いて、やっとこさ顔を上げればみんなの目尻に光る玉。
私はなんて幸せ者なんだ。恵まれ過ぎなくらい恵まれている。泣くも笑うも共にしてくれる仲間がいて、目の前には待ちに待った新生の女神がいてくれる。
線の細い、けれども虫神にしては背丈のある弥生姫は、細造りな面立ちに青蛾の眉を引いて、愛らしさと美しさがバランスよく同居していた。
「やっぱり似てるんだね」
「それはもう。乙弟とは双子柱ですから」
琥珀の勾玉石を携えて長く旅をして来たからか、初めて会うような気持ちにはなれなくて、友遠方より来たるの懐かしさばかりが胸を占めた。
「弥生姫――」
「はい」
「これからは弥生ちゃんって呼んでもいい?」
「首刈様から頂いた名です。如何様にも好きに呼んで下さい」
「ありがとう。それから……、おかえり!」
「はいっ、只今帰って参りました」
弥生ちゃんは涙の痕も隠さず、青い眉を笑みで弧にして、元気に返事をしてくれた。
長かった。
護解から黒鉄へ一足飛びに行かないことを、融和策の都合だとか、急がば回れだとか、様々に理由を付けて来たけれど、どこかに自分を誤魔化そうとする気持ちがあったことは確かだ。
けれど今日という日を待ち望んでいたことは本当。僅かにあった不安な心も、案ずるより産むが易しの言葉通りで、終わってみれば弥生ちゃんの、そしてみんなの優しさに救って貰う格好になった。
***
リリリ、リリリリ――。
夏の夕べに虫たちの合奏を聴きながら、仮屋の縁側で摘まむ甘味は本日試作したばかりの夜船。馬神の尻尾で作った裏漉し器の利き目か、滑らかな漉し餡は僅かも喉にかからず胃袋へと滑り落ちる。
「なるほどねー。筆神の秘儀に関しては確かによく分からなかったけど、万事いい塩梅にケリが付いたならよかったじゃない。中々楽しい話だったわ」
「それはどうも。って、あんた幾つ食べてんのさ」
「ほむ? ほれへほっふめ」
「口に入れたまんま喋るんじゃないの」
「うるさいわね。好物なんだからいいでしょ。ケチ臭いこと言わない」
夕星は五つ目に手を伸ばしながら自慢の脚を縁側にぶらぶら。
すっかり長話になったけれど、短気な馬娘がよくもまあ文句も言わず付き合ってくれたものだと、私は私で妙な感心の仕方をしていた。
「で、その先は?」
「その先? 勿論、扇宮で茅の輪を借りて優曇華宮まで弥生ちゃんを送ってったよ。そこで何日か逗留して、名残惜しくも私たちは大嶋廻りに逆戻り。黒鉄のあっちこっちを回ってさ。そうそう、奚童天然洞なんかにも行ったりしたね」
「はぁ!? あそこって魔境よ? 半人前がよくも行けたわね。私も昔、お婆ちゃんに肝試しだって連れて行かれたことがあるけど、速攻で逃げ出して来たわよ」
「分かる。私も行きたくて行ったんじゃないからね。堵列神社に行こうってことになって、そしたら向こうから来たお迎えの子が、色々案内してくれるって言うから付いて行っただけなんだよ。それがとんだ地雷だったって訳。でも楽しかったよ。地下でしか見られない物が一杯見られた」
「貴女ってば本当に心臓よね。私は二度と御免だわ――。それで、優曇華宮の方はそれっきりなの?」
「うんにゃ。黒鉄の次に風渡を周って、一応は八つの地方を巡り終えたでしょ? 一段落ついてからは折に触れて顔を出しに行ったよ。ここ最近は分宮造営の関係で間が開いちゃってるけど」
その後の青苧の里は言うまでもなく朗らかな日常を手に入れた。
新しいお宮に生まれ変わった主祭神を頂いて、それまでにも調査局の支援で復興していた里が、前にも増して色付いたと言うか、活気付いたと言うか。
北の高台から里を一望した時、弥生ちゃんは言葉なく佇んでいたけれど、故郷を見渡す鶸色の瞳はとても優し気で、風に靡く天鵞絨の髪は青苧の葉の如く輝いていた。
私も誇らしかった。
月光の下、遮二無二戦った里の夜景はもう過去で、これからはお日様の下、平和な大嶋に相応しい、明るく穏やかな日々が営まれて行く。
鎮守の杜の奥には花蜉蝣とだけ記した奥津城が建てられ、蜉蝣神の遺品がそこに埋葬された。この世の頚木から解き放たれた彼は、静かで深い杜の中に眠り続けることだろう。
「弟神の神名なら弥生姫が知ってるもんじゃないの? 記憶はそのままなんでしょ? 奥津城にくらい、神名を残してあげたってよかったんじゃない?」
六つ目の夜船をお茶で流し込んで、夕星は思い浮かぶままに疑問を唱えた。
「確かにそうなんだけど、私は結局、そのことは口にしなかったな。双子の間のことだもん。弥生ちゃんがしたいようにすればいいと思って。それにオリゼーは、今はもう花蜉蝣になって、弥生ちゃんを見守ってくれてるんだと思う。少なくとも私はそう信じることにしたの」
「ふぅん」
夕星はそれ以上何も言わず、黙って一点を見つめていた。
「ダメだよ。私まだ一個しか食べてないんだからね?」
「チッ」
「六個も食べといて舌打ちするなぁ!」
「だって私は客よ? 出し渋る方がおかしくない?」
「ケロリとした顔でよく言うよ。客らしい要素がどこにあった!?」
「さぁね? でも私、誰かさんに尻尾抜かれたし?」
「むぐっ……。そ、それは……」
「頂きっ!」
「あーっ! 返しなさいよ私の夜船! 尻尾のことは謝ったでしょ」
「やーだよ! んじゃまたねー、ばいばーい!」
言うが早いか夜船を咥えて、夕星は茅の輪の向こうへ消え去った。
あり得ない。幾ら客だからって、縁起よく八つ作った夜船を一人で七つだよ? この恨み、晴らさでおくべきか。いつか必ずギャフンと言わせてやるんだから!
憤懣やる方なく芒畳の上を転げ回って、バタッと伏せれば虫の声。夏の庭に宵の口と来れば、一年で一番多く蜉蝣が羽化する時季だ。
長物語をしたせいか、心は沓取山を越えて青苧の里へと思いを馳せた。その内にまた、折を見て顔を出しに行こう。
その夜、私は久方振りに筆を執った。気の向くままに筆を走らせ、近頃とんとご無沙汰な妹や放谷と誘い合わせて訪ねたい旨を書き綴る。草々と結べは行間に浮かぶ思い出の数々。私は思い立って庭へ降り、手紙に添える押し花にと白い夾竹桃の花を探した。
あの日――。弥生姫に贈った花扇は今、私の手元に置かれている。梅を押した私の扇と彼女に贈った夾竹桃の扇とを、取り換えっこしたからだ。青苧の里へ赴く時には、きっとそれを差して行こう。手土産は決まっている。食いしん坊の馬神に好評だった夜船を沢山作って行こう。
「あった」
月の光を浴びて白く輝く夾竹桃。一枚の花弁がはらり舞い落ちれば、花蔭からは入れ替わりに、生まれたばかりの蜉蝣がひらひらと舞い上がる。
「今夜は夢見がよさそうだ……」
見送る先で番になって、戯れ踊る花蜉蝣。儚い命を精一杯に、素敵な真夏の夜の夢を――。




