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翡翠の夢渡り

作者: 小鳩子鈴

和語り企画参加作品です。


 

 里を見下ろす大山の中腹は、手つかずの美しさに満ちている。長い年月と風雨に洗われて剥き出しになった岩肌は、険しくありながらもどこか端整だ。

 山中を蛇行しながら流れる川は、ごろごろと落ち込んだ岩のおかげで勢いもある。

 そんな四方を山に囲まれた砂利石の河原で、聡二郎(そうじろう)は途方に暮れていた。


「参ったな……」


 大学で地学の研究をしている聡二郎は、教授や仲間達とこの地へ現地調査に訪れていた。

 終戦から十年。

 戦地から帰らなかったり、復興に伴って村を離れたりで里の住人は数を減らしていた。とはいえ、戦火を免れ村に残った資料の確認や、裏付けとなる聞き取りもどうにかできた。

 肝心の地盤や地層の調査も今日で終わり、明日には東京へ戻る。

 その前に秘境と謳われる渓谷を写真に収めようと、聡二郎だけ一人山に残ったのが昼過ぎのこと。


 渓谷まではたかだか小一時間の道程で、日暮れ前には皆が待つ里に戻っている算段だった。

 しかし、地図もあるからと案内人も帰したのが災いしたか。霧が出た折に目印を見過ごしたらしく、視界が良くなったころには道を失っていた。

 気付いてすぐに戻ったが、どれほど歩けど地図の道に辿り着かない。

 さらに、取り出した磁石は手のひらの上でふらふらと回り続け、方角も定まらない始末。

 次第に悪くなる足場はとうとう獣道さえなくなって、仕方なく沢に降りたのだった。


 おかしな現象も気にはなるが、何時間も歩き続けた体には空腹がもっと切実な問題だ。

 水筒の残りはあと少しで、食べ物に至ってはポケットに飴が二粒ばかり。皆で車座になり握り飯を食べた昼時がやけに遠く感じる。


 谷を渡る風が運んだ紅葉が、はらはらと川面に落ちていく。そんな錦の眺めを楽しむ余裕も既にない。

 流されていく葉の合間には時折、水滴を飛ばして跳ねる魚の姿が見て取れた。


「腹は減ったが、濡れるわけには……」


 釣竿も網もない。都会育ちの身で、泳ぐ魚を素手で捕まえるなど至難の業。

 運良く魚が手に入っても、マッチがなければ火も起こせない。

 この季節にしては暖かい日だったとはいえ、秋の山は陽が落ちると一気に気温が下がる。濡れ鼠になって乾かすこともできず、寒風に晒されたらどうなるかなど想像するまでもなかった。


