70・第二の獣
灯りのない夜道を急ぐロシリエルとキーア、スオそれにキーアにひっつくアレクトの三人と一匹が湖まで辿り着く。薄闇にけぶる夜の湖、ゆらめく蛍の光、鼻孔に絡みつく湿った草土の匂い。寝息にも似た虫の音に混じって誰かが苦々しい声を上げた。
耳元でひきつる声にキーアが肩に乗るアレクトを見ると子供の度の過ぎた悪さの現場を見たように忌々しげに顔を歪めていた。甘い水へ誘うように蛍が飛び交う湖上にその厳しい視線を向けている。
「ひどい霊圧だ……前来た時はこんなんじゃなかったろうに」
アレクトのうめき声にいつにない真剣味があるのを感じ口をついて出そうだった文句よりも疑問を口にする。
「霊圧ってなんだっけ。霊素が濃いってこと?」
「霊素濃度の濃淡におけるそれとはやや意味合いを異にするけれど、大体その認識で合ってる。この場所は今、著しく霊素濃度が高くなってる。あまり長居しない方がいい」
語気を強めにしたアレクトの言葉に、しかしキーアはあまり実感がなかった。体にかかる負担があるわけでもなし、肌で感じるような寒気やそれに類するような気配もなく、さしてどこか変わった雰囲気を感じなかったからだ。
しかし、横から「うっ」と吐き気を堪え呻くような声が聞こえてそちらを見るとロシリエルが口元を手で抑えており、その表情はやや陰っていた。
「大丈夫ですか?」
「あ、すいません……ちょっと気持ちが悪くなってしまったものですから……大丈夫です」
気丈に振る舞おうとしてはいるものの、その影響は見るからに現れていた。青ざめた顔、力の入らない足。弱々しい声。明らかに様子がおかしい。キーアがその顔を覗き込むと頭に余分な重力がかかった。アレクトがキーアの頭にしがみつきながらロシリエルの顔色を見ている。
「霊素量の変化が急すぎるから体がビックリしているんだろう。意識的に魔力を生成出来るかい?」
患者の様子を観察する医者のようにアレクトが診断し、問うとロシリエルは頷いた。
「よし、じゃあ少しずつ魔力を生成する量を増やすんだ。気分が楽になったところでそれを維持するようにしなさい」
言われた通り呼吸を落ち着けるように肩を上下にしていると、やがて持ち直したのか一息ついたように呼気を漏らした。顔色が上気したかのように赤みをさしている。
「落ち着いたかい」
「はい。ありがとうございます」
微笑むその額にはわずかに汗があった。魔力の生成量を増やした事で霊素の調整が上手くいっている証拠だろう。血流が回復しているのだ。
それを確認すると今度はスオに向き直る。
「スオ、君は大丈夫か」
「ああ、大丈夫だよ。今、魔力の生成量を増やしているところだ」
よし、と頷くアレクトだが、こうなってくると心配になってくるのはキーアである。ソワソワとした落ち着かない様子で訊ねた。
「ねえ、アレクト。私は大丈夫かな。何か全然なんともないんだけど、いきなり爆発したりしないよね?」
素っ頓狂な心配ではあるが、そういう心配もむべなるかなと言わざるを得ない。キーアは魔力を生成出来ないのだから。
その不安に対するアレクトの視線がゆっくりと右から左へと移動する。思考を巡らせているようだった。
「君は大丈夫だ。そういう体質だからね」
「そういう体質って……魔力を作れない人はそうなの?」
「君はそうだ。大丈夫」
ピシャリと問答を断ち切るような言葉で言い切ると、どうにも釈然としない様子のキーアを尻目にアレクトがある方角を指さした。
「どうにも具合が良くない気配だ。特にあちら方面。ここいらに犬っころのいる様子がないから探すならむこうかもね」
その方角は、昨日入った洞窟のある向きだ。
「どうしてそっちにいると思うの」
