32
第五種霊素獣。
第四種以上の霊素量を保有し、魔術と似て非なる霊素による技術、霊撃を極めて広範にわたって及ぼすことが出来る霊素獣の頂点。
霊撃とは、魔術が霊素を魔力に変換し意味ある形に適切な魔力を注ぐことで発動するのに対し、霊撃は霊素のまま何ら手を加えることなく魔術のような効果を及ぼすものである。
その戦闘力は極めて高く、戦団における規定では単独での戦闘は認められておらず、最低でも第四種交戦資格保持者三名以上を必要とする。
交戦資格とは魔術院が単独で規定された段階に至った霊素獣をーー第四種なら第四段階に至った固有の霊撃を使う霊素獣の全般をーー倒すことが出来ると認定した者に与えられる資格である。つまり、第四種霊素獣を単独で倒しうる魔術師が三人揃って初めて交戦が認められる。それが第五種霊素獣である。
現在、第五種交戦資格を持つ者はいない。歴史上で見てもこれまで保持者が現れたことはない。
第五種霊素獣は歴史上確認されている個体それぞれに超越的な特性を持ち、その全てに対応しうる魔術師が現れなかったからである。
ただし、特定の個体に対して有利を取る事が出来る準資格保持者なら存在する。
輝翼鳥に対しての資格者が。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
この場を離れなければならない。今すぐにでも、キーアを連れて。ここにいても死ぬのを待つばかりだ。
目の前で一人の魔術師が、己よりも格上の魔術師が何の抵抗もできずに死んだ。元より戦うつもりなどなかったが、完全に心を叩きおられた。今、スオに考えられることはいかにキーアを生かして逃がすか。それだけである。
そこに自らの命は勘定に入っていない。自分の命を差し出してもキーアを逃がせるのなら躊躇いなくそれを選ぶだろう。
だが、胸の内で震えるキーアはまるで正気を失ったように目は虚ろであり、薄い唇の隙間からカチカチと歯を鳴らす音がするばかりでとても一人で逃げることなど出来そうになかった。
せめて、誰か代わりに逃がしてくれる人は、指一本でも動かせば命を刈り取られそうな恐怖に怯えながらも様子を伺う。
ヒッツは同僚の死に心を折られたのか身動ぎもせず、項垂れている。とても任せられる状態ではない。
ならば、といつも同行しているアレクトの姿を求めた。あのウサギにどれ程の事が出来るのかは定かではないがユガに頼られた程だ。藁にもすがるような気持ちで探す。
果たして、アレクトは見つかった。
狂気に浸る独裁者のごとき女の前に、命知らずにも立っていた。
「ああ……?」
気だるげな、そして苛立たしそうな声を女が出した。それだけできゅっと心臓を掴まれたような錯覚を覚える。
止めろ、と大声をあげたかった。その小さな体を引っ張って抱え込みたかった。だが、いずれも出来なかった。本能が動くことを許さない。
……それははからずも、先程のサガームとヒッツの構造と似通っていた。となれば未来も同じ。力無き者は蹂躙されるばかりである。
「薄気味わりい生きモンだな……いや、まてどっかでみたことあんな……」
女は記憶の引き出しを探るように遠い目をしている。元から生気が薄くぼんやりとした顔だったが、狂気にとりつかれたような振る舞いをしていた先程までとは落差が激しく躁鬱の気を思わせた。
声をかけるのは勿論、突然の激発を恐れて近づくことさえ注意を払う必要がありそうなものだが、アレクトはまるで気にすることなく小馬鹿にしたような仕草をしてみせた。
「そんなズブズブに腐った魂で何を覚えていられるんだ?もっとも、こちらにもお前に見覚えはないので初対面だとは思うけどね」
恐れを知らない振る舞いに、スオの呼吸が乱れる。吹き出す汗がポタポタと顎を伝い地面に落ちていく。一秒先に死が存在する。一秒一秒が突き刺すような痛みを伴う気の狂いそうな時間だった。