 一食や二食、抜いたところで死にはしない。

 聡二郎は自分に言い聞かせて、歩き詰めで上がった息を整えるとオーバーコートの襟を立てた。


『山で迷ったら稜線を目指して登れ』というのが定説だが、聡二郎は抵抗があった。目指す渓谷は山腹より下りたところにあって、山頂ではないのだ。

 そもそもここは登山道が未整備で、観光目的で入山する者はほぼいない。

 たとえ頂上まで登ったところで、誰かに会えることなど期待できそうになかったのも理由の一つだ。


 役に立っているかどうか疑いつつも地図を睨みながら歩くうち、次第に日が翳ってくる。

 もう何時間、人の姿を見ていないだろう。


「このまま戻れなかったりしてな……」


 口に出して、うっそりと背中が寒くなる。

 街灯などない山中だ。日が落ちてしまえば道も探しようがない。

 すっかり暮れる前にせめて休むところを見つけねば、と首を回しても、目に入るのは岩だらけの河原の景色ばかり。


 先ほどまでは鳥の声もしていたが、寝ぐらに帰ったらしい。聞こえるのは川の水音と木々の騒めき、そして砂利を踏む自分の靴音だけだ。


 ――そんな山の静けさは、家族からの小言を耳奥に蘇らせる。


『いつまで大学になどいるつもりだ。少しは月城(つきしろ)家の一員という自覚を持て』

『聡二郎さんも、お父様や勇一さんを見習ってくださらないと』


 兄や母に呈された苦言は数え切れないほど。

 存分に呆れを含んだ声音は、諦めたはずの心に毎度律儀にちくりと刺さる。


 地元名士の総領家の男児にもかかわらず、政界ではなく学問に傾倒する自分が異分子なのは分かっている。

 そうはいえ、どうしても、政治にもそれを取り巻く人々にも興味は持てなかった。

 もちろん、現役の代議士である父親も同様だ。


『お前に期待などない。聡一(そういち)の取り成しがなければ、とっくに見限っている』

「……出来の悪い次男で悪かったね」


 けなす言葉は今ではないのに、つい口に出してしまう。

 理解し、認めてほしいとまでは望まない。

 だが、せめて否定しないでもらいたいと思うのも、父の言う通り甘えなのだと呑み込むしかなかった。


 頭がいいだけの出来損ない。

 そう揶揄される聡二郎を擁護したのは、実親ではなく叔父の聡一だった。


 半年前に政界を引退した叔父も、若い頃は学問を志していた。

 聡二郎の異端児ぶりは自分の名の一字をとった故かもしれないと、幼少の頃から目をかけてくれている唯一の人物である。


 出征した先で、叔父は片方の脚を失った。健康面にも不安があり結婚はしないから、と聡二郎に養子の話が出たこともある。

 結局それは立ち消えになったが、実の両親が手放してくれたらよかったのに、と今でも思わずにいられない。


 ほかの親族は皆、似たり寄ったりだ。

 不満があるなら放っておけばよいものを、矯正してやろうと余計な世話を焼くから手に負えない。先日など、縁談まで持ってきたのだからますます閉口する。


『聡二郎さんも、お嫁さんを迎えたら変わるのじゃないかしら』 


 本当は優秀な兄のほうに縁付けたかったけれど、と言いたげな遠縁の伯母から押し付けられた釣書は開いてもいない。

 一族に名を連ねてはいるが、名実ともに名前だけだ。

 こんな自分に何を求めて嫁いでくるのかと訝しく思うだけで、逃げるようにこの調査旅行へと旅立ったのだった。


 夕焼けの名残りが一層鮮やかに空を染めていく。

 その頃になってようやく、少し先にある岩の隙間に平らになっていそうなところを見つけた。


 ――あそこならマシか。


 暗くなったら動かないほうがいい。

 このまま山中での野宿を覚悟してそちらに足を向ける。狭いが、どうにか落ち着けそうな塩梅だった。


 硬い岩の上に腰を下ろし地図を鞄にしまうと、懐中電灯を取り出した。カチリとスイッチを入れて周囲をぐるりと照らすと、ほっと安堵の息が出る。

 灯った明かりは光量が十分とは言えないが、あるとないでは心持が違う。念のため持ってきて正解だった。


 しかし、明かりを点けたことによって、かえって周囲の闇は濃くなった気がする。

 変わらず流れ続ける水の音ばかりがやけに響いて聞こえ、ひゅう、と冷たく吹き付ける風もどこか居心地が悪い。

