大嶋廻り余話004 -真っ白な世界-
明昏に むつの花咲き 冬構へ
天狗風立ち 冴ゆ虎落笛
心のままに嶋歌を詠んで、割拝殿の土間の向こう、風合谷に降る雪を見る。肌に染みる寒さが、今年も年の瀬が近いと告げていた。
この日、私は来たる新年の月追神事に向けて、打ち合わせをしに二宮に放谷を訪ねた。
大宮の神座を継いで間もなく、最初の月追神事を執り行った時は、お母さんを始め、年配の神々に手取り足取り教えられてどうにかこなした。二度目となれば万事私が主体となって取り仕切らなくてはならない。また、立場上の責任を別にしても、失敗できない理由があった。
今年、私は自分の意志で真神を飛び出し、青海山中に分宮の造営を手掛けた。完成はもう間近。年明けにはお披露目の杮落としができるだろう。
故郷を離れる事情は色々あって、一言にはまとめられない。ともあれ外界に居を移すに当たり、毎年の月追神事だけは滞りなく執り行うことを固く約束をした。だからこそ、親や先達の手を離れて行う今年の神事に失敗は許されないのだった。
「おー、さぶさぶっ」
かじかむ手を擦り合わせながら、本殿二階の御神座へと駆け上がる。引き戸を引くとムワッ。御神座は蟻の這い出る隙も無く火鉢だらけ。当宮の主、放谷は冬が大の苦手だった。
「あっつ! さすがにこれはやり過ぎじゃない? 冬場はちょっとしたことで火事になるんだから、気を付けないと危ないよ」
ひょうきん者の放谷と初めて出会ったのは秋のこと。冬には赤土の熱帯に移動していたから、当初、私は蜘蛛の低温耐性など気にも留めていなかった。
翌年の冬は野飛。内陸部は冷え込むと聞いたので、比較的温暖な沿岸部を回った。とはいえ緯度は高いから、氷風に吹かれたり、海に降る雪を見たり。そんな時も放谷は寒いなどと文句を言いはしなかった。
では何故、今こんな状態になっているかというと、原因は更に次の冬。白守を訪れたことにある。
二年目の秋、野飛入りを果たした私たちは、丸一年をのんびりと草原の旅に費やした。そうして来たる冬を待ち、満を持して冬の白守に挑んだのだ。そう、原因はこれ。
十年の歳月が流れた今、大嶋廻りを振り返ってみると、白守ほど手強い土地はなかったと断言できる。私一人がそう言うのではなく、阿呼も放谷も口を揃えて言うことだ。
白守――、そこは白銀の悪魔が住まう場所。
白守――、それは私たちみんなのトラウマ。
その地を旅すれば、心の声は常に「もうゴールしてもいいよね」と囁き続ける。
生きて南へ戻れば「ねばーごーばっくしらかーみー!」と、誰もが子供の教育上よろしくないハンドサインを突き立てることだろう。
ぶるるっ、思い出すだに寒気がして来た。
「首刈ー」
「んー?」
「今、白守のこと思い出してたろー?」
ギクッ。
もこもこの掻い巻きに身を包んで火鉢の前から動かない放谷。図星を指された私は上ずる言葉で返した。
「べ、別にそんなことないけど?」
「嘘だー。あたいには分かるー」
ジロリと半眼になる空色の瞳。
「ほんのちょっとだけだよ」
「いいかー、首刈ー。あたいの前で白守の話はするなー。考えるのもダメだー。白守のことは忘れろー。いいなー? 忘れるんだぞー」
気持ちは分かる。痛いほどに。何となれば白守を旅してる間中、放谷はほとんど仮死状態だった。
過日の私たちは、
「冬ぞ白守、冬知らずして白守を語る勿れ!」
などと息巻いて意気揚々と挑み、聳え立つ冬将軍を前に成す術もなく打ちのめれた。それはもう降る雪に命乞いをしたくらいだから相当な負けっぷりだ。
放谷の言う通り、私だって忘れたい。
