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「お疲れ様です!」
日が沈み点々と灯る燭台の灯りが夜闇の影を溶かす大聖堂の廊下に場違いな程にハキハキとした少年の声が響いた。
「エオメル君もお疲れ様です。でもちょっと声は抑えようね。ソット・ヴォーチェ、ソット・ヴォーチェでね」
ケレブリアンが苦笑混じりに返答すると、少年、エオメルはしまったといった風情で未だ幼さの残る口元に手をやった。
なにはともあれ立ち話をしていることもない。二人揃って歩き出す。燭台の火が作る明かりが二人の影を硬い石造りの床に落としている。伸び縮みする影法師は背伸びをするように遠くへ行ったかと思えば寄り添うように近づき、また遠ざかる。しかし決して離れることはなく二人を追っている。
「最近はお忙しいですね」
先程に比べたら控えめな声量でエオメルがにへらと溶けた砂糖菓子のような笑顔を浮かべながら言う。その表情が愛らしく、自然とケレブリアンの頬も緩んだ。
「そうね、お客さんが多いから」
「魔術院とか組合の人たちですよね、喧嘩したりしないんですかね?仲悪いって聞いてますよ?」
「そうは言っても皆、大人だから我慢するんじゃないかしら。それに、一口に魔術院とか組合って言っても派閥争いとかしてるみたいだし」
「へえ、そういうの他所でもあるんですか。教会が特別じゃないんですね」
あどけなく無邪気に言うが、色々と公に口走るには際どい発言である。教会には円環教典を至上命題とし神の使命を果たさんとする派閥と方舟教典を至上命題とし人として正しい振る舞いを心掛ける二つの派閥がある。
その二つの派閥は表面上争ってはいない。だが少なくとも互いに隔意はあり、円環派は方舟派の不信心振りに不満を持ち、方舟派は円環派の不信心振りに不満を持っていた。
どういう事かと言えば、円環教典も方舟教典もどちらも神より賜りし言葉であり教えである。しかしながらこの二つには相容れない部分がある。円環教典は人が成すべき使命を示し、方舟教典は人が在るべき姿勢を示す。使命を果たすために人の尊厳を踏み躙る事も止むを得ないと考えるのが円環派であり、人として正しく在るために使命もまたそのように執り行うべしと考えるのが方舟派である。
使命か姿勢か。どちらを優先して考えるかの違いこそ派閥の違いとなっている。
一般信徒は具体的にどちらの派閥ということもなく潜在的なものでしかないが、ある程度以上の地位を得るとこれがスタンスとして顕在化してくる。例えば教会における最高権力者、現在の教導であるアラタールは円環派の立場を取っていた。
教導とは名前の指し示す通り信徒を教え導く者の事であるから教会全体を通してその考えが主流となっていて、現在の教会では円環派の方に勢いがある。
とはいえ、それでは方舟派が蔑ろにされているのかと言えばそれは違う。どちらも同様にして重要な教えであり、軽んじることは許されないからだ。現状は使命のために信徒は時に倫理を歪める選択を必要としている。暗黙の了解としてそれがまかり通っている。しかしそれも度が過ぎれば話は別で、使命のためならば全てが許されるとは誰も思っていないという状態だった。
であればこそ、二つの派閥は手に手を取り合ってというわけにも行かないし、一方を隅に追いやる真似も出来ずある程度のラインで拮抗していた。互いが互いに相手の価値を認めているからこそ派閥争いは少なからずあるのだった。
派閥に関する話は必要に差し迫られなければアークティーアでは誰もしない。気軽に話題に出すにはデリケートな部分があるからだ。
そういった事をやんわりと伝えるとエオメルは納得したように大いに頷いた。
「成程、通りでこの手の話を皆嫌がるわけですね」
既に手遅れだったらしいことに天を仰ぎそうになった。が、それは踏みとどまった。
「信仰に関して激論を交わすのは悪いことじゃないと思うけど、時と場所を選んだほうがいいと思うかな」
「ああ……知ってます。TPOって標語ですよね。森で習いました、バッチリです」
元気よく手を上げながら嘯く。しかしながらその発言の中に出てきた森という言葉にこそケレブリアンが反応した。
