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かすかな振動で天井から埃がはらはらと舞い落ちる。それに誰も気が付かない程地下深くの洞窟に余裕のないアレクトの声が響き渡った。
「ロシリエル嬢!お嬢さんを連れて逃げろ!」
問い返すような事はしなかった。言葉に従いミアを抱え上げて走り出す。抱えられた少女が悲壮な顔で手を伸ばす。その先には変わり果てた飼い犬の姿があった。
それに応えたわけではないだろうが異質な存在へと変貌を遂げた飼い犬は主人の方へと飢えた視線を向けていたが、アレクトがキーアの腕の中で身を乗り出した途端、電流が走ったように震えると導かれる様にキーアに、いや、アレクトに狙いを定めたようだった。
目が赤く染まり、時に緑色の淀みがある。開いた口腔が獲物を求めて生臭い息を吐き出していた。
アレクトは、どこか脱力した様子で深く息を吐いてから言った。
「キーア。あの霊素獣の狙いはこちらにある。だから……」
言葉を待たずキーアが頷いた。
「分かった。何とか逃げてみるよ」
「違う。狙いは当機だ。だから捨てていけ」
アレクトの体にかかる力が増す。決して離すものかと言わんばかりに強く抱きしめられた。
「できるわけないと思わない?」
震える声に滴り落ちる汗。引きつった笑みが彼女の恐怖をこれでもかと露わにしているのに、アレクトを見捨てる素振りはどこにも見当たらなかった。
「……キーア。君の足ではアレから逃げ切ることは出来ない。大人しく言うことを聞きなさい」
道理を説く親のように諭すアレクトへ更に力を込める事で返答する。
「嫌だね。私はそんな事したくない」
強情を張る娘にため息をつく。
「……仕方ない。じゃあ、さっき飛ばした槍があるだろう。あれを回収してくれ」
「槍?槍って……」
アレクトが射出した槍は犬の肉を掠めるとそのまま背後に飛んでいった。そして、犬の背後にあるのは地底湖だった。
「湖に落ちたんじゃないの?」
「近付いてくれれば何とかする」
視線を霊素獣にやるとそこらにいる幽霊には目もくれずじりじりと近付いていた。こちらを狙いつつも警戒しているようで迂闊に飛び込んでくるような気配は見せない。
そこには若干の躊躇が見え隠れした。その理由はキーアには定かではないが、こちらの出方をうかがっているように思えた。
「……そうだ。キーア。カウツからナイフを貰っていただろう。あれを出しておいてくれ」
「う、うん」
言われてナイフを取り出す。銀色の刃が薄暗い洞窟の中でキラリと光る。
「よし、合図と共に奴の横合いを真っ直ぐに抜けて湖に飛び込め」
「……大丈夫なの、それは?」
「何とかする。君は全力で走り抜けてくれ」
具体的な事は何一つ言わないがそれを信用する。そうする他にないからだ。
後は意を決し走る準備をする。
心臓が鼓動する。その高鳴りに頬を伝う汗が存在を主張する。細い顎を伝い、重力に引かれ落下したその時に息を大きく吸い込んで走り出した。
「うああああ……!」
がむしゃらに霊素獣向けて走り出す。幽霊たちの透明な体を突き抜けて人波をかき分けるようにしながら霊素獣のその脇を抜けようとする。
どこか躊躇っていた霊素獣が飛び込んでくるキーアに吠えた。子犬のような鳴き声が少女の飼い犬としての面影を残している。
その取り返しのつかない悲しさに嘆きたくなったが、今はそれどころではなかった。
犬が飛ぶ。すっかり大きくなってしまった体が獲物を組み敷こうと四足を広げて襲いかかる。
アレクトの手が動く。キーアの手の中で握りしめられたナイフが一際輝いてキーアの前に薄い絹のヴェールを思わせる青い光が展開する。
霊素獣がそれに衝突する。まるで紙のように薄いのに獣の体当たりを弾き返した。
霊素獣が情けのない悲鳴を上げた。それに目もくれずキーアは走る。
地底湖に近付く。アレクトの手が伸びたまま何かを掴もうとしているようだったが、まだかなわないようだった。
飛べ。
