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「だ、大丈夫かい」
エオメルの慌てた声に小さな声で死にそうになりながら「はい」と返す。ゲホゲホと咳き込み涙は止まらない。
大変なことになっている顔に柔らかな感触がする。小さな子供のような手、銀色の紅葉にも似たアレクトの手だった。
「長年の膿だ。この際に全部吐き出してしまえばいい」
どこから取り出したのかハンカチが押し当てられて目尻を拭った。それを無言で受け取り顔を拭くと吐き出したものが見えた。それを周囲から土で覆い始末してしまうと顔を上げる。
「すいません、突然……」
「いや、多分僕が不躾な事を言ったんだろう。君の事情も鑑みずに喋っていたんだ」
「……悪い事なんて一つも言ってないですよ」
見ないようにしていたこと、意識の外にやっていたもの。そういう、いつかは向き合わなくてはならない事が今やって来た。それだけの話だった。
スオにとってキーアを守らなければならない理由は十年前のあの日、何の意味もなくなっていた自分の前に現れた自分よりも可哀想な子供を守る事で存在意義を形成したからだった。
小さな頃はそれでもよかったかもしれない。だけれども、今はもうスオもキーアも可哀想な子供ではない。
彼らも十年の時を無為に過ごしてきた訳ではない。学び鍛え成長した。もう、社会に出ることを考えて独り立ちする時期に差し迫っている。
だから、スオがキーアをいつまでも庇護下に置いておける訳がない。兄が妹を守るようなものだとしても、その時期はとうに過ぎていた。
それに何より、守られてきたのはキーアではなく、スオの自意識に他ならなかった。
キーアを自分が生きていていい理由にしていた。こんなものを背負わせていてはいけない。
……ああ。暗い夢が終わる。空が滲んで落ちてくる。もしも世界が一枚の紙であるのなら、その中心に立つ自分は小さな虫のようで、その紙を丸めてポケットにしまい込まれたように世界が押し寄せてくる。
頼る所がない。寄る辺がない。使い捨てられた孤独に寒気がする。それでも、理性は働いている。
世界はかつて少年が思った程に冷たくはない。カウツ、キーア、アレクト、バッツ。他にも友人達がいる。
生きていていい理由はなくとも、生きていなくてはならない理由はある。
よく分からない人生を、支えるものは既にあった。
「ありがとう……ございます」
誰に対して言ったのだか、分からなくなっていた。
エオメルはにへらと笑い何も言わなかった。
「良かった」
その言葉はアレクトの声だった。
「吐き出すだけで終わらずに済んで良かった。それじゃあ何も残らないからね」
自分の腹の中に残ったモノの中身が言う。その安心感は恐ろしいほどに暖かく、理由もなく泣きたくなった。
「さて、申し訳ないけどそろそろ見回りを再開しようか。誰かに見られたら僕がイジメをしているように思われるかもしれないからね」
冗談めかしたエオメルの言葉にスオは思わず吹き出した。確かに、そう見えるくらいには酷い有様だった。
改めて歩き出そうとしたその時、草むらから何かが飛び出してきた。
「……何だ、ただのヤギか」
それはヤギだった。一対の角が反り返るようにして背中に向けて生えた少し小さめの個体だった。
スオ達に気が付いて、怯えたように去っていく。
「……ふむ、糸に反応もないようだし霊素獣ということはなさそうだね」
近くに張ってある糸を確認しながらエオメルが頷く。
「見るからにただのヤギに見えますけど、そういう霊素獣もいるんですか」
「魔術院で習わなかったかい?第一段階の霊素獣は元々の姿から変化しない」
ああ、と思い出した。
霊素獣には段階が存在するが、その肉体的変化が訪れるのは二段階目からである。
一段階目は肉体に変化はなく生態が変化してくる。霊素獣と化したことで霊素を本能的に求めるようになる。霊素を更に取り込む事で第二段階に成長し、ここで肉体的な変化が訪れる。