「そうあってほしくない予想ほど当たるものだからね……まあ、半分冗談だ。もう半分は……そうだな、霊素の残滓から読み取ったからだ」
「霊素の残滓?」
「霊素は世界の記録を保存する。こうしている間にも霊素は少しずつ消費されている。これだけ霊素が濃ければその残滓からその場で何があったのかを読み取る事が出来るのさ」
まあ、極々直近の記録だけだがね。と補足する。
「じゃあ……あっちに行ったのが見えたの?」
「ハッキリとした記録じゃないから、どうもそうらしいってだけだ。確信じゃないけどまあ、確率は高い」
「それなら行ってみましょう」
ロシリエルが頷きそちらに歩を進めようとして、ふと思い出したようにスオの視線がジョージの住処に向いた。
「そういえば……ジョージさんか。あの人は避難していたっけ?」
「……いえ、見かけていませんね」
顎に手を当て思い返してみるがロシリエルは否定した。それを受けてアレクトはふむ、と鼻を鳴らした。
「組合の魔法使いがこの状況を把握してないとも思えないが、確認ぐらいはした方がいいかもしれないな」
「じゃあ、俺が見てくる。二人はそっちを。何もなかったらすぐに向かうよ」
スオがそう言ってアレクトの頭に触れる。
「アレクト、キーア……いや二人を頼んだ」
「任された……一応、魔術の使用規制解除は申請しておく。そちらも気をつけなさい」
「スオ、気を付けてね」
「すいません、スオさん。お願いします」
二人の声を背に巨人の影が並ぶような木立に分け入る。湿ってぬかるんだ覚束ない足元を強く踏んで走る。人が立ち入ることを拒んでいるかのような気配を漂わせながら人が歩くことを想定して切り開かれた獣道じみた道を進む。
その先に朽ちた亡骸にも似た家がある。冷たい色味を夜に見ると酷く不気味な気配がした。窓には幽鬼を想起させるボンヤリとした光が見えた。何故か喉が勝手に唾を飲む。やや躊躇った後にドアをノックする。遠慮がちなそれでは聞こえなかったのかもしれない。反応はなかった。
「……ジョージさん、いませんか」
怯えた色を含んだ震える声が呼びかける。応えはない。
誰もいないのだろうか。ドアノブに手をかけ力を込めてみると、すんなりと開いてしまった。
「開いてる……」
悪戯を警戒するように少しずつ扉を開く。蝶番の軋んだ音が夜の闇の中、耳障りに甲高い音を立てた。
中は暗い。それに埃っぽくてオマケに男の汗を煮詰めたような刺激臭がする。ここに比べれば先程の湖の草土の匂いの方が香り高いくらいだった。
思わず顔が歪む。こんなところで生活していられる神経を疑いたくなるが、家主にとっては快適な環境なのかもしれない。中を見回していると奥の方から光が漏れている。外から見えた灯りはあれが光源だろう。
本能が止めておけと警告する。理性がここで引いたら何のために来たんだと呆れている。結局は後者に従った。意を決して中に踏み入ると奥へ奥へと入り込んでいく。
光源のある部屋には地下へと続く階段があった。家と同じ石造りの粗雑な階段だった。とはいえ入り口は広く、大きなものでも持ち込めそうだった。壁にはランタンがかけられていて足元は暗くない。気を付ければ踏み外すことはないだろう。
気が付けば階段を下っていた。声をかけてジョージを呼ぶ、という選択肢が何故か思い浮かばなかった。秘密基地に忍び込んでいるような気分になっていたのかもしれない。
これがまずかった。
やがて、光が一層に強くなってくると妙な音が聞こえだした。
何かを鈍器で叩きつけるような音。力任せに何かを壊しているような気配。
虫の知らせとでもいうべきか、目に水が入ったので額を拭うと汗が吹き出していた。額どころでなく、頬を伝い顎からポタリポタリと汗が落ちている。
