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底なし沼に自ら足を踏み入れているようだ。
一歩毎に濃密な不穏の気配に沈み込んでいく。
未だ、キーアには霊素の濃淡、霊圧の高低について感じ取ることは出来ない。
しかし、危険を知らせる信号が頭の中で鳴り響いている。何かが昨日とは違うと分かる。
空気、そう空気である。あえて言うなら空気が違う。足を進める底の方からそれが伝わってくる。
ざわざわと蠢いている。ひそひそと密めいている。
そうーー何かがいる。その気配を感じる。
その恐怖に、我知らず汗が流れる。拭うことも出来ず落ちるに任せていると何か、ひんやりとしたものが脇を過ぎ去って行った気がした。
声を出しそうになる。それを何とか堪え、ただ歩く。前を行くロシリエルも心なしか昨日より歩みが遅い。
足が重い。それでも前へ進む。深く静かに降りていく。そうして遂に最下層へ辿り着いた。
開かれた空間。闇を映す暗い地底湖。その場所に、異常な光景が広がっていた。
人、人、人、人の群れ。まるでパーティ会場のように地下空間を埋め尽くす程の人々がそこには集まっていた。
その人々は老人の姿が目立ち、見る限り子供はいない。平均年齢の高さに加え、皆一様にして色素の薄い姿をしている。
その人々には肉体がない。在りし日の幻影。
即ち幽霊だった。
声もなくキーアが後退り、ロシリエルが膝を崩し胸の前で手を合わせていた。
「ああ……やっぱりな……」
これを予想出来ていたのかアレクトが嘆くように口にした。
「こ……これは一体どういうことなの……分かってたの?アレクト……!」
「霊素濃度の濃淡と、霊圧の高低については厳密には意味合いが異なると言ったね?それはどういう違いか。霊素濃度の濃淡はその一帯における霊素濃度の比率を以て高低を測る。一方で霊圧とはある一点に集中する霊素濃度の圧力を以て高低を測る」
説明に対してキーアの表情が、よく分からないと主張していたので、そうだな、とアレクトがその両手をお椀を作るように重ね合わせた。
「わかりやすい例を挙げると、米を炊いたものをおにぎりにする時この米の量が霊素濃度と言い、米をおにぎりにすると形を作るために力を込めるだろ?この時、おにぎりの中心点に力が集中する。この中心にかかる力を霊圧という」
霊素量とはおにぎりを作るために使われた米の量。霊圧とはおにぎりを作るために使われた力の量。
「つまり、霊圧とは霊素が集中しようとする要素……霊素溜まりや魂、霊核の存在を証明するものだ」
「ええと……とにかくこんなだったって分かってたんだね?」
分かったような分からないような顔のキーアにアレクトは薄く目を閉じていいや、と否定した。
「確証はなかった。基本的には霊素濃度が高まれば自然と霊圧も高くなる。所々に霊圧が高くなっているのは確認出来ていたから、それが霊素溜まりなのか霊素獣なのか分からなかった」
「幽霊だとは思わなかったの?」
「前に言っただろ。幽霊とは霊素溜まりに魂が通過した時に現れるだけの事象だ。幽霊と霊素溜まりは意味合いとしては同じだよ」
黙って話を聞いていたロシリエルが笑う膝を抑えながらゆっくりと立ち上がり、すっかり血の気が引いて青白くなった顔をアレクトへ向けた。
「ウサギさん。教えて下さい。何故、この方達は霊流に還ることなく地上に留まっているのですか?」
「何故ではなく、どうやってと聞くべきだな。そしてその方法は正直よく分からない。ただ推察は出来る」
「教えて下さい」
「恐らく第五段階霊素獣の能力を応用したものだと思われる。魂を抜き出す能力を持った霊素獣がいるんだ」
「……国の内部で霊素獣を飼っているということですか?」
「そうだな。そうなるね」