でも、苦難の果てに目にしたあの光景を、私は生涯忘れないだろう。そしてそれはきっと、放谷にしても同じ想いの筈だった。
***
「雪だー!」
「真っ白ー!」
「おー、キラキラしてるなー」
秋も終わろうという黒鉄月の末。私たちは長らく拠点にしていた競大社を辞して、大原東西を一路西へ。野面大原にある温泉地、湯坐の里に逗留していた。
寒空を眺めては温泉に浸かり、一晩ぐっすりと体を休めたら、夜の間に大雪が降ったらしく、外は一面の銀世界。早速飛び出して新雪に足跡を刻み、雪玉を作って投げ合いっこした。
「やっぱり冬は雪だよねー。これを見なくちゃ始まらない」
「野飛も北部の辺りはすっかり冬ね」
「真神の冬もたっぷり雪が降るけど、ここらも負けてないなー」
宿の囲炉裏端でホッカホカの朝ご飯を頂きながら、様変わりした世界に胸弾むひと時。
「おや、お宮の衆の皆さんは野飛の冬は初めて?」
給仕してくれる女将さんに元気よく頷いて、これから白守に行くのだと胸を張った。
「まぁまぁ白守へ? この時期に? ああ、白妙山の三冬神社にお使いか何かで?」
「いいえ。三冬神社にも勿論寄りますけど、私たち、四方祝社まで行くんです。できたらもっと北まで。あと宮終島も!」
得意顔で答えると、女将さんは怪訝な顔をして、けれどそれ以上は何も言わずに、お茶を出し、隣りのお客へと移って行った。
四方祝社とは即ち白守一宮、白守四方祝神社のこと。南北三つの山系に分かれる三冬山脈の最北、氷柱山系の山中にある大嶋最北の神社だ。別宮である四方宮を除けば、それより北に神社は存在しない。正に大嶋きっての秘境神社だと言えるだろう。
「お姉ちゃん。今の女将さん、夕星さんとおんなじ顔してた」
「ね。やっぱりこの時期に白守に入る人は少ないみたい」
「その点、あたいらは神だからなー」
野飛を出て白守を目指す段となり、そのことを夕星に言ったら、珍しく真面目な顔をしてこちらの正気を疑って来た。なんでも「冬を待って白守に入る馬鹿はいない」のだそうで、夕星は私たちが春を待って出立するものだと思い込んでいたらしい。
他にも、ジーノスやバースタンを誘ったけど来たがらなかった。
ジーノスは梟トーテム、バースタンは企鵝トーテムの信徒。だからと思って計画段階で声かけしたのだけど、最初は乗り気だった二人が、冬に行くと告げた途端、青い顔で固辞して来た。
分からなくはない。冬こそ白守と思う反面、最北の地の厳しさは私にだって想像はできる。けれども私たちの故郷真神だって、標高からすれば寒い土地だ。
更に言えば人と狼では寒さへの耐性が違う。しかもただの狼じゃない。私たちは神だ。その上、秘密兵器もあった。
「私たちにはこれがあるもんね」
膳の下げられた囲炉裏端にトンと置いたそれは、琺瑯に輝く河鰐革の深沓。
素材は水門神社の主祭、川面滾姫から頂戴した彼女自身の皮革。それを押しも押されぬ万古神、夜刀ちゃんが腕を振るって神宝に仕上げてくれた逸品だ。
私と阿呼に一足ずつ。誕生日プレゼントに貰ったもので、水気の力を宿し、水上、雪上、氷上を訳なく歩ける優れ物と来ている。
「あたいの分はないけどなー」
「平気よ。難所に行ったら、お姉ちゃんと阿呼で両側から支えてあげる」
「そうそう。私たちはこれまでも、チームワークで乗り越え来たんだから」
ひと通りの雪中装備は競大社の鳥居前町、丸里で揃えて来た。馬競神事の舞台である祭祀奉納大社殿は普段、市場として開放されていて、これが野飛最大の市場というだけあって品揃えも豊富。放谷の装備にしたって不備はない。
