38
「ひっ……」
黒い獣がその口に挟んだ人間をやわやわと噛み砕かないように気を配っているのを咥えられている人間は知らない。彼らは魔術師の気を引くための人質であり殺してはならないと厳命を受けているからだ。
しかし、そんな事情を知らない人質は生きた心地がせず、顔中から液体を垂れ流しそれを拭くことも出来ず街を駆ける黒焔獣のなすがままにされるしかなかった。
助けてくれと人々に手を伸ばそうとしても、彼らは己が逃げ惑うのに忙しく、そうでなくても黒焔獣の足の速さであっという間に置き去りにしてしまう。
このままセンティーアの外に連れ去られ、餌として食われてしまうのか。そんな事さえ頭をよぎっていたかもしれない。
一秒ごとに色濃くなる絶望に気が狂いそうになりながらジタバタともがく。
徒人の抵抗に意味はなく、諦めかけたその時、ピシャリと雷のような閃きが黒焔獣を穿ち抜き、その霊核を正確に貫いた。
崩れ去る黒焔獣の口から解放され勢いよく放り出され、来る衝撃を覚悟するもまとわりつく光が人質を守り安全に地面に横たえた。
そしてそんな事が他の場所でも起きていた。
次々と黒焔獣が倒され、人質が解放されていく。
睨むように前方に視線と両の腕を伸ばすヴァッシュの魔術によるものであった。
掌握空間を自身を中心とした円形に展開するのが通常のやり方ではあるが、ヴァッシュは自身から川のように前方に向けて空間を掌握することでより遠方まで掌握することを可能としている。
問題点もある。掌握空間は同時にレーダーの役割も果たすため、自身を中心とした展開形ならば全周囲からの攻撃に対応出来るが、線形の展開形は前方にしか注意が払えない。
つまりもしも背後から襲いかかる者がいた場合、対応の難易度が跳ね上がるのだ。
そしてそれはいた。ヴァッシュの妨害を目的として用意された黒焔獣がその無防備な背中を狙っていた。
獣の足が力強く地面を蹴り飛び掛かる。鋭利な爪がヴァッシュに届こうとしたその時、それより速く、強い一撃が獣を両断した。
「危ないところだったにゃー!」
両腕を包帯で固定し足をブラブラと振りながら満面の笑みを浮かべるそれはユガだった。魔力を帯びた蹴りで一撃の下、黒焔獣を葬ってみせる辺り戦団員である。
「そうかもな」
しかし、ヴァッシュの反応はにべもない。一言返した後は黙々と街に散らばった黒焔獣を討ち取っていた。
「まったく生真面目な奴め。もう少し笑ったり愛想よく出来ないのか」
「そんな状況か?」
「笑っちまうしかねえって時もある」
「まだ、そんなに追い詰められている覚えはない。それに」
ちらり、と視線をやる。赤黒く染まった血溜まりが見えた。
「笑えない事もあった」
「……そうだな。確かにお前の言う通りだ」
目を閉じて深く静かに刻む。痛みを伴うからこそ意味がある事もある。ヴァッシュもユガもそれを知っている。
サガームの死はそういった類のものだ。仲間が死んだ、殺されたとはそういう事だ。いかに関係が薄くても過ごした時間が短くとも戦団員として共に命をかける以上それは当然の事だった。
共に過ごした時間が長いのなら尚更。
「ヒッツに追わせるのは分かるけども、お前その暫定組合員の女は問題ないのか?」
「正直に言えば少し怪しい。一度仕掛けてみたが防がれた」
「魔術で?」
「いや、存在領域だ」
「……そりゃおかしい。たかが黒焔獣程の存在領域をお前が破れないわけがない」
「そうだな。だからおそらくだが」