声はなく、目もあったわけではない。意思を疎通するための何一つ行っていない。それでもその意思が伝わってきた。暗い地底湖に飛び込む恐怖はその時なかった。アドレナリンが頭の何かをショートさせていたのかもしれない。
そういう理由はどうでも良かった。アレクトを信じる。キーアの行動は全部それで説明がついた。
ここまでの滑走は全てこのための助走だったと言わんばかりにキーアの足が思いっ切り踏み切った。滞空時間は然程長くはない。暗い、底の見えない水の中へ飛び込んだ。
水中に沈みゆく自身の体がより深みへと導かれる。
腕に掻き抱いたアレクトがモゾモゾと動いているのがなんとなく分かる。
目を閉じている。周囲の状況が分からない。
いつまで自分の呼吸は保つだろう。アレクトを信じていても不安は尽きない。
少し苦しくなってきた。口が開き、肺から最後の呼気が吐き出された。
死ぬかもしれない。そんな予感が過ぎった瞬間に、何かがお腹に触れてそのまま吹き飛ばすようにして体を持ち上げた。
水面を抜けて、水中から脱する。耳が痛い。容赦なく体を動かす力は彼女を翻弄する。くの字になった形で飛んでいく。まるで子猫が首根っこ掴まれて運ばれているようだった。
ようやくその運動から開放される。ゆっくりと速度が落ちていき、足が地面に触れる。完全に停止すると尻餅をついて思う存分にむせ、咳き込んだ。
「よし、良くやった。距離も取れた。さあ、ここからまた頑張れ。立ち上がってここから脱出だ!」
うっすらと目を開ける。金色の槍を手品のように手のひらへと飲み込んでいくアレクトがすっかり調子を取り戻して急き立てていた。
水浸しの体を億劫に立ち上がらせると、アレクトが裾を引いて「こっちだ、こっち」と誘導する。
大空洞を逃れ、下り坂の途中まで来ていたらしい。疲れた体に無理を言って走り出す。アレクトはいつの間にか頭にまで登ってきていた。
「……あまり言いたくないんだけど、あの子を何とか出来ないの?」
「出来ない。霊素獣から元に戻すことも、やっつけるのも……やっつけるのは何とかできるかもしれないがスオなり聖鈴騎士に任せた方が確実だね!とにかく振り返らず逃げろ!話はそれからだ」
走る。でこぼことして足を取られそうな坂道を登っていく。背後から感じる圧力を気にしている余裕もない。
息を切らせ死の国から地上へと駆け上がる。追ってくるのは亡者か獄卒か。探しに来た子犬は霊素獣という化物に変質してしまった。今はそれから逃げている。なんて本末転倒、無慈悲なのだろうか。思う所はいくらでもあるし、飼い主の少女の気持ちを思えばたまらない。
そういう一切合財を後回しにして走り抜ける。幾度か背中の方から衝突音がした。アレクトが追ってきた霊素獣を弾き返しているのだろう。
あと何度耐えられるだろうか。その恐怖さえ投げ捨てて足を前へ前へと進め、鉛のようになった頃、風の気配がした。眼前にランタンが途切れ夜の闇が広がっている。
歯を食いしばりラストスパートをかけて外に出る。倒れ込みそうになる体を気合で支えて踏ん張ると背後で何度目かの衝突音がした。
遂に振り返るとボロボロになった霊素獣が洞窟の入口を塞ぐように張られた障壁に爪を立てていた。
「よく頑張ったね。ここで足止めしとくからスオか聖鈴騎士でも連れて来てくれ」
いつの間にかキーアから降りたアレクトが手のひらから黄金の槍を先端だけのぞかせながら出しており障壁を張っているようだった。
「……大丈夫なの?」
「なる早で頼む。正直あんまり長くは保たないからね」
「ーーそれでは私が力を貸して差し上げましょうか」
声と共に霊素獣の足元に闇夜にあって尚、暗い影が現れる。その影が隆起するように膨らんで槍のように霊素獣の腹部を貫通し背中から黒い影が突き出した。
百舌鳥の早贄のように体が影に貫通されて浮いている。その亡骸から緑色の光がうっすらと抜けていく。
「あ……」
振り返るとそこにはフィッシュテールの黒いドレスを着た少女が立っていた。ひらひらと舞うスカートはレース仕立てのようでまるでパーティーに参加する装いのように見えた。
「こんばんわ、お姉さん」
「リンカちゃん……?」
「覚えてくれていたんですね、ありがとうございます」