生き死にを選択する支配者たる女はしばらく沈黙を続けていた。露骨な嘲りに対してもどういうわけか怒りを露にしなかったが場を包む空気は冷えきっている。一秒後にはアレクトが弾け飛んでいてもおかしくはない。
糸の切れる瞬間を待つような緊張の中で氷のように冷たい目がアレクトを貫いた。
「……ああ。思い出した。お前、あのガキのペットじゃねえか。まだ生きてたのかよ」
吐き捨てるような口調に並々ならぬ嫌悪がにじんでいる。しかし、当のアレクトは困ったもんだと言わんばかりに肩をすくめてみせた。
「どこで見かけたのかな?」
「十年前にアークティーアで」
「……成る程」
目を伏せってアレクトは鼻をひくひくと動かした。
「教会の人間か。聖歌隊か?聖鈴騎士か?」
「知らねえな。テメエも知る必要はねえ」
細く、痩せた指が無造作にアレクトを指し示す。もういいと無慈悲に飽きたオモチャをゴミ箱に投げ捨てるような動きに一瞬、理解が追い付かないが、すぐにその意味を理解してスオに痺れるような感覚が走った。
殺される。飛び出して何とか救い出したい気持ちに駆られるが、腕の中のキーアを放置できない。結局動けないまま時間が過ぎていく。やがて来る最悪の未来に涙さえ出てくるが、違和感に気がついた。
やがて来るはずのものが、いつまで経ってもやってこない。アレクトは殺されることなくそこに立っていた。
女が不審そうに上を、輝翼鳥を見上げていた。死を呼ぶはずの怪物はまるで置物のように固まっていた。壊れた道具を見るような顔はやがて怒りに染め上げられていく。
「おい……コラ。なぁにやってんだケダモンが……アタシがやれっつったらやるんだよ……簡単なことだろうが、この能無しが!」
あんまりと言えばあんまりな暴言にも輝翼鳥は反応しない。罵倒はしばらく続いたが、疲れたようにため息を吐くと肩を落とした。
「……じゃあアタシがやるわ、寄越せ」
輝翼鳥が大きく口を開き、何かを吐き出した。女が受け止めたそれは女が片手で持つのには少し大きめなサイズのランタンだった。頭頂部分の吊り輪を掴み、顔の位置にまで持ち上げると雲って中の見えないガラスの奥で青く光る何かがもぞもぞと蠢いた。その揺れに合わせてランタンの下部に吊り下げられた円筒もゆらゆらと揺れていた。
その、一見何でもないはずのランタンを見た瞬間。スオは胃液が逆流する気持ちの悪さを感じた。喉元までせりあがったそれを何とか抑え嚥下すると、おぞましさに耐えながらもう一度見る。
青色の光を放つ曇りガラスのランタン。古ぼけてくすんだアンティーク。問題は外見ではなく、中身だった。そして不意に理解した。理解して、もう一度吐き気を催し、堪えがたい怒りを感じた。
「……アレクト!」
声が出た。恐怖に勝る怒りが後押しする。
アレクトがわずかに振り向き、顔を見せた。笑っているように見えた。
女が口を開くと旋律が響いた。それはあまりにも悪逆な女には不釣り合いな美しい歌声だった。
その歌声、旋律には意味があり、ランタンから溢れる青い光、赤い光、黒い光がその歌声に反応し溶けてゆく。
中空に白銀に光る剣のようなものが現れるとその水に濡れたように煌めく切っ先をアレクトに向けた。
剣がひとりでに舞うようにしてアレクトへと襲いかかる。アレクトは動かない。スオには自身の魔術をアレクトに届かせるーー空間掌握の技術がない。
絶体絶命、だが、不意にぬるりとした感触がした。列車でも感じた感覚。空間掌握が行われた感覚だ。
アレクトの前面に魔術障壁が現れ、剣を弾いた。
「また誰か出てくんのかようっぜえな……!」
たまらず激昂する女に答えるように一人の魔術師が姿を現した。赤い髪、気の難しそうな仏頂面、黒いロングコート。そして何故か金色の槍。ヴァッシュであった。
