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アラタールが去ったキーアダンの元に近付く影があった。
「船渠長」
喉に張り付くような少し緊張した声で呼びかけるのはそんな感情を面持ちに表したケレブリアンである。
「来たか……船渠まで人払いはしてある……」
静まり返った聖殿に、老人の声が響く。骨張って硬く、しわだらけの手が差し出され金色に光る鈴が手渡される。
「これを持っていけ……魔力に反応してアークティーア中に音を響かせる……」
それは突入用の合図だった。そして円環派の所業を衆目に晒すためのものでもある。それを受け取り掻き抱くように胸元で握り締める。
「ありがとうございます。船渠長はヴィンギロトの試運転に立ち会わなくてよろしかったのですか?」
「……拙僧は一人にしてほしいと頼んでここに残った」
「……よろしかったのですか?」
御子の側にいなくても大丈夫なのか。心配じゃないのか、そういう意味を含んだ問に、ゆっくりとキーアダンの首が横に振られる。
「よくはない……だからそなたに頼んだ……」
老人の様子には当たり前に力強さがなく覇気を感じられない。それが老境に至り活力を失ったが故なのか心境がもたらすものなのかケレブリアンには分からない。
だが、船渠長という立場にあるキーアダンがこうした真似をすることは、彼の立場を著しく悪化させる恐れがあるのは間違いない。積み上げてきたものが大きく、高い場所にいればこそ比例して落下する時の被害は増す。
それでもこうした行為に打って出たその決断に容易ならざるものがあるのは当然だと思えた。
「……船渠長。私、これまで円環派の動向を報告してきました。その報告先は、船渠長だったのでは?」
キーアダンはそれには答えなかった。はいともいいえとも言わなかった。ただこぼすようにポツポツと話し始めた。
「……拙僧は円環派であり、方舟派でもある。船渠長として方舟の管理……ヴィンギロトの製作に携わる以上……円環派と無縁ではいられなかった……だが、拙僧はあの子らが生まれてきた時から知っており……その成長も見守ってきた……いずれ使い潰されるのを黙って見てはいられなかった……」
「あの子、アルウェンが夜な夜な外に出ていたのは……」
「誰かがあの子らの真実を知り……立ち上がることを期待していた……」
それは、キーアダンが自分では動けないために代わりに動ける誰かを見繕っていたということでもある。方舟派からの報告を受け取ることで誰に信用が置けるかどうかを探っていたのだろう。
「それは……あまりにも」
胡乱なやり方ではないか。そう思い、口にするのを躊躇っているとキーアダンはいかにも然りと頷いた。
「その通り……卑劣漢のやり口そのもの……」
キーアダンの声は自虐的である。ケレブリアンとしてはそうまで思わなかったが、老人がその凪いだ海のような静かな仮面の下に隠し持っていた暴れまわりたくなるような情動を理解できなくはなかった。
「……ですが、船渠長はあの子を守るためにこうされたのでしょう?」
老人が目を伏せる。
「慚愧に堪えない話ではある……拙僧はこの聖地にあって……世界に何も触れては来なかった……何も知らぬまま生きてきた愚かしさの報いが今なのだ……」
老人の悔恨は高く高く堆く積み上げられてきた人生という歴史が崩れ去った時に生まれたものだった。己の視点が遠い未来を見据えているようで結局は遠景を眺めているにすぎないと知ったからだ。崩れ去った足元に転んでいた他愛の無い何かが触れ得る場所にある時、これを大事にしないという事が出来なかった。
どれだけ高い場所にいて、遠くを眺めていてもそこに手を伸ばしたところで届くわけもない。五感で世界を生きていなかった。誰かの体温も悲鳴も流される血の匂いさえ見逃してきていた。その罪深さに恥じ入っていた。
それをケレブリアンは理解していた。
「多分、それは私も同じです。何も考えず生きてきました。それでも私の中にある私が正しいと思える基準があって、私はそれに従おうと思います。そういう生き方を、私は教えてもらいました」
エオメルの顔が脳裏に浮かぶ。少年のあどけなさと善性が眩しい。これを曇らせるようなことがあってはならない。
「そうか……責任は拙僧が持つ……だから」
キーアダンの言葉を待たず、ケレブリアンは首を横に振った。
「いえ、自分の行動の結果は自分で受け止めます。誰かのせいにしたくありません。そうでなければ、自分の正しさを信じられません」
「……そうか」
目を伏せって老人が黙り込む。
「それじゃあ、行きます」
「……頼む」
「はい」
頷き、振り向きもせず走り出す。その背中を見送って頼りない体を反転させると、そこに一人の少年がいた。エオメルだった。
ケレブリアンは走っていた。そうする理由が明確で、迸る感情が動く足をどこまでもどこまでも躍動させている。