温泉宿を引き払った私たちは、雪原に埋もれた霧の通路を北に向けて出発した。
その日は快晴。私たちは雪目対策に購入した簾式遮光具を付け、放谷は梮を履いて歩いた。簾式遮光具はゴーグルのレンズ代わりに簾を嵌め込んだ装具で、雪原の反射光を大幅にカットして雪目を防ぐ。
途中、これと言って何事もなく、予定していた無人宿に到着。翌朝早くに出発して、昼を待たずに野飛と白守の境界線に到達した。
境界の目印は生きた唐檜の大木に差し渡された注連縄。地上一〇米と高い位置に括られいる。神域の外のことは人の手でやる仕事ばかりだから、これを渡すには相当な苦労があったろう。
「凄いね、立派な注連縄だ。唐檜も真っ直ぐに伸びて堂々としてる。門柱に相応しい立派な木だ」
「うん。ここを潜ったらもう白守ね。お天気もいいし、ほら見て、お姉ちゃん。放谷もほら、三冬山脈の稜線があんなにくっきり見えてる」
「おー、雪化粧と青い山肌がブチになっててきれーだなー」
白守には三つの冬があると言われていて、その象徴として三冬山脈が南北に長く横たわっている。長い稜線は一六〇〇粁米の彼方まで続いていて、その先はもう、誰も見たことのない世界。
「さあ、ここがスタート地点。途中もう一泊して最初のポイント、蓬の関を目指すよ」
「おー!」
湯坐の里と白守三宮こと鵠宮までを結ぶ霧の通路には二つ難所がある。どちらも並走する三冬山脈から西に突き出した尾根筋にある峠で、南は蓬の関、北は霧降峠と呼ばれている。
幸いにして、湯坐を発ってからの三日間、私たちは好天に恵まれた。二泊目の無人宿も薄暗い内に出発し、計画した旅程を順調にこなして行く。昼頃には目指す蓬の関に差しかかり、えっちらおっちらと山道を登り始めていた。
「ふーっ、ここまでは順調だね」
「うん、全部予定通りに来てる」
「今日は峠で一泊だったなー」
気温は一度か零度くらいだろうか。動き続けているから余り気にはならない。今日は蓬の関にあるという、白妙三冬神社の宿坊に厄介になる予定だ。明日は道を外れて三冬山脈に入り、白妙三冬神社を参詣する。
「そう言えばお姉ちゃん」
峠道の途中、木々の開けた場所で見晴らしを楽しんでいると、阿呼が白い息を吐きながら尋ねて来た。
「野飛の時みたいに、一宮にお手紙を出しておかなくていいの?」
「ああ、それはいいの。いきなり行って驚かせちゃおうと思って」
ちょっとした悪戯心を告白すると、阿呼も楽しそうに笑った。放谷も「南風のやつ、どんな顔するかなー」とニヤけ顔。
「さあ、立ち止まりっぱなしだと冷えちゃうよ。今日のお宿まで頑張って登ろう」
空飛ぶ御業が使えても、大嶋廻りで初めて訪れる場所なら、なるべく楽をしないのがルール。どんな難所も一歩一歩、自分たちの足で地道に進んで行く。
やがて赤松林の木陰に可愛らしい神門が見えて来て、その奥にこじんまりとした一軒家を発見。
「着いたー! 蓬の関、制覇!」
「お姉ちゃん、放谷、お疲れ様でした」
「なんなら今日は、熱い風呂にでも入りたいよなー」
「放谷それ! 温泉なんて贅沢言わないから、お風呂に入りたいよねー」
「阿呼もお風呂で温まりたーい」
無人宿では他の利用者のことを考えて、薪を節約する為に清水の御業で身綺麗に保っていた。でもそれだとサッパリはできても体は温まらない。ここらで熱いお風呂で体の芯から温まりたい。私たちはそんな欲求を抱えて、急ぎ足で宿坊の戸を叩いた。
***
三冬とは暦の上で冬に当たる三箇月を指した言葉。大嶋では白守月、真神月、水走月がそれぞれ該当する。けれども白守へ来れば事情は異なる。