あまりにも軽い返答に目を伏せた。震えるまつ毛の奥で揺れる瞳が怒りとも悲しみとも言えない複雑な感情を小さな火のように灯していた。
「それは……誰の……仕業なんですか」
「答えなんて一つしかないだろう?」
組合の、人付き合いをしたがらないおかしな格好をしたおかしな言動のおかしな男。その薄汚い白衣姿が脳裏に浮かび上がる。
「……だとしたら私は黙っている訳にはいきません。死者の魂を玩び地上に留める事など認められませんから」
「魂なんて所詮、記憶と記録の集積装置にすぎない。本人ではないよ」
現実的な冷たいウサギの言葉に、感情的になった過剰な動きで首を振り否定する人間。
「切り離された腕は最早その個人ではないでしょうが、それをぞんざいに扱っていい理由はありません。それと同じです」
「成程」
ロシリエルの言葉は感情的に発せられた感は強いものの、あまりにも人間的な論理であり道徳観念においてまったく正しい物の見方である。そういったものを好ましく思うのだろう。ウサギは人としての善性に納得して満足気に頷いた。
「とにかく、ここは良くないよ。ミアちゃんの犬を見つけてっ……!?」
キーアの提案は途中で遮られた。振り返ったその時にその姿を見つけてしまったからだった。
年端もいかない少女が腰を抜かしていた。顔を青ざめ幼い瞳の端から大粒の涙をポロポロと溢している。
ミアが何故かそこにいた。
「あ、あぁ……」
父の幻影を求めてその姿を探していたような少女ではあるが、この非現実的な光景には流石にキャパシティの限界を迎えたらしく、恐怖に震える口から漏れ出る声は意味をなさないものでしかない。
「ミアちゃん!?どうしてここに……!?」
呼び掛けられ、少女がはっと意識を取り戻し涙を拭いもせず慌てたように上半身を前向きにして食い気味の謝罪を口にした。
「ご、ごめんなさい……どうしてもポチが心配になって……」
その哀れな少女に近寄ったのはロシリエルの方だった。その蒼白な顔にほっそりとした指をはわせた。
「こんな顔を青くして……早く戻らないと」
「その前に……ポチを……ポチ……!」
愛犬を求める少女が視線を左右に動かすと地底湖の水辺でぐったりと丸まる茶色い毛玉を見つけ、声を上げた。
「ポチ……!」
そうして飛び出すように駆け出す。幽霊たちの半透明な体をすり抜けながら一目散に走り出した。
なにはともあれ、これで目的は達成した。二人の女性が胸を撫で下ろそうとしたその時、ウサギ、アレクトが何かに気がついたように表情を一変させ、叫んだ。
「……駄目だ!そいつに近寄るな!」
その赤子のような手から骨が突き出すように黄金の輝きが現れる。細長いそれはセンティーアでも見たカウツの槍である。
その黄金の槍が射出される。近寄る少女の脇を抜けて犬の頭を掠めた。赤い血が吹き出す。
「……ポチっ!」
悲鳴が上がる。少女の足が止まった。
「な、何やってるの、アレクト!」
突然の凶行に非難の声を上げるキーアが見たアレクトは力を全く無くしてしまったかのように体を弛緩させ絨毯みたいにキーアの肩に沈み込んでいた。
支えを失ったかのように力の入らない様子のアレクトがそれでも何とかと頭を上げて言った。
「そいつはもうただの犬じゃない……第一段階、いや、第二段階に移行しようとしてる……」
その言葉を証明するかのように、ミアの犬はアレクトによって傷付けられた頭部に緑色の光をまとわせていた。皮膚がえぐれ見えていた赤い肉が緑色の光によって塞がれていく。
喉の奥を鳴らすような凶暴な声が小さく儚く愛らしかった子犬から放たれる。体が風船のように少しずつ膨らんでいく。ただの犬にすぎなかった生き物が狼に似た何かへと変わっていく。
「そんな……!?」
ロシリエルの声が切なげに響く。
「霊素獣化した……!」
歯噛みするように、決定的なしくじりを犯したような面持ちでウサギは最悪の事態だと告げた。