 その中に、何か生き物の気配が感じられた。


 ――気のせいだ。人がいるはずがない。


 これほど歩いて、ただの一人とも行き会っていないのだ。

 猪か何かだろう。そう言い聞かせても、胸の底を落ち着かなく揺さぶる動悸は止まない。

 怖いというよりは畏れの感覚に近いだろうか。

 聡二郎は懐中電灯を岩の上に置くと、肩を竦め膝を抱え直す。身じろぎをすると、カサリとポケットで音が鳴った。

 そういえば、飴が――


「……あの」

「っ!?」


 暗がりの中から声がしたのは、取り出した飴を一つ、口に放り込んだ時だった。


「ご、ごめんなさい! 驚かすつもりはなくて」

「ゲホッ、い、いえ……ケホッ」


 喉に引っかけた飴でゴホゴホと咽る聡二郎に、女は申し訳なさそうにした。


「家から明かりが見えて……夫が、仕事から戻ってきたのかと思って」

「そ、そうでしたか」

「でも、違いました」

「……すみません」


 いかにも気落ちした様子で人違いを謝られ、自分が目当ての人物でなかったことに罪悪感を抱いてしまった。

 囲むように背後と横に立つ岩壁に反射した明かりが、ほんのりと二人を照らす。

 現れたのは、色の白い美しい女だった。

 纏う銘仙めいせんの着物は地味な色合いなのに、なぜかそうは見えず目が惹きつけられる。

 女性のことなど分からない聡二郎だが、自分と変わらない年齢のように見えた。


 周囲に家などあっただろうか。

 だが、光というのは案外遠くまで届くものだ。特に、街灯一つないこんな山中なら、懐中電灯の小さな明かりでもすぐに気付くに違いない。

 それを見て慌てて飛び出してきたのだろう。

 長い髪を下ろしていて、すっかりくつろいでいたところだったのかもしれない。


「いえ、今日帰ってくるはずはないのです。でも、もしかしたら、って……あの、ここで何をなさっておいでですか?」


 残念がる声に、少しの怯えが混ざる。

 里の者の身なりをしておらず、釣り竿や猟銃を持っているわけでもない聡二郎は、たしかに山中にふさわしくない人物だ。見慣れない人間に警戒心を抱くのは当然だろう。

 取り繕うことはせずに、調査目的で訪れていたこと、同行者と別れて渓谷へ行こうとして道に迷ったことを告げた。


「ああ、渓谷へ。山桜と白い大岩の分かれ道がありませんでしたか?」

「どうやら霧で気付かなかったようで」

「まあ」


 女は得心がいったように頷くと、月が昇り始めた空と聡二郎の服や持ち物をちらりと見比べて、小首を傾げる。


「道案内はできますが、もうこの時間では……我が家へお越しになりますか」

「えっ、いや、しかし」

「我が家なんて言っても、大層なところではなくて。狭くて、お客様を迎えるような支度もなにもございませんけれど、ここと違って屋根と壁はありますし」


 正直に言って、非常にありがたい申し出だ。

 だが、夫の留守中に若い細君だけの家に上がり込むのは、果たしていかがだろうか。

 それに、聡二郎のような者がここにいるのもおかしいが、このような女性が山で暮らしているとはにわかに信じがたい。

 改めて見れば、身に馴染んだ銘仙こそそれらしいが、白い指先にも手の甲にも荒れひとつない。

 肩も薄く、この細腕では沢の水を汲むのにも苦労するだろう。

 そんな違和感には、懐中電灯の光にきらと返した帯留めが答えをくれた。


 翡翠――ああ、採掘師の妻か。


 この山では翡翠が採れる。

 しばらく前までは採掘をしに山に入る人々もいた。だが戦争が終わり、近代化が進むとともに環境に関する意識も変わった。

 この辺り一帯は近々、国の保護区になることが決まっており、それに伴い一切の鉱物採掘が禁じられたのだ。

 翡翠を採ることも罰せられるようになったため、採掘師は国の決定に従って山を去った……というのは、表向きの話だ。


 保護されるべき自然も国の資源も大事だが、入手が困難になったからこそ欲しいという者もおり、市場での値も上がっている。

 犯罪行為と分かっても隠れて採掘する者がいるのは事実で、夫の「仕事」というのも、それに違いない。

 そうでなければ、翡翠のような高級品をただの普段着にさらりと着けられるわけがなかった。