どうして、と問おうとしたキーアであったが、それより早くアレクトがするすると音もなくキーアの頭に登ってきてその口をおさえた。
「お前、組合の人間だな。随分と剣呑なモノを連れているな」
険のある声でアレクトが話しかけたが、リンカは驚いた様子一つ見せなかった。
「こんばんわ、ウサギさん。今度は喋ってくれましたね。しかし、剣呑ですか……ふふふ」
花がほころぶような笑みを浮かべるリンカにアレクトの声は更に硬さを増す。
「何がおかしい?」
「だって、貴方に言われたくはないでしょう?」
「……」
その会話の意味がキーアには理解できない。
「それでは私はこれで失礼します」
静々と頭を下げるリンカに、はあ?と素っ頓狂な声をあげる。
「何しに来たんだ、お前」
「それはお話できませんね。では、ご縁があればまたお会いしましょう。それでは」
闇夜にドレスが消えていく。その後ろ姿をアレクトは睨み続けていた。
「ねえ、アレクト。今の話は……」
「ポチっ!」
涙混じりの痛切な声が愛犬の名前を叫んだ。振り返ると森の中から飛び出してきたミアが腹を貫かれもはや動くことのない亡骸に縋り付いていた。
「ミアちゃん……」
「あ、ああ、あああ……」
言葉にならない。両の瞳から涙を流しながらその遺体を抱き上げ嘆くしか出来ない。
犬は体温を急速に失い、流れ出る血はミアの服を赤く染め上げていく。
「どうして……!?お父さんも死んじゃって、ポチも私を置いていくの……!?どうしてそんな簡単に死んじゃうの……!?こんななら、生まれてきた意味なんて分からないよ……!どうせ死ぬのに私だって、私だってもう生きてたくないよぉ……!」
少女は震えていた。この世の不条理に苛まれて大切なものに置いていかれる苦しさに凍えていた。抱きしめた犬は冷たくて仕方ない。体温は奪われていく一方だった。
「ミアちゃん、それは……」
嘆く少女の背中を優しく抱く影があった。
慈母のように、迷える子羊を救おうとするかのようにロシリエルがミアの小さな体を包み込んでいた。
「ミアちゃん、命はいつか必ず亡くなります。永遠に生きている事はできません。でもね、私達は一人じゃないんです」
「でも、でも……」
「分かりますか、ミアちゃん。私の鼓動が。私が生きているという暖かさが。きっと貴女より私の方が先に死にます。でも今はこうして貴女を暖められる」
「……」
「束の間のことかもしれない。でもね、誰かと一緒にいるという事はこんなにも暖かい事なんです。貴女が生まれてきた理由は貴女と一緒に居たい人がいて、貴女と一緒に居たいと思う人がどこかに居るからなんですよ」
「おかあさん……」
「そうです。ミアちゃん。お母さんを助けてあげて下さい。お母さんも今は悲しくて仕方がない。寒いはずです。だから寄り添い合って貴女の暖かさをお母さんに、お母さんの温もりを貴女がお互いに分かち合ってください。それが出来るのは、ミアちゃん、貴女だけなんですから」
頭を撫でる。
「そして、いつか。貴女が他にも大切にしたいと思える人に出会い、貴女の暖かさを分け与えてあげられるように。どうか、幸せになるために生きて欲しいんです」
「う、う……うあ、うあああ…………おかあさん、おかあさん……!」
少女の慟哭が響く。ロシリエルは何も言わずただただミアを抱きしめていた。
キーアはそれを見つめていた。ポタリ、とずぶ濡れの体から雫が落ちた。頬を伝い、止めどなく流れて落ちている。
少し、寒かった。頭にしがみつくアレクトを腕に掻き抱き、その鼓動を感じ取って少しだけ暖かくなった。
「スオ……」
名前を呼んで森の方を見る。湖の方角に奇妙な明りが見える。夜の闇を照らし巨大な蛍の光にも似た明りが灯っている。
「あれは……」
「湖の方だね。そういえば、ロシリエル嬢。君らはどうして戻って来たんだ?」
アレクトの問いに、ロシリエルが顔を上げた。
「それが、森は何だか糸のようなもので囲まれていて途中から入れなくなっていて、仕方なく迂回しようとしたんですけど……」
「……ふーん。キナ臭いね。キーア、行ってみよう。下手したらスオがピンチかもしれない」




