2・キーア
彼女には家を出る前にやらなければならないことがある。
家事仕事をするために少し荒れた細い指先がなぞる銀のレバーは優美な曲線を描き冷たい。このひんやりした感触をほんの少しの劣等感と共に切り替える。
大型のストーブにも似た目の前の機械が犬の寂しげな鳴き声にも聞こえる音と共に休眠状態になった。外出をするために魔力炉のスイッチを落とす。この国では他に誰もする必要がない余分な行為だ。この国で動かす機械は魔力をエネルギー源に動くものばかりである。彼女はこの作業が少しだけ苦手だった。
古都大陸中央南部、魔術師の国。レンレセル。
まだ正午を迎えていない空は抜けるような青空で、人が行き交い賑わう表通りに気の抜けたラッパのような音が響き渡る。大量生産された魔導二輪車が敷き詰められた石畳を駆け抜けていく。魔導二輪車というくらいなので当然のように魔力で動く。目の前を二輪車が過ぎ去ると亜麻色の三つ編みが風に揺れた。靡く前髪を押さえながら栗色の瞳で二輪車を眺めているとあっという間に角を曲がってその姿は見えなくなってしまった。
物憂げに溜め息を漏らすその横で年若い男が袖をまくり腕に巻かれた時計を見ていた。先日発売された老舗時計メーカー名人堂の魔力式時計である。その名の通り魔力で動く。魔術師なら無意識に生じる程度の魔力で充分という触れ込みで一々ネジを巻く必要もなければ魔力を充填する必要もなしと売りに出されていた。
少女、キーアにはいずれも縁のない代物である。
魔導二輪車が消えた角から入れ替わるように大きな車両がやって来た。赤色と黄色にペイントされた車体には「ライカ交通」の文字がある。それは所謂バスだった。バスはキーアの目の前で停車すると透明人間がそうするようにひとりでに扉を開いた。
タラップを踏んでバスに乗り込みレンレセル紙幣を集金機に入れた。小型のベルトコンベアが紙幣を飲み込み下の口からお釣りの硬貨を吐き出すのでそれを受け取ると適当な椅子に座り運転席の方を見る。
「出発致します」
どこか気だるげな声が拡声器によって車内に響く。どれもこれも魔力によって動く機械によるものだった。
震えるエンジンが唸り声を上げ車体が走り出す。窓の外、川のように流れていく風景を眺める。街の中を老若男女が行き交っている。当たり前のように彼ら彼女らにはそれぞれに違いがあるが、しかし一つの共通点がある。それは皆一様に魔術師である、という事だ。
魔術師とは、レンレセル政府組織でもある魔術院が組織管理運営する教育機関である学部にて勉学を修めたものに与えられる肩書きである。学部が施す学問は魔術のみならず一般教養も当然含まれる。卒業後の進路は必ずしも魔術を使うものになるとは限らず魔術師とはいえ、生涯でまともに魔術を使わず人生を終えるものも少なくない。
少女キーアも魔術院学部の生徒であり既に魔術師という分類にカテゴライズされてはいるが、彼女は真実、自分を魔術師だと思ったことはない。
美しい街並みに名ばかりの魔術師は溢れている。そこに交じることが許されない、というわけではない。人々は当たり前のように善意に満ち、暖かく外様のキーアを受け入れてくれている。いつだって問題は彼女の側にあると感じていた。人と違うという疎外感と劣等感に苛まれるのは苦境に立ってそれを乗り越えられなかった、その事実がネックになっていた。
生来彼女は明るい性格を有していた。様々な要因があって落ち込んでしまって暗く、憂鬱に陥りがちになって溜息も増えていた。
物憂げな呼吸が窓ガラスを白く染めた。指先で自分の名前をなぞる。キーア。レンレセルでも使われる名前ではあるが、正確には綴りが異なる。それもそのはずでキーアはレンレセルの出身者ではない。十年前に大陸横断列車に何者かによって旅行鞄に詰め込まれやってきた余所者である。彼女の綴りを用いたキーアという名前はレンレセルから遥か西、方舟大陸で使われる名前だ。
そもそも、キーアが彼女の名前なのかどうかも怪しかった。その名前は彼女が詰め込まれていた鞄のネームプレートに刻まれていたものに過ぎない。
キーアという名前はどちらかと言えば男性名だ。レンレセルのネーミングは男女差がほとんどないため彼女の名前を定めたレンレセルにおける彼女の保護者であるところのカウツは気にせずこの名前をつけたのだろう。
カウツは十年前、列車にてキーアを発見した魔術師である。まだ年若く結婚もしていない若造ではあったがそれでも彼女を引き取った。それ自体には彼女は大変感謝している。実際、彼女やもう一人の同居人である少年のために家を一軒建てている。そうまでされて何も思わない程薄情ではなかった。
今日、こうして出掛けているのはそのカウツに魔術院へ来るよう呼ばれているからだ。
何故家で話さないのか、と言えばカウツが多忙を極める身の上だからだ。魔術院でも戦闘に秀でた者が所属する魔術戦団、他所の国で言えば治安維持部隊、防衛隊、あるいは軍とでも呼ぶべきものに所属しており滅多に家に帰ることはない。
そんなわけで彼女は今、魔術院に向かっている。とはいえ彼女の面持ちから察する事ができるように楽しいお出かけとは到底言えない。理由は色々あるがしばらく遠ざかっていた魔術院へ久し振りに足を運ぶことになったので気が重かった。
そういった彼女の気持ちを汲んでゆっくりと走ってくれる程、世界は察しが良くない。道中、問題なくバスは進みよくよく見知った風景が近付いてくる。
「次は魔術院南口、魔術院南口。学部に御用の方はこちらでお降りください」
アナウンスが聞こえ停車ボタンに指を沿わせ少しの間待つが、他に誰か降りようという者はいないらしい。仕方なくボタンを押し込むが何も反応しない。分かりきっていたことではあるが肩が重くなる。仕方ないと立ち上がり運転席の横に来ると「次で降ります」と告げた。
「お客さん、停車ボタンを押せば止まりますよ」
バスの運転には運転手の魔力がつかわれているが、停車ボタンには乗客の魔力を要求する仕様だった。運転手の魔力で賄われている型も多いがこのバスは運転手の負担を少しでも減らそうという型らしい。実に地道な削減努力であるが、運転手に実感があるかどうかは怪しいところなので次に開発される新型車両には適用されるかどうか。これもまた怪しいものである。
現場はともかく技術的な問題の観点からどちらの方がより工場の生産性が上がるのかーーという話もないではないが、まあいずれにせよキーアにとっては関係のない話だ。
彼女は秘密をそっと打ち明けるように小さな声で言った。
「私、魔力を全然精製出来ないので」
少し恥ずかしそうに口にすると運転手はハッとしたように口を開いたが帽子の鍔を軽く掴み位置を調整してから改めて口を開いて謝罪した。
「これは失礼。次、止まります」
これである。余計な気を使わせた。それだけでキーアは気分が沈み込んでいくのを実感していた。
魔力を精製することが出来ないというのは、まあまあある話ではあるが、それは自分の意思ではほとんど精製出来ないという意味で、無意識的には微量の魔力を精製しているのが専らである。ところがキーアにはそういった微量の魔力すら精製出来ていない。
何故己はこうも他者と違うのか。レンレセルの生まれでないことも相まって、この疎外感はどうしたってどこまでもつきまとうもののようだった。