「やあ、助かったよヴァッシュ」
「白々しいことをほざくな。どうせ何とかしたのだろう」
「いや。普通に切り捨てられただろうね」
「……それではこちらが困る。お前が必要になったからな」
手に握られた槍が艶やかに煌めく。
「カウツの槍……」
「使い方はお前が分かると聞いている」
「はあ、仕方ないな」
差し出された槍を受けとるように手を差し出すと槍がまるで見えない誰かが手に取るように宙を動き、カツン、と音をたてて床に柄尻を突き立てて自立した。
「やれるだけやってみよう」
何が起きているのか、何をしようとしているのか。スオにはよく分かっていない。まだ、何も事態は良くなってはいない。ヴァッシュが来たからといって安全は保証されていない。まして、女の苛立ちは収まるどころかより激しさを増しているようだった。
ガシガシとその乱れた髪を更にかきむしり、不愉快そうに呻いている。髪の隙間から覗いた目が憎らしげにアレクトとヴァッシュを睨み付けていた。
「何なんだよ勝手にボウフラみたいに湧いて出てきたと思ったらこっちを無視してぐちゃぐちゃとくっちゃべってワケわかんねえやり取りやっててよお本当にムカつくわ死んでほしすぎてこの苛立ちが収まらないんで今すぐ炭になってもらえねえかなあ!?」
天を仰ぎ見るように女が仰け反り絶叫すると、それまで沈黙を保っていた輝翼鳥が電流でも走ったかのように体を震わせその輝く翼を広げた。
瞬間、頭を上から鷲掴みにされたような感覚がスオを襲った。抗いがたい力に意識が遠退く。ぐるりと目玉が回転しそうだった。
アレクトの体が翻る。黄金の槍に二本の足でバランスを取るように中腰になって立っていた。まるで矢のように槍が飛ぶ。一直線に輝翼鳥に向かって突き進む。
輝翼鳥が口を開いた。霊素の弾丸が発射される。アレクトの小さな子供のような前足が突き出されると空間が歪む。アレクトのちっぽけな体などそれこそまるごと吹き飛ばすであろう霊素の弾丸が魔術障壁に接触する。絶大なエネルギーの奔流が障壁のエネルギーを食い荒らし飲み込もうとしていた。その暴力的な力を障壁は流動性によって力の向かう先を逸らし逃がそうとする。それを助けるようにアレクトが前足を下から上へと振り抜く。大きな石が遂に流れに身を任せるように霊素の弾丸は上空へ逸れて飛び、遥か彼方で轟音を立て爆発した。
障害は取り除いた。黄金の槍が輝翼鳥の存在領域に衝突する。そして同時に糸がほどけるように槍はバラバラになり、アレクトが投げ出された。
ほどけた槍は輝翼鳥を囲むように飛び散り、球形にもう一度繋がった。
輝翼鳥を見下ろすように投げ出されたアレクトの前足が紅葉のように五指を開いて差し出されている。その小さな前足にわずかな力が込められると、ほどけた槍は青い光を放ち、輝翼鳥もろとも消滅した。
女が目を剥いた。信じられないものを見るように、薄く開いた口から呆けたような声が漏れていた。
同時に、スオは押さえつけられるような重圧が消え体内に一気に酸素が入ってくるような感覚にむせた。
「アレクト!」
自由になった体が宙に舞い自由落下しようとしているアレクトを受け止めるべく飛び出していた。
倒れこみそうになりながらも受け止めるとケラケラとアレクトが笑い声をあげていた。
「ご苦労、苦しゅうない」
「はあ、こっちは目が回りそうだ。あんなこと出来たのか。あの霊素獣はどこに?」
「さてね。ありゃカウツの魔術だからさ。ただ掌握領域を介さない空間転移はポイントとして魔術をかけられ紐付けされた場所にしか飛べず魂を以てしかポイント設定は出来ない。要するに」
「……誰かの所に飛ばしたってことか?誰の所に?」
「分かるわけがない。ただ、予想はつく」