 闇取引を防ぐ手立ても講じてはいるが、いたちごっこなのだ、と叔父の聡一は嘆いている。

 この地域を保護区にしようと最初に国に働きかけたのは、誰あろう叔父なのだ。


 叔父は、かつて民俗学の学者として全国を回っていた。

 その際にこの山地一帯のありように深く惹かれ、足しげく通うようになったのだと聞いている。

 論文を幾つも書いていたが、召集令状が届いて研究は中断された。だが、戦時中も叔父の心からはこの山のことが離れなかったのだという。


 終戦後、怪我を負って復員した叔父の耳に入ったのは、山を削る開発の噂。

 それも流行りに乗っただけの、一時的な利益しか見込めない場当たり的な計画だったという。

 この地をあるがままに守りたい。そのためには一学者では無理だ。

 そう判断した聡一は政の世界へと身を移し、それは熱心に取り組むようになる。元学者という変わり種ではあったが、その手腕はさすが一族に連なる者との声が高かった。


 闇採掘師は、法だけでなく叔父の政策にも反する。

 この妻はきっと普段は町で暮らして、夫が採掘から戻る日を見計らい、こうして山中に来て出迎えるのだろう。もしかしたら、取引相手との繋ぎ役もしているかもしれない。

 そんな者の世話になるわけにはいかないが、しかし――


「それに、この時期は熊が」

「お、お邪魔いたします」


 背に腹は代えられぬ。

 熊と聞いたとたん渋っていた態度を翻した聡二郎に、女は少し目を見開いてくすりと微笑む。


「では、どうぞ。珠江(たまえ)と申します」

「月城、聡二郎です」


 そうして、冴え冴えと輝き始めた月の下、くるりと背を向けて歩き始める珠江の後を慌てて追ったのだった。





 しばらく山中を歩いて着いたのは、珠江の言葉通り、家というよりは小屋と呼んだほうがいいような小さなあばら家だった。

 しかし中に入ってみると床も柱も磨かれており、囲炉裏の周りには数少ない家財道具がきちんと整理されて置かれている。

 さすがに山深いここまで電気は通っていない。

 電灯はなくランプだったが、ガラスのホヤに煤や曇りはなく、十分に明るい。

 珠江の暮らしぶりがよく分かる住まいだった。


 一日中歩き回り、埃にまみれた自分のほうがよほど汚れていると恐縮しつつ、勧められて火の側に座る。

 じんわりと伝わってくる温かさに、深く息を吐いた。

 珠江は囲炉裏の熾火を燃え立たせると、その上の鉤にかかった鍋の蓋を開け、くるりと木匙でかき混ぜる。


「お腹は減ってございません?」


 ほかりと湯気を上げる汁の匂いに、盛大に腹が鳴った。

 片手で腹を押さえ、もう片方の手で気まずげに頭を掻く聡二郎に、珠江が口元をゆるめる。


「魚も卵もなくて、お若い方には物足りないでしょうけど」

「なにからなにまで、すみません」


 夫がいれば用意していたのだが、と申し訳なさそうに言って、冷や飯を足して煮込んでくれた。

 聡二郎の体は自分で思うよりかなり冷えていたらしい。刻んだ野菜を入れた雑炊がたっぷりとよそわれた椀を受け取る両手が、小さく震える。

 あのまま河原にいたら、風邪を引く程度では済まなかったかもしれない。今更ながらに家へと招いてくれた幸運を噛みしめた。


「……旨いです」

「そう、よかった」


 かろうじて一言だけ告げて、聡二郎は幼子のように一心に熱い雑炊を頬張る。

 人心地がついたのは、おかわりを二度して腹の中も外も温まってからだった。


「さ、こちらもどうぞ」


 あいにく茶葉はないと、出してきたのは酒だった。

 出された酒器に聡二郎は目を見張る。 


「これは……」

「綺麗でしょう?」


 手に馴染む盃は、翡翠でできていた。しかも、翡翠と聞いて思い浮かべる翠色ではなく、とろりとした薄い青色――水浅葱色の青翡翠だ。


「ふふ、夫の気に入りなのです」

「ああ、それでは」

「いいのですよ、お客様ですから」


 大事なものなら、と遠慮しようとした聡二郎の手に、珠江は朗らかに笑って盃を持たせる。

 この近辺を保護区に指定するにあたり、国からの依頼を受けて行った調査には自分も関わった。産出される鉱石についてもよく調べたから、この翡翠がどれほど希少なものかは分かる。