嫌な予感がした。嫌な予感がしたが足は止まらなかった。
本能がやめろ戻れと叫んでいる。理性は黙して何も言わない。なのに足は勝手に進んでいる。
グシャリ。何かの潰れる音。響き渡る打撃音。工事現場みたいな容赦のない打ち付ける音がする。
もう分かり始めていた。察していた。これをわざわざ見に行くのはその義務がある人間か、自らを危険に晒すのが大好きな野次馬くらいなものだ。
スオは自分の事をもう少し分別のある人間だと思っていた。それは過大評価だった。この瞬間は間違いなく俗人であり、凡庸であり、先の事を考えられない馬鹿者だった。
故にそれを見る。
階段を下りきったその場所で、長い鈍器を振り上げるジョージが返り血で赤く染まりながら、もう動く事のない、かつて生き物だったーーおそらくは人間だったものを何度も何度も手に持った血塗れの鈍器で叩きつけているのを、スオは見てしまった。
「……っ!」
息を呑む。膝が崩れ落ちる。その音がジョージの視線を招いた。
ジョージは一瞬驚いたような表情を見せるが、すぐに落胆したように息を吐いた。サプライズをしようとしていたのに、せっかくの仕掛けを台無しにされたような落胆の表情だった。
「……小僧。なーんでここにいるでござるか」
精肉屋の店主が肉を捌いている途中で勝手に入ってきた素人を睨めつけるような視線に、スオは何も答えられない。口が餌を求めて水面に顔を出す魚のようにパクパクと開くばかりで声帯は用をなさないようだった。
うっすらと目を閉じたジョージの姿は異様だった。屠殺のために用意したようなずんぐりむっくりとした服は返り血で赤く染まり、手に持った鈍器は力任せに殴りすぎたせいでひしゃげている。顔はバイザーで覆われているがそれも血塗れだった。
バイザーを投げ捨て、服を脱ぎ、一昨日から着ている妙に体にフィットした衣装になるともう一度ため息をついた。
「……きっとこの事を周りに言いふらすんだろうなぁ……魔術院にも連絡するだろうし、戦団が介入してきそうだなぁ……」
陰鬱な声が彼にとって悲観的な未来を予測する。
「じゃあ殺さないとな」
その手に杖が握られる。一線が引かれ魔力の光が迸る。
生存本能がそうさせたのか、急いで立ち上がったスオが犬か猫のように手足を地面に突き立てて逃げ出すと、そのすぐ直後に魔力弾が壁にぶつかり轟音と共に穴を開けた。
階段を登る。遮二無二に急いで地上へと走った。埃っぽくて嫌な臭いの充満する家から慌てて飛び出し湖の方へ走る。
静かだと思っていた夜が今は騒がしい。心臓の鼓動が痛いほどに脈打ち、巨人の影を思わせた木立は擦れ合う枝葉の音が逃げ惑う生贄を嘲笑うかのようだった。聞こえてくる虫の音は早く逃げろ、でないと死んじゃうよ?と急き立てているようにさえ思えた。
どうする。誰に言えばいい。すぐさま思いつくのはエオメルだが、彼は第四段階霊素獣の相手をしに出ていた。その次はアレクトだが、アレクトはキーアが連れている。キーアを危険に晒したくない。そこへ行くことは出来ない。
とにかくここを離れよう。湖から逃れようと歩を進めると何かにぶつかったように跳ね返され尻餅をついてしまった。
「……!?」
混乱したままその空間に目を凝らしてみると細く、何かがそこにある。
「糸か……?」
それは目に見えない程に細い糸だった。それが木々の間に人が通る隙間がない程に張り巡らされている。
掴み、引き裂こうとするが頑丈すぎる。まるで歯が立たない。
閉じ込められた。血の気が引いていく。
背後から足音がする。鬱屈そうな、いかにも気怠い雰囲気を纏いながら殺人者が殺意を片手にやってくる。