白守の冬は風渡月の中頃、白妙山に初冠雪を見た時に始まり、護解月の半ば、美冬岳で雪解けが始まるまでを冬とする。実に半年。七つの月に跨る長い長い冬だった。
一の冬は風渡月から白守月。北から降りて来た寒気が一心に雪を降らせ、真白なる世界へと塗り替えて行く。
二の冬は白守月から水走月。全てを凍り付かせる氷点下の静寂が白守全土を覆い尽くす。
三の冬は水走月から護解月。再び風雪の日々が舞い戻り、春を焦がれる者たちに最後の試練を与える。
そう語ってくれたのは白鼬トーテムを祀る白妙三冬神社の主祭、夜音響露隠姫命。
純白の千早には三冬雪花の御神紋。三つの花は一の冬を象徴する験の証拠、二の冬の竜胆、そして三の冬の節分草。どれも小さく可憐な花で、冬に咲く健気を表していた。
「なんだか、聞いただけで寒くなって来ちゃった」
身を抱いて二の腕を摩ると、露隠姫は両手で口元を覆って笑みを隠した。雪肌に短く切り揃えた淡藤色の髪。愛らしい顔立ちながら、紅桔梗の瞳には活発な輝きを秘めている。
野生の白鼬は愛苦しさの下に強烈な暴力を秘めた天性の狩人だ。狼と違って単身で狩をするのに、群の獲物を見れば皆殺しもザラ。何より脳喰らいという狂気じみた側面を隠し持っている。前世ではアニメ史上に残る悪役として描かれたことすらあった。
きっと露隠姫も、奇麗な顔をして血みどろの過去を隠しているに違いないよ。真っ白な特攻服を着せたらさぞ似合いそうだ。でもちょっと目鼻立ちが可愛すぎるから、シャドーやチークでアクセントを付けた方がいいかも。
「それにしてもこの時期に白守とは、随分と逞しいことです」
失礼な妄想を膨らませていら、もう随分と耳タコな言葉を投げかけられた。
「それ、誰も彼も口を揃えて言うんだけど、ここまでずっとお天気だったし、こっちは寧ろ、吹雪いたところを見てみたいくらい」
ねっ、と隣りに振れば阿呼もコクンと頷いて、
「吹雪は大変そうだけど、はらはら舞う雪は阿呼も見てみたいです」
放谷が黙ってるのは出されたお団子に夢中だからだ。白餡入りの白玉に米粉をまぶしたもので、雪団子なる白守では定番の甘味。素朴で飾らない味わいは如何にも大嶋の情緒で、私も食べてしばらく無口になってしまった。
「吹雪きますよ」
「へ?」
「蓬の関から先はこの時期、昼も夜もなく吹雪きます。一の冬は白守の大地に雪を蓄える季節。そして長い冬は絶えて忍ぶもの。ですから皆様も余り無理はされませんように」
現地の神様にそう言われては、さすがに今までがお気楽過ぎたかと顧みる気持ちにもなる。それでも神宝の深沓があると思えば、何がどうあれ立ち往生することはないのだし、老婆心からの親切と受け取って、この場は気を付けますとだけ答えておいた。
神社を出て振り返ると、どこまでも白く輝く名峰白妙山。その女性的な山容に背中を預けて神門までの道を下って行く。これが実に片道四時間。私たちは宿坊にもう一泊して、温かい食事と熱いお風呂の恩恵にあずかった。そして翌朝は再び早暁の出発。
***
シンと冷えた空気を時折揺らして、あちこちから枝を滑る垂り雪の音が聞こえていた。簾式遮光具を外せば眩い銀世界。天候は維持されたままだ。
露隠姫は脅すようなこと言っていたけど、この分なら今日の無人宿にも難なく着けそう。何せ道は北へ真っ直ぐ。遠くには目指す霧降山も薄っすらと見えていた。
「お?」
一瞬影が差して、見上げた空に大きな鳥。
「見て、尾白鷲だ。降りて来るよ。何か狙ってるみたい」
梮を履く放谷に合わせて歩いていた私は、立ち止まって空を指差した。