 これと同じ程度の青翡翠など、聡二郎は過去に一つしか見たことがない。


「……叔父も、似たようなものを持っていました。こちらよりは小さめでしたが」

「あら。では、女持ちかもしれませんね」


 屈託のない珠江の言葉に、聡二郎はあいまいに頷く。

 民俗学の研究者だった叔父の家には、訪れた全国各地の様々な物があった。

 郷土玩具や出土品も多かったが、日用品はなるべく普段から使うようにしており、入院前まで晩酌に使っていた気に入りの猪口が翡翠だったのをよく覚えている。

 大きさや飲み口の角度など細部は当然違う。だがよく似た印象で、並べたら夫婦用にも見えるだろう。

 もっとも、青翡翠の酒器、というだけで揃い物のように感じるのかもしれないが。


 囲炉裏の炎を受けて、なめらかな光沢を纏う盃を眺め続ける聡二郎に、つ、と徳利から酒が注がれた。


「器もいいですが、お酒もよろしいですよ」

「……では」


 注がれた冷酒はほのかに甘く、するりと喉を通る。

 遅れて立ち上る酒精が疲れた体に堪らない。飲み口は軽いが、かなり強い酒だ。


「河原にずっといらしたのなら冷えましたでしょう。お風呂はありませんので、飲んで温まりませんと寝付けませんから」

「ですが、過ごしてしまいそうです」

「ええ、後はお好きな具合でどうぞ」


 人の酌で飲むのに聡二郎は慣れていない。構い過ぎない珠江の給仕をありがたく思いながら、徳利を受け取った。


「こちらへは大学の研究で、とのことでしたけれど」


 手酌で飲みながら話題を探していると、珠江のほうから話を振ってきた。


「はい。地学調査を」

「地学……」

「ああ、あの、地学の範囲は広いのですが、自分がやっているのは地質学です。ええとですね、この辺りには本州を横断する特別な地層がありまして、それを調べに」

「学者様は難しいことをなさるのですねぇ」


 聡二郎の説明に目を丸くする珠江だが、そこに面倒がるような表情はない。

 問われるままさらに詳しく話したが、相槌を打ちながら聴き入ってくれた。久しぶりに人と話したと、それは嬉しそうにする。


 珠江は里の者と交流はほとんどないらしく、村長や役人の名前を出してもきょとんとして、誰か分かっていない様子だった。

 闇採掘師であれば没交渉も当然だが、それにしたって、もう少し疑われないように情報を仕入れたり、口裏を合わせるくらいはしそうなものだが。

 彼女の夫はどうやら妻を厄介ごとからは遠ざけて、大事に箱にしまっておく男らしい。


 素性を怪しむ気持ちが無くなったわけではない。

 とはいえ、聞き上手な珠江のおかげか、うまい酒のせいか。普段は口下手な聡二郎だが思いのほか話が弾む。

 地層の話をしていたはずが、いつしか話題は家族のこと、持ってこられた縁談にまで及び、しかも聡二郎は自ら明け透けに話していた。


「釣書くらいご覧になってもよろしいのじゃありません?」

「必要ありません」

「頑なですねえ。会いもしないうちに、人となりなど分かりませんよ」


 ランプに照らされた珠江の瞳が楽しげに細められる。


「そのお嬢様の目的が、ご実家の名とは限りませんでしょう」

「ほかになにがあるっていうんです」

「そんなにいじけなくても。聡二郎さんは立派なのに困った子ですね」


 袂で口元を隠して笑いだした珠江に、聡二郎は少しムッとした。

 どうやら珠江は人をからかうのも好きらしく、先程からこうして聡二郎を子ども扱いするのだ。


「……珠江さんが言えるような年齢では」

「あら私、けっこう年増でしてよ?」

「またご冗談を。どう見ても僕と同じか、むしろ少し下くらいでしょう」

「嘘じゃありません」

「はいはい」


 おざなりな聡二郎の返事に、今度は珠江が口をとがらせる。ますます年上には見えない。


「もうっ、私は聡二郎さんよりもずっと長く生きているんですから」

「わっ!?」


 珠江は挑むように、ずい、と聡二郎のすぐ隣へと膝を詰めた。

 あまりに近い距離に、盃に入れた酒が揺れる。


「ほら、お酒だって」


 こちらの動揺などお構いなしに、珠江は聡二郎の手から翡翠の盃を取り返すと自分の口許へと運ぶ。

 くい、と飲み干すと徳利を寄せて自分で注ぎ、立て続けに二杯三杯と呷っていく。