目は疲れ切って口元は不満を露わにして、への字に引き結ばれている。脱力した肩は落ち込んでおり右手に握られた杖を落としそうに見えた。
「あのさあ。面倒くさいから逃げないでほしいんだけど。今ならお前を殺すだけで済むでござる。でもお前が騒ぎ立ててこの事が広まったら殺さなきゃならないのが増えちゃうでござろ?これ以上犠牲を増やさない為にもここで尊い犠牲になってもらえないでござるか?」
滅茶苦茶な事を言っている。ふざけるなと反発したくなるが、その脳裏にキーアの顔がよぎった。
もしも、この場にキーアが現れたなら、キーアまで殺される……それは、とても認められなかった。
だらり、と腕が力を失って垂れる。
「あー良かった。死んでくれるでござるか。心配するな。小僧は行方不明になった体で処理して他の連中には手出しはしないでござるよ」
ホッとしたようにジョージが朗らかな笑顔を見せつつ語るその言葉は、スオが命を黙って差し出すには十分すぎる言葉だった。
そう、昨日までなら。
ロングコートの袖から杖が降りてくる。垂らした袖から重力に従って手の中に収まった。
一線を引く。魔力の光が迸る。ジョージに向かってまっすぐ飛んでいく。
「おお!?」
驚き慌てたようにジョージが跳ねる。スオの魔力弾が掠めて小さな悲鳴を上げていた。
「悪いけど、いや、全然悪いと思わないけど。アンタに殺されてやる気はないんだ。そんなに命の安売りをするわけにはいかない」
杖をジョージに向けて言い放つ。キーアに自分の人生を押し付けていた。その自覚が出来た今、そう簡単に死ぬ事は出来なくなっていた。ここで今、スオが死ねばキーアが負い目を感じるに違いない。自分の旅に付き合わせたせいだと自分を責める事だろう。
そんな姿は見たくない。そんな後悔はさせたくない。キーアを守る事が自分の存在理由として成り立たなくなっても、キーアを守りたい気持ちに変わりはなかった。その心にまで思い至った今は尚更である。
……ジョージは確かに優れた研究者かもしれない。魔術師としてスオより数段上の存在だろう。しかし、戦う事に慣れているわけではないのは見て取れた。これが戦団の魔術師なら二度三度と言わずに何度も命を落としているはずだった。
スオには人の命を奪うような真似は難しい。キーアを守るためという理由があってさえケレブリアンの首を絞めるのに躊躇した。それでもジョージ程度の相手なら戦える。そう判断していた。
「はあ……面倒くさ……」
膝の汚れを払いながらジョージがため息混じりに立ち上がる。その緩慢な動作からは何の緊張感も感じられなかった。
「小生程度ならやっちゃえると判断したか……まあ間違ってないでござる。小生、ホント戦うとかマジでリームーなんで。お前らみたいな蛮行大好き蛮族メンとかガチで付き合ってらんないでござる」
億劫そうに視線を湖に向ける。無軌道に飛び交う蛍の群れがそこにある。
その群れの動きがいつしか一匹、また一匹と決まった動きをし始めた。ある一匹の蛍へと集まり始めていた。それはさながら、強い光に群がる羽虫のように。蛍の群れが、一つの大きな光へと収束し始めていた。
「だから、もう面倒くさいから本気出すでござる。なる早で死んでもらえるとマジ助かるのでシクヨロ」
蛍。湖上の蛍。木々の隙間を抜け糸を引くように光の軌跡を描きながら現れる無数の蛍。ざあざあと耳鳴りがする程に空を覆わんばかりの蛍の群れ。ぐるぐると螺旋を描きながら一所に集まり輝く大きな火。
果たしてそこに一匹の蛍がいた。蛍と言うにはあまりにも巨大な光を纏う一体の獣。
第五段階霊素獣、死魂蟲。
甘く香る死水へ蛍は誘うように揺らめいている。




