96・トーカ
神とは何か。
人という種を産み落とした父であり母たる創造主であり議論の余地なく敬い従うべき存在である。
この存在に個体名はない。何故なら神とは人智の及ばぬ存在でありその神名を矮小なる人間風情が口にする事など許されないからだ。
故に天上方舟教会は自らの組織に信仰する神の名を冠する事はしなかった。
組織の理念上、全てにおいて優先するべきは神であり、これを違えることは許されない。
神の教えを説き、迷える人々を救い導くということはしても、結局の所、彼らの本質は神から与えられた使命を遂行する奴隷という点に行き着いた。
神とは何か。
神とは人類の主であり、絶対的な命令者にして裁定者、即ち姿のない独裁者である。
言葉は悪いが独裁そのものに善悪はない。その玉座に座る者の資質で如何様にも変わってくるからだ。だが、絶対的に正しく不変であり不滅の存在を戴きながら現実的に権力を掌握する者が必滅の者であるならば、話は変わってくる。
教会の意志を捻じ曲げる個人の出現は必定であり、なかんずく自己の利益を優先するような小悪党などは出てこないわけがない。
カウツはアークティーアでその考えを一層に深めていっていた。
教会の研究所に入って数日が経過していた。カウツの加入によって進捗は爆発的に進み、活気が増していた。
「やあ、カウツ。少し時間をもらいたい。ここなんだが……」
「ああ、それはここの接続を……」
「カウツ、すまない。意見が欲しい。ここなんだが……」
「それはおそらく干渉の問題が……」
次から次へとひっきりなしに相談事が持ち込まれるが、彼らの所属は全てが同じというわけではなかった。
教会、魔術院そして、組合。
この研究所にはそれぞれの組織の人間が互いの遺恨を一先ず忘れて集まっていた。
それというのも全ての組織が掛け値なく果たさなければならない目的のためである。
このプロジェクトの名前はヴィンギロト。
人類の未来を担う方舟を人の手で作り出す途方も無いプロジェクトである。
教会からすれば神の御船、その模倣である。これは不敬もいいところであり、神をも恐れぬ所業である。だから彼らはヴィンギロトという名を冠することにした。
ヴィンギロトとは教会に昔から残されている物語に出てくる船の名前である。
楽園に辿り着くために建造された船であり、恐るべき怪物を打倒する際に使われたという代物である。このプロジェクトにはこれ以上ない程に相応しい名前だと言えた。
名前。そう、名前といえばレンレセル、教会、組合とそれぞれが名前の付け方が異なっている。カウツたちレンレセルの人間は教会とは異なる物語において地名として出てくる名前を元にそれを捩った名前を使っている。
例えばカウツの名前の由来はカワチ、ビチューやその息子であるヴァッシュはビッチューである。ヴァッシュなどは原型をとどめていないため、そうと察するのは難しいが基本的に同じ名を由来とした名前を子供にはつけるものである。カワチ氏族のカウツ、ビッチュー氏族のビチューといったように。故にレンレセルには苗字というものがない。
一方で組合を始めとしたレンレセル以外の人々は家系を示す苗字を持つ。地域によってバラつきはあるが、その法則性はレンレセルの物語と同系統のものから取られているが、登場人物からそのまま拝借したものが変遷を遂げたものとなっている。
そして教会はヴィンギロトの由来となった物語の登場人物から拝借したもの、となっている。教会における最高権力者であるアラタールもまた例外ではない。
人の作り出した絵空事から拝借した名前をつける事で神ではなく人に属するものとした。その屁理屈が神への不遜を避け、神の船を模倣する頭の硬い連中に対する言い訳となったわけだった。
そうして組織の垣根を超えたプロジェクトとなったヴィンギロトはこうして三つの組織を一堂に会させている。
とはいえその思惑はそれぞれで、各組織がそれぞれの利益を考えた結果でもある。つまり善意だとか人類全体の利益だとか、そういった分かりやすく正しい理由は建前に近しい。
そういった部分もないわけではない。何しろ人類は徐々に切羽詰まってきている。大陸大横断などと言って東西の流通が十年単位の一大事業と化しているのがその証拠と言えた。
プロジェクトは人類の未来のために行われているのは間違いない。しかし、そこに個人の……あるいは組織、派閥のための思惑を持ち込む者がいないわけではなかった。
技術者同士の交流は特別なインスピレーションを生む。直接的な技術供与の他にそれぞれの派閥のーー更に細分化されたグループがそれぞれ人材を送り込むことで発言力の増大や新たなパイプラインの形成を目論んでいたりする。
政治的駆引きの鉄火場を背後で繰り広げながらしかし現場の人間の、その多くはその事情を気にもしていなかった。
「カウツ」
何度目かの誰かの呼びかけにカウツが振り向くと、そこには同じぐらいの年頃の少女が立っていた。黒髪のショートカットで手入れがあまり行き届いていないのか艶がない。目の下には隈があり肌の調子も良くはなさそうだった。
「トーカ……」
しばし目を閉じ言葉を選ぶ。闇の中、頭に浮かんだ言葉が端的だったのでゆっくりと目を開く。
「何徹目だ?」
「三徹」
「寝ろ。あと風呂に入れ」
「そんな時間ないわよ。風呂なんて入らなくたって死にゃしないっつーの」
女子力という言葉とは程遠い生き方である。その潔さにカウツは深い感銘を受け盛大に呆れ返った。
そのカウツの様子にむっとしたのか若干不機嫌そうに眉根を寄せて顔を近づける。
「いーからちょっと話を聞いてくれない?ここなんだけど……」
「分かった。貸してみろ。そして離れてくれ」
トーカから距離を取ってカウツはその内容を確認する。
トーカはカウツとほぼ変わらない年頃の少女であり、その年若さを考慮すると極めて優秀な技術者であった。
魔術とは個人の能力に依存する技術であり、汎用性に乏しい。これを可能な限り万人に使用できるようにするために魔力をエネルギー源とした動力や、技術や特性に左右されず誰でも平均的な性能を出せる魔術式の開発などが彼女の専門分野であった。
その知性は彼女の人生における少なくない割合の時間を割くことによって手に入れた産物である。
少女の顔は酷いものだ。三度の夜を眠らずに過ごして風呂にも入らず食事もそこそこにしているだろう。しかしそれでいて尚励めるのは彼女が若いからだ。彼女の能力はこの若さ、あるいは幼さが内包するあまりにも貴重な時間というリソースを研究、自己研鑽につぎ込んだ結果なのだ。
トーカは組合の人間である。その出自と能力の意味する所がカウツには少しだけ気がかりだった。