「……ふぅ」

「っ、」


 盃を空にして、形のいい唇が息を吐く。

 紅をさしてもいないのに色づく花弁のようなそれに、目が奪われた。

 さらに杯を重ねようとする珠江に、聡二郎ははっと我に返ると慌てて盃を奪い返す。そんな飲み方では確実に悪酔いをする。


「わ、わかりましたっ、珠江さんは年上です。はい、もう、それでいいですから」

「心配しなくても、お酒ならまだありますし」

「そういう問題では」

「なら、どういう問題です?」


 それが分かっているなら、男の前でこんな飲み方はしないだろうに。

 目元を染めて下から覗き込んでくるあどけなさは、どうしたって年上に見えない。

 やはり無理に飲んで見せたのだろう。肩が触れるほどの距離のまま、珠江は膝を崩してすっかりくつろいでしまった。

 酒が回って暑くなったのか、白い手でぱたぱたと顔を扇ぎながら、並んで座った囲炉裏の灰へと視線を移す。


「長く生きてきましたから、多少は人のことも分かるようになりました」

「は、はあ」

「お家の方は頑固ですね。でも、聡二郎さんも意地っ張りです」

「そう、でしょうか」

「よく似てらっしゃいます。お互い、期待しすぎで気にしすぎなんですよ。でも……私も同じかも」


 声は聞こえるが、それよりもすぐ隣にいる珠江のほうが気にかかる。

 何気なく床についた手の小指が重なる。触れた指先に心臓があるかのように落ち着かなかった。


 ……地学に興味などなかっただろうに、素直に耳を傾け、時に質問を挟んで、この山にそんなところがあったのか、と驚きに目を輝かせて聞いてくれた。

 兄や母が相手なら二言以上も続かない会話。

 会って間もないこの女性と、もうどのくらい話しただろう。


 ――釣書の相手がこの人なら。


「なっ……」

「どうしました?」

「い、いえっ、何も」


 突然降ってきた想いに聡二郎は自分でも驚く。

 まさか自分まで酔ったのかと思うが、酒のせいとは言い切れない。だが、あまりに唐突な衝動だった。


 口許を手で覆い言葉を濁す聡二郎を気にする風もなく、珠江は独り言のように続ける。


「きっといつか、なんて期待しなければ、煩うこともなく忘れてしまえるのに。どうしても、全てを捨てきれない自分がいて」

「……そうですね」


 惹かれているのかもしれない。いや、きっとそうなのだろう。

 だが、と自分に言い聞かせる。


「だからかしら。夫も、いつも私を子ども扱いするんです」

「それは、仕方ないかもしれません」


 そう、彼女には夫がいる。

 元から手を伸ばすことも許されない相手だ。


「姉さん女房なのに」

「信じられません」

「本当よ」


 がばりと身を起こすと、聡二郎に向き合うように座り直して、ぷう、と膨れてみせる。


「そんなふうにすると、やはり子どものようですよ」

「まあ、優しい顔をして意地悪ですね」


 文句にしては可愛らしい抗議をして、珠江はふと、なにかを確かめるように目を眇めた。


「……聡二郎さんは……少し、夫に似ています」

「っ!?」


 切なげに睫毛を伏せた珠江が聡二郎に倒れ込み、ぽすりとシャツの肩に頭を埋める。

 長い黒髪が揺れ、透明な香りがふわりと漂った。


「……子どもでもなんでもいいわ。あの人に会いたいの」


 泣くのを堪えるような声が伝えてくるのは、一つの事実。

 珠江の心を占めているのがただ夫だけ、ということ。


 嫉妬などは感じない。

 きっと相愛に違いない二人が羨ましいだけだ。

 騒つく胸の内を隠して、聡二郎は言葉を探す。


「御夫君は、いつ頃お戻りに」

「そうね……一日でも十日でも十年でも、会えないのはいつだって同じに長くて」


 寂しい、と消えそうな珠江の声が、自分越しにくぐもって聞こえる。

 思わず肩を抱きそうになった手が盃を握ったままだったことに気付き、寸前で止まった。

 ぼんやりと甘く光る青緑の酒器は、このひとの夫のものだ。


「……きっと、もうすぐですよ」


 上げた手をゆっくり下ろしながら、慰めの言葉を口にする。

 自分に言い聞かせるように。


「お仕事を、急かしたくはないの」