つまり、第一段階は見た目では霊素獣かどうか分からない。危険性もその動物本来のものでしかない。むしろ霊素を求めるようになって人間など霊素の含有量が少ない生物を狙わなくなる分、人間にとっては安全な生き物とさえ言える。それでもそんな霊素獣を倒すのは、
「第二段階に変ずる前に処分した方が食べる所も多いし人間にとっては都合がいいからね」
そういう事情があるからだ。人間以外の生き物は取り込んだ霊素が肉体に影響を及ぼす。故に基本的には人間よりその他の生物の方が含有している霊素量が多い。
そして肉体が滅べば魂とそれを構成する要素である霊素もまた肉体から離れる。段階の進んだ霊素獣がその死と共に肉体が消滅するのは肉体が霊素によって構成されているからに他ならない。こうなると成果が無い以上、狩りとして成り立たなくなる。
霊素の過度な増加は霊素獣の増加と同義である。昨今の霊素量増加は人間にとって様々な問題を孕んでいると言えた。
「……げっ」
間の悪さを嘆くような、おかしな声が聞こえ、そちらを向いてみるとそこにはジョージがいた。昨日見たままの格好をしている。着替えていないのだろう。
「ジョージじゃないか。どうしたんだ、こんなところで」
エオメルの問いにジョージは困り果てたような渋面を作ってみせた。
「その、何でござるか。ちょいと糸を張り直してござった」
「糸を……?切れたとか聞いてないけれど」
「四本目を張ってたでござる」
「……四本目?」
その言葉を聞いてスオは思い出す。監視塔には三本の糸が繋がっていた。そして霊素獣が現れるとそれが反応して何段階目の霊素獣がどこに現れたか分かるようになっている仕組みだという。
何故三本なのか。
その理由を考えているとエオメルが訝しげに口にした。
「第四段階にまで対応した糸を張っているのか……何で今更?」
「……もし出て来たら困るでござろ?」
「そりゃあね。でも、第四段階なんてまず見かけないよ」
その会話で理解した。糸はそれぞれ段階に対応しており、三本の糸はそれぞれが一、ニ、三の段階に反応して揺れるようになっているのだろう。つまり、四本目の追加は第四段階霊素獣に反応する糸を用意する、という事だ。
「そ、そんな化け物がこの辺りに……!?」
センティーアに来る前に出会った人馬獣を思い出す。戦団の魔術師であるユガですら単独では敗れそうになった化け物である。その後に輝翼鳥という更に上位の化け物が現れたので忘れかけていたが、あれでも十分過ぎるほどの脅威だった。
そんなものが現れるのかもしれないとなればスオの狼狽も当然と言えた。
しかし、エオメルは笑って否定した。
「大丈夫だよ、第四段階の霊素獣はまず人里近くに現れたりしない。霊素が薄いからね。霊素の濃いところに陣取っているのが常識だ。自ら遭いに行かなきゃ遭遇するものでもない」
反論しようとして口を開きかけたが、先日出会った人馬獣はまとめて始末しようとした霊素獣が運良くーースオ達にとっては運悪く生き残り他の霊素獣の霊素を吸収したからだ。あの膨大な量の霊素を吸収したから現れたイレギュラーに過ぎない。
確かに、そう考えればそんな化け物がホイホイ姿を表すのは考えにくかった。
「……とにかく、備えあればナントカカントカというでござろ?今後の憂いを除く為にも張っておくでござる」
「……」
ジョージの言葉にエオメルの目が細くなる。何か疑いを持っている目だった。
「ジョージ、何か隠していないかい?」
「……何も?」
吹けていない口笛をひゅーひゅーとわざとらしく吹きながら目をそらしジリジリと後ずさる。
「……あっ!小生、用事を思い出したでござる!しからばゴメン!」
逃げるように去っていく。人里に降りてきた猿のようなその後ろ姿をエオメルはため息をついて眺めていた。
風が吹き、どよめく山間で影のように立ち並ぶ木々の間に薄っすらと光る伝線。
……張り巡らされたその糸が四本に増えていた。