「おー、あそこにずんぐりした猫がいるぞー」
「猫?」
雪原に猫とは何事か。と、目を凝らして見れば確かに猫っぽい灰色の生き物。それは先を跳ねる真っ白な雪兎を追っていた。
「へーっ、あれ小耳猫だよ。毛皮が厚くて氷点下でもへっちゃらってヤツ」
ヒマラヤに暮らす猫が白守の雪原で元気に狩をしている。白守に来て雪原を走り回る獣を見たのはこれが初めてだ。いや、きっと他にもいたのだろうけど、北の生き物は冬毛を纏えば鳥も獣も白に紛れて、おいそれとは見い出せない。
「あの鷲さん、猫さんの狙ってる兎さんを横取りする気みたい」
「そうだね。きっと厳しい冬だから、食べ物も奪い合うしかないんだよ」
「おー、行ったぞー。どうなったー?」
小耳猫は鷲の影に気付いて逃げ出した。下手をすれば自分が獲物にされかねない相手だから仕方ない。尾白鷲は鋭い爪に雪兎を捉え、悠然と舞い上がっては山側の木立へと消えて行った。
「猫にゃーん! へこたれずに頑張るんだよー!」
小耳猫は悔し紛れなのか、しばらく雪の上を転げ回って、それから見向きもせずに離れて行った。その様子がどうにもおかしくって、当の小耳猫には悪いけど、私たちは笑いながら歩いた。
けれど和気藹々の冬行軍もここまで。その後、空は突如として鉛色の雲に覆われ、見る間に雪を降らせ始めた。最初の内こそ待望の降雪とはしゃいでいてのだけど、ひらひらと舞う灰雪はやがて牡丹雪へと変わり、それがあっという間に五糎大の玉雪にまで変化した。
顔に当たると痛いくらいの玉雪は、唸り始めた風に乗って螺旋を描く回雪となり、私たちは二重に着込んだ毛皮の掛帽を深く被って、灰色の世界に身を寄せ合って歩いた。
「凄い雪と風。これじゃ前が見えない!」
「お姉ちゃん、これって止むのー?」
「分かんないけど、きっとこの手の強烈な奴は、夏の夕立みたいなもんだよ」
体が触れ合ってるのに大きな声じゃないと会話も覚束ない。まるで雪女の情念が叫ぶかのような風だ。口を開けば雪が入るし、襟巻を上げれば声が通らないというもどかしさ。
「おいー、物凄く寒くなって来たぞー。風合谷の冬より全然寒いー!」
確かに凄い冷え込みだ。急激に低下した気温は氷点下深くに落ち込んだと思われる。気温の低下に伴って、一瞬体が浮くような感覚が起こり、直後に締め付けるような冷気が全身を叩き始めた。外気に触れる頬などは寒いを通り越して最早痛い。それほどまでに冷えた空気が張り詰めている。生存本能がけたたましく警鐘を鳴らしていた。
「頑張って! もう、今日の予定はほとんど消化してる。もう少しで無人宿が見えて来るからっ」
一縷の望みに縋って、とにかく今は進むしかない。私と阿呼は深沓の効果で足は進む。二人して放谷の側面後方に回り、押しながら歩き続けた。
「寒いー、寒いー」
放谷が急激に壊れて来ている。もうずっと寒いしか言ってない。次第に足は動かなくなり、阿呼と二人で半ば引き摺る状態に。
「阿呼ー! 何か見えたー?」
「分かんなーい!」
目に雪が入るのが嫌で遮光器を下げたままにしていたのだけど、簾の隙間に雪が詰まるので碌に視界が確保できない。私は諦めて遮光器を外し、吹雪に目を細めながら無人宿の影でもないかと必死に探した。
「きゃあ! お姉ちゃん! お姉ちゃーん!!」
「どうしたの!?」
素っ頓狂な声にこっちまで動転して、阿呼の側を覗き込む。すると震える手で指差す先に真っ白く大きな動く影。
「何それ? なんなの?」
「と、」
「と?」
「虎さん……」
ふぁーっ!! 虎ぁ!?