 顔を上げた珠江の手が、聡二郎のシャツの胸元へすがるように伸びる。

 袂から覗く腕は思った通りに細く、強く掴んだら折れてしまいそうだった。

 ――くらりと聡二郎の瞳が揺れる。


「な、ん?」


 突然酔いがまわったのか、頭の奥に霧がかかったようにぼんやりとしだした。

 重く下がってくる瞼を無理に押し上げると、霞んでいく視界のすぐ目の前、息が触れるほど近くに珠江の顔があった。


「……会えてよかった」


 急激に意識が狭まっていく中、唇に触れた温もりは珠江のものだったのか。

 かすかに聞こえた声を最後に聡二郎の意識は途切れた。





 眩しさに目をしばたたかせながら開くと、大きく破れた屋根から、すっかり明けた空が広がっているのが見えた。


「朝か……?」


 聡二郎が身を起こしたのは、あばら家ですらなく、壁も床も半ば朽ちた、古家の残骸とでも言ったほうがよさそうなところだった。

 囲炉裏があったと思しき場所は土にまみれ、柱も傾いでいる。

 荷物はまとまって置かれており、聡二郎が起きた気配に小鳥がチチ、と鳴きながら飛んで行った。


 硬い板の上に寝ていたせいで体は軋むものの、疲労感や空腹感はなく、目覚めの体調は悪くない。

 まるで狐につままれたような気持ちであたりを見回すが、昨日の出来事が夢だったかと思われるばかりだ。

 起き上がろうとして床に着いた手に、コツリと何かが触れる。


「これは……」


 記憶のままの、水浅葱色の盃だった。



 ***



「聞いたよ、山で迷ったんだって?」

「あやうく捜索隊が出されるところでした」


 病院の個室に叔父を見舞った聡二郎は、開口一番に揶揄われて硬い椅子の上で小さくなる。


「こうして無事に戻ってきたからいいけど。でも、気をつけないといけないよ」

「はい。しかし、不思議な体験をしました」

「そうなのかい?」


 病弱とまではいかないが、叔父はもともと体が頑強ではなかった。さらに戦争で片脚も失い、全国を回る民俗学の研究を諦めた。

 その後、代議士一族の一員となった叔父の政界での働きぶりは、まだ子どもだった聡二郎から見ても生き急いでいるようだったと思う。


 半年前にとうとう倒れ余命宣告を受けた時も、別段驚いた様子は見せず、むしろ『ようやくか』と呟いていたのをよく覚えている。

 そうして今は、自分の残した成果である彼の地の保護認定を見届けて逝くのだと、鷹揚に笑っているのだ。


 先週からという風邪の咳も治まらず、脚の古傷も傷むはずなのに、こうして聡二郎の面会を喜んでくれている叔父。

 親のように慕ってはいても、追いつけない存在だとも思う。

 そうはいえ、先日の珍しい体験が気晴らしになればと、聡二郎は山中での出来事を詳しく話した。


 霧で分かれ道に気付かず迷ったこと。

 日が暮れる寸前に、河原で女性と出会ったこと。

 招かれて馳走になったが、朝には廃墟で目覚めたこと。


 どうしてか、珠江の名は告げられなかった。

 秘めておきたいという不似合いな感傷に、自分でも苦笑する。


「……翡翠の盃?」

「ええ。それを持って小屋の前から続く道を辿ったら、例の『山桜と白い大岩』の分かれは目と鼻の先でした」


 何の苦労も、道に迷うこともなく里に下りられた。

 ところが、山で聡二郎を助けた女性に心当たりのある村人は誰もいなかった。

 以前は確かに違法に採掘をする者もいたが、入山が規制され見回りも厳しくなった。少なくともここ最近は、闇採掘師の姿など見たことがないと口を揃える。


「そんな次第で、叔父さんが昔通ったという渓谷の写真は撮れなかったのですが……?」


 聡二郎の詫びを、叔父は聞いていないようだった。

 今日は良かったはずの顔色を青くして、うわ言のように「翡翠の」と繰り返す。


「盃ですか? こちらです」


 小布に包んだ器を鞄から取り出し、叔父に渡す。

 この翡翠の存在は誰にも知らせていない。

 見せるなら叔父だけだと、なぜかそう心に決めていた。


 震える手で包むように受け取った叔父は、涙を堪えているようだった。

 そのまま、辛そうにゴホゴホと咳き込んだ背中をさする聡二郎を見上げる。


「……これを使わせてもらっても、構わないかね?」

「ええ、もちろん」