自分を誤魔化さずに進み続けられる時間は悩みなんてなくて軽やかだった。この先に待ち受ける自分の未来がどうあれ正しいことをしているという意識は全身に力を漲らせる。
無力な子供を助けるという使命感と共に無人の聖殿を抜けて豪奢な扉の前に立つ。本来なら工房でしかない船渠へと続くそれは流麗な細工を施され金銀の装飾で彩られている。その扉に手をかけ、開く。
広大な空間がそこにある。その巨大な空洞に鋼鉄の方舟が鎮座する。見るものを圧倒する質量による威容を以てこの場所の支配者が誰なのかを無言で知らしめているようであった。
思わず息を呑む。オリジナルたる方舟を見たその時よりも気圧されていた。
「これが……ヴィンギロト……」
神ならざる人間どもが作り上げた偽りの方舟。
天弧に至る偉業。大いなる魔を屠る水沫の泡。
おびただしい骸の上に成り立つ柩。
その周辺にいたはずの研究者たちの姿はない。代わりに先程までキャットウォークにいたアラタールを始めとした面々がそこにいた。
その視線が突然の闖入者であるケレブリアンに向けられる。
「……聖歌隊のケレブリアン。何故ここにいる。神殿には立ち入れないようにしていたはずだが」
アラタールの声には動揺が見え隠れしていた。努めて冷静さを保とうとしてはいたが予定外の出来事に少なからず慌てている。
「猊下。ヴィンギロトの試運転を中止していただけますか」
「……何故、そんな事をそなたに指図されねばならない」
「猊下。ヴィンギロトの試運転には犠牲が必要であると聞き及んでおります。これは神の意志に反した行いではありませんか」
「……御子の事を言っているのならそれは間違いだ。神は円環教典において聖鈴騎士の誕生を人自らの手で執り行うことを指示しておられる」
その言葉に奥歯を噛み締める。ケレブリアンの失望はそこにこそあった。人の喜び、生命の素晴らしさ、人倫を説く神の教えに親なき子を作るという矛盾を孕んでいること。
これまでの信仰が根底から覆されたような衝撃と裏切られたという意識がケレブリアンを揺さぶった。
ケレブリアンの人格や善性は神の存在、ひいては信仰によって形成されていた。それを否定されたためにこれまでの人生さえ無意味になりかけた。
しかし、それでも自分が普遍的に正しいと感じるものはあって、その倫理観に従うことこそ彼女の新たな精神的支柱であった。
もはや、これを裏切ることは許されない。自分で自分を裏切るわけにはいかない。そのためにヴィンギロトのような非人道的な行いを見過ごすわけにはいかない。
そのためならば、弁を弄する事ぐらいはやってみせねばならない。
「御子の事ではありません。精霊の事です。猊下、そちらの組合の方々から精霊を譲り受けましたね?」
アラタールから視線をずらす。そこにいるのはガトーを始めとしてクロス、マギの組合に属する者たちだった。
しかし、黒の姿はない。
「……精霊がどこにいるというのだ?」
「猊下。私は聖歌隊です。彼にも歌の影響は及んでおります」
聖歌隊の聖歌はアークティーアにおいて聞かせた者がどこにいるかを把握するためのものである。組合の面子は黒も含めて聞いている。
黒の反応はヴィンギロトの中にあった。
「……そうか」
やけに重たいため息がアラタールの口から漏れ出た。
観念したように肩をすくめると視線をガトーに送る。
「すまんが予定が変わった。ヴィンギロトの試運転は中止とする」
「おいおい。いくらなんでもそりゃないだろ。アンタ教導なんだろ?教会で一番偉いんだろ?なんだってヒラの信徒一人に見つかってこれまでチマチマチマチマ進めてきた計画を止めなきゃならねえんだよ」
「教会には教会のルールがある。これを外れてはならない」
頑として譲らない声だった。政治闘争を経て数多の競争相手を蹴り落としてきたガトーにはその潔さが理解出来ず、乱暴に頭をかきむしる。
しかし、頭が熱くなるようなことはない。むしろその思考はどこまでもクリアで遠い先々にまで及んでいた。
予定が変わったとアラタールは言った。だが、ガトーにとってはそうではなかった。想定の範囲内、修正可能な範疇でしかない。
懐に手を入れる。
「グチャグチャグチャグチャグチャグチャうるっせえなあ!こんなもん、こうすりゃ済む話だろうが!」
魔力弾が飛びケレブリアンの胸部を強かに打ち付けた。身体が吹き飛び地面に倒れ伏した。口元から血が泡立つように吹き出してその目から光が失われ力なく首を横向けると息絶えた。
アラタールが絶句していた。
クロスが言葉をなくしていた。
そしてガトーが懐に手を入れたまま立ち尽くしていた。
「へっ……」
嘲笑うように声を漏らすのはマギだった。その手に杖が握られ一線を引いた後だった。
ケレブリアンは死んだ。マギという男の浅慮によって殺された。