驚いた瞬間、獣を覆う雪肌がボロッと剥がれて、現れたのは見事な白黒の虎縞。恐らくシベリアンタイガーのような存在だろう。白守には虎トーテムを祀った笹隠大社もあるし、虎がいてもおかしいことはない。
離れ行く虎の背に瞬く間に雪が積もって行く。その後姿を呆然と見送っていると、虎の進む先にぼんやりと大きな影。
「無人宿だ! 阿呼、行くよ。放谷もあと一息だから頑張って!」
他のことはどうでもいい。そこへ行きさえすれば休める。それだけを考えて残りの体力を振り絞った。やがて宿の戸口に辿り着くと、さっきの虎が開けて欲しそうに軒下に身を寄せて待っていた。
「いいよ、一緒に入ろう。おいで」
冬将軍以上に恐ろしい敵などいはしない。旅は道連れとばかりに虎を招いて、私たちはようやくその日の宿にありついた。
***
眠れない。
ギシギシ、ミシミシと降り積もる雪の重みに家鳴りが続く。
寒さは大丈夫だ。古い家だから隙間風は入るけど、私、阿呼と狼の姿で人のままの放谷を包み、いつしか虎も私の背中に寄せて、四つの鼓動が重なっている。
闇と、静寂と、それをかき混ぜる家鳴り。風鳴き止まず、時折大きく玉雪の叩きつける音。
「お姉ちゃん」
「ん? 阿呼も寝れない?」
「うん。この雪、明日には止むと思う?」
明日からのことを思って不安になるのだろう。それまでの好天が嘘のような大雪だ。気温も氷点下数十度と思われる。私も阿呼も寒い真神の生まれだけど、まだ故郷で本格的な冬を体験したことはなかった。
私たち姉妹は春先に生まれて、最初の冬には常夏の赤土にいた。二度目の冬は野飛の枯れ野。そして今年、周囲からは散々止めておけと言われた白守の冬――。
「止んでくれればいいけど……。明日は昨日までみたく早くに発たないで、ちょっとお空の様子を見てから出よう」
「うん。阿呼が御業でお湯を沸かすから、そしたら朝風呂に入ろ」
「そうだね。それがいい。さ、もう寝ないと。体を休めないと明日が辛いよ」
とにかく今は無理にでも眠ることだ。ともすれば先のことを考えたがる頭を空っぽにして、全身から力を抜き去り、ただ深い呼吸だけを繰り返す。そうしてようやく、私の意識は遠のいて行った。
ドンッ、ドンッ――。
何か鈍く打ち付ける音に目が覚めた。暗がりだった宿の中は、薄っすらと青い闇に溶けていて、相変わらず家鳴りと風の音は続いている。
ドンッ、ドンッ――。
音のする方を見ると、三和土に降りた昨夜の虎が、板戸に体をぶつけている。開けろと言うのか。私は煎餅布団を剥いで起き上がり、人の姿になって虎の元へと近付いた。
「出たいの?」
虎はまだ若い雄。独り立ちして間もない頃だろう。冬場の獲物に困って雪原に飛び出し、吹雪に遭って山へ戻れなくなった。そんな感じに思われた。それが今、こうして外へ出たがるということは、天候が持ち直したからに違いない。
私は戸脇の高窓に手をかけ、格子をずらして空の様子を窺った。
「さむっ、でも灰雪に戻ってる……」
虎を見ると板戸をガリガリ。つっかえ棒を外して戸を引くと、これがビクともしない。もう一度、今度は背伸びして格子窓から外を見ると、一六〇糎ある私の胸の高さまで積もっていた。
「開かない訳だよ。よーし、ちょっと待ってね」
両手に唾して擦り合わせ、期尅の御業で四肢を強化。腰を落として低く構え、戸並びに立って一気に力を込める。