 軽くゆすぐと、水を注いで叔父の手に戻した。

 すっぽりと包まれた盃は、まるでずっとそこにあったかのように叔父の手に馴染み、器も喜んでいるように見える。

 唇を湿らせるように、大事そうに水を飲むと叔父は細く息を吐いた。


 ――珠江、と唇が動いたように思ったのは、聡二郎の見間違いだったかもしれない。


 その晩、容体が急変した叔父はそのまま帰らぬ人となった。

 聡二郎が渡したあの水が、最後に口にしたものだったという。





「――というようなことがありました。亡くなった叔父が穏やかな顔をしていたのが印象的でしたね」

「そんなことが……なにか不思議な縁を感じますね」


 華やかな振袖で穏やかに微笑むのは、見合い相手の女性だ。

 結局、断ることをせず会うことに決めたのは、珠江の言葉が心に残っていたことが一番の理由だった。自分と関係のない誰かに、この話をしてみたかったのかもしれない。

 親族が一旦退いた二人だけの席で、向かいの女性――文子(ふみこ)は小さく首を傾げる。


「聡二郎さんが訪れた地には、万葉の言い伝えがあるのをご存じですか」

「万葉?」

「祖母が向こうの出で、私も聞いたことがあるだけですけれど」


 文学には疎い。そう告げる聡二郎に気を悪くしたふうもなく、自分もそんなに詳しくはないと軽く返される。


奴奈川(ぬなかわ)ひめの伝説と、水底の玉を詠った句があるのです。お話を伺って、それを思い出しました」

「水底の玉ですか」

「翡翠のことだそうです」

「……なるほど」


 このご時世に伝説もないだろう。

 だが、一笑に付してしまえるような小さな合致でも、それを奇妙に思うより納得する気持ちのほうが大きかった。


「叔父様は、民俗学をなさっていたとのことですし、なんとなく」

「それもそうですね」


 叔父が学問を諦めたのは、戦争がきっかけだと思っていた。

 だが、もしかしたら、あの地と翡翠を守りたかっただけなのかもしれない。

 その理由のほうが、少し浮世離れしたあの叔父にしっくりくる。


「奴奈川姫は、大国主命(おおくにぬしのみこと)の強引な求婚を上手くかわすことができるような、賢い姫だったのですって」

「はあ」

「強い権力者から逃げおおせて、好いた相手と結ばれたら素敵だと思いません?」


 ――人の身の枷を解かれた叔父と、二人で手を取り合って。

 まるで良くできたお伽話だ。


 だが。


「……なかなか夢のあることを仰る」

「呆れました? 子どもっぽいでしょうか」


 肩を竦める文子の姿が一瞬、地味な銘仙を着た珠江と重なる。

 比べるなんて失礼ですよ、と叱られた気がした。


「いえ、良いと思います」


 知らず力の抜けた笑顔を浮かべる聡二郎に、文子が少し遅れて頬を染めた。

 困ったように視線を泳がせ前髪を気にする様子が、聡二郎の目に微笑ましく映る。


「あの……その、もう少し大人になれと、いつも叱られておりまして」

「はは、僕もです」


 ぽろりと零れた素の困り声に、聡二郎は小さく吹き出してしまう。

 照れた表情のままほっとした様子で、文子は話題を変えた。


「そ、それで、その盃はどうなさったのです?」

「ああ、あれは両方とも叔父の棺に入れました」


 二つの翡翠は叔父に託すのがいいと思った。

 夫の帰りを待ちわびる彼女はきっと、盃を交わすのを楽しみにしているだろうから。


「ようやく二人で……」

「え?」

「いえ、なんでも」


 独り言を誤魔化して窓の外に目を向けると、庭石の陰から二羽の小鳥が睦まじ気に飛び立つ。

 聡二郎の脳裏には、遅くなったことを詫びる叔父の姿と、駆け寄る珠江の姿が浮かんだのだった。






 了





ぬな河の底なる玉 求めて得し玉かも 拾いて得し玉かも あたらしき君が老ゆらく惜しも(万葉集十三・3247)


お読みいただきありがとうございました。

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秋月忍様、素敵な企画の立案と主催、ありがとうございます!

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