「森……鈴の森よね」
「そうです。ずっと西の方ですね、自然豊かで美しい場所ですよ」
鈴の森、鈴の結界とも呼ばれる土地。聖鈴騎士が生まれ育ち、いつか旅立つ場所。
噂は伝え聞くばかりだが、こんな少年が第三段階霊素獣と戦えるようになるというのだから、その教育内容は推して測るしかないにしろ過酷なものには違いなかろう。
そうであるというだけで、ケレブリアンの内心に染み込むように愉快でない感情が生まれる。子供の人生を大人が勝手に決めつけ、それに耐えうるだけの訓練さえも施す。その身勝手に腹立たしさを覚え、では自分に有効な代案を出せるのかと言われたらそれは難しい。
必要に差し迫られ人倫に反した行いを許容している。不快感を感じながらどうしようも出来ず反感を覚えつつも面と向かって批判することも出来ない。そのどうしようもなさに不快感を覚えずにはいられなかった。
「ケレブリアンさん?何だか怖い顔してますよ?僕は気に障ることでもしましたか?」
少年の声に我に返るとエオメルが覗き込むように顔を近づけていた。その顔には心配そうな表情が張り付いていた。
「あ、ご、ごめんなさい。エオメル君みたいな若い子も聖鈴騎士をやっているんだから偉いなって考えてたの。そしたら私は情けないなって思って」
ケレブリアンはそう言って誤魔化した。嘘は言っていない。
「そんなことはないでしょう、聖歌隊は選ばれた一握りの人しかなれないって聞くし、ケレブリアンさんはその中でも歌、お上手じゃないですか」
「……それは確かにそうなんだけど」
謙遜するかどうか一瞬迷ったが、しなかった。全てが事実であり、自分が謙遜すれば他の聖歌隊の面子を貶めることにも繋がると思ったからだ。
ケレブリアンの技量は聖歌隊の中でも一つ頭抜きん出ていた。そのためにリードボーカルを務め隊のまとめ役も担っている。
才能があり、努力もした。その積み重ねはケレブリアンにとって間違いなく自身を構成する主要素になっている。それを安易に否定することはしたくないというのも根底にはあった。
「最近は若い子が凄いなって思うのよ。エオメル君は勿論、聖歌隊にも将来有望な子はいるし、この間だって魔術院からエオメル君よりは年上そうだったけど研究者の子が来てたしね」
少し前に迎え入れた魔術院からの来訪者二人と一匹を思い出す。黒いコートを着た二十歳にならない程度の少年と四十路を超えたであろう風貌の中年男性の二人組に何故か銀色の体毛をしたウサギという不思議な組み合わせ。
「ああ、見ました。何だか凄い細くて弱々しく見えましたけど、黒いコートを着た青い髪の人ですよね?」
「そうそう。あの若さで何だか随分有名な研究者らしいんだけど」
詳しく聞いた話ではないが、そういった内容の会話を小耳に挟んでいた。件の少年、カウツの来訪は結構な話題になったからだ。来る前からも、来た後にも。
それがどれほど凄いことなのかはケレブリアンには理解出来なかったが、何やらとんでもないことになってきたというのは雰囲気で察することが出来ていた。
しかし、アークティーアに赴任して間もないエオメルにはその空気の変化に勘付く事はなかったのか小首をかしげていた。
「そうなんですか?でも、あの人は本職は研究者じゃなくて戦闘員だと思いますよ」
「……そうなの?」
思わず驚き足を止めそうになる。エオメルは頷き話を続けた。
「ええ、魔術院のコートの色は所属を表していて黒いコートは戦団っていう僕達聖鈴騎士みたいな集団の所属らしいですね」
「人は見かけによらないね……」
思い出してみてもカウツは華奢な体をしていた。女性である自分よりも細かったかもしれないとケレブリアンはくびれた腰に手を当てた。とても戦いに出るような人間には思えなかった。
「魔術師は魔術を使って戦闘しますから、僕達聖鈴騎士よりも体を鍛える必要ないのかもしれません。僕達はあれ程細くっちゃあやっていけませんけど」
そう言ってエオメルは袖をまくって筋肉質な腕を折り曲げて力こぶを作ってみせた。
「筋肉凄いね。頼もしいわ」
「はい、いざという時にはこの体でケレブリアンさんを守ってみせますよ」
にへらと笑って少年は宣言した。