「どっせい!」
バンッと一度に戸が開き、ズシャーと雪崩れ込んで来る雪。虎はお礼を言うように短く吠えて、雪の斜面に前足をかけた。
「あ、ちょっと待って」
首を回して静止する虎。その肩に触れて、私は幸を与えた。湧魂の効果で星霊バランスの整った虎は、そのまま元気よく飛び出し、雪音を鳴らして遠ざかって行った。山にはねぐらがあるだろうから、今の内に雪原を抜けてしまえば心配ないだろう。
「これでよし。でも今度は戸を閉めるのが大変だ……」
雪崩れ込んだ雪はどけるにしてもキリがない。宿の広さは限りがあるから避ける先にも困る。そこへ阿呼がやって来て、笊を手に取って雪を掬い始めた。
「どうするの?」
「湯舟に持ってく! 雪をお湯にするの」
「さっすが阿呼、冴えてるぅ!」
大量の雪も風呂吹の御業で溶かせば、小さな湯舟にすりきり一杯の湯量。戸も無事に閉まって、囲炉裏端で不動の放谷がホッと胸を撫で下ろした。
それから順々にお風呂に入り、上がったら囲炉裏に鍋を掛けて朝ご飯の支度。食材は野飛で買い込んだ穀物、芋類、干し肉等々。それらを輪違から引っ張り出し、宿に備え置きの調味料を借りて、味を調えながら煮込んで行く。
「さーて、今日はどうするー?」
温かいお汁をズズッと啜って、お代わり、と阿呼に椀を突き出す放谷。相変わらずお伴の自覚がない。自分でよそえや。
「勿論、先へ進むよ。露隠姫の言った通り、今は一の冬だから、ここで何日待っても、昨日までの晴天はもう来ないって考えた方がいい」
「んー、昨日みたいに寒いのはあたい厭だなー」
「お姉ちゃん、阿呼たち誰も温かくする御業覚えてない」
そこなんだよね。阿呼は以前、夕星の指導で風呂吹や釜茹といった湯沸かし、煮炊きに便利な御業を学んでいる。それを応用すればとは思うけれど、いきなりやれと言っても難しい話。
「とにかく着込む。注連で体ピッタリに着込んで、冷たい空気が入らないようにすること。それから、中足袋や手袋に唐辛子を入れると指先や爪先がぽかぽかするよ。あとは湧魂で体調を維持するのも大事。私と阿呼は深沓があるから吹雪いても止まらないで行ける。放谷も風衣の御業で雪と風を凌げば行けるんじゃない?」
思い付いた順に並べ立てると、阿呼も放谷もふんふんと得心顔になった。
「まー、それで行ってみるかー。昨日は何かしよーと思う前に体が固まっちゃったからなー」
「阿呼も心構えができてれば大丈夫だと思う。後は予定通りに進めるかだけど……」
事前に立てた霧の通路踏破日程は次の通り。
第一旅程、達成済み。
湯坐出発――無人宿泊――(野飛白守越境)――無人宿泊――蓬の関にて宿坊泊――白妙三冬神社参詣、まで。
第二旅程、進行中。
宿坊出発――無人宿泊――無人宿泊――霧降峠にて山墅泊――霧降山登山、まで。
第三旅程。
山墅出発――無人宿泊――白守三宮、鵠宮参詣、まで。
三宮から先は更なる難関、白雪の途に挑むことになる。よって、霧の通路を踏破できないようでは、そもそもがお話にならないという訳。
「さあ、もう八時を回った。後片付けをして準備にかかろう。今日中に次の宿に着けなかったら、かまくらを作ることになるよ」
手を打ち鳴らして行動開始。
一の冬の試練に打ち勝って、冬の白守を制覇するぞー!




