500円の彼女①
僕が初めて描いた作品です。他のところに載せていたのですがこちらにも掲載します。三部作になっています。
水たまりに映る夜空は、星一つ見えない曇り空だった。5月に入りもうすぐ初夏だというが、深夜に吹く風はそんな季節の都合なんて気にしていない。僕はまくっていたワイシャツの袖を下ろす。
「今日は寒いね」
言いかけた言葉をとっさに飲み込む。今日は話す相手なんていないことを思い出す。いつもなら茜ちゃんを家まで送り届けるはずなのに。今日だってその予定だった。僕はスマホを開いて通知を確認する。新規通知3件。
「母:晩御飯は冷蔵庫」
「大学:ゴールデンウィーク明けの授業日程についてのお知らせ」
「拓也の女:スタンプが送信されました」
一括消去で通知をなくす。
茜ちゃんから「なにかあったの?」なんてラインをしてきてほしい訳じゃない。ただ、いつも一緒に帰っているのだから少しくらい違和感を感じてくれてもいいじゃないか。いつもは僕と一緒に帰る帰り道を、今日は一人で帰る。寂しくなるでしょ、普通。「やっぱり一緒に帰ろうよ」ってラインしたくなるでしょ。茜ちゃんのトーク欄を開く。バイト前に押されたスタンプで会話は途切れていた。
「もう帰っちゃった?」
送信ボタンを押そうとしてやっぱりやめた。今日はそこから会話を続けられる気がしなかった。
完全に油断していた。拓也先輩には彼女がいるから大丈夫だろって謎の安心感を抱いていた。シフト交代時の二人のやり取りが今も頭の中で再生される。僕が1年間やり取りしても見せなかった表情を茜ちゃんはしていた。ずっとラインを続けていたのだろう、二人の会話の話題はどれも僕の知らないものばかりだった。
同じ空間に自分の彼女がいるのに、拓也先輩はそんなのお構いなしといった様子で茜ちゃんと二人の空間を作り上げていた。
お前の居場所はない。
言葉にせずともはっきりと僕に宣告していた。僕はシャツも着替えないまま、コンビニにのユニフォームだけ脱ぎ去り、さっさと帰ることにした。茜ちゃんはまだ拓也先輩と話していた。先輩は僕を見てにやっと笑った。いつもの、僕を小ばかにした嫌な笑い方だ。その悪魔のような笑みを茜ちゃんにも見せてみろよ。帰ろうとする僕に、先輩の彼女が呼び止めようとしていたが無視した。あいつとだけは話さないと決めていた。
十字路をまっすぐ進む。左手に3階建てのアパートが見える。ぽつんと置いてあるコカ・コーラの自動販売機の前で立ち止まる。のどが渇いた。コーラを買おうとして、かばんの中に財布がないことに気づく。きっと置き忘れてしまったのだろう。取りに戻る気にはなれなかった。明日の朝でも間に合うのに、わざわざ今戻るべき理由はない。もしかしたら茜ちゃんがまだいるかもしれない。浮かんできた考えに対して首を振る。もうバイトが終わって20分も経っていたらさすがに帰っているだろう。それに、もし帰っていなかったとしても、そこでは見たくもない風景が広がっているだけだ。
僕は自動販売機を思い切り蹴飛ばしてみた。自動販売機はゴッという鈍い音を響かせた。負けじと僕もクソッと鈍い声をあげてみる。僕の声はたいして響くことはなかった。
僕が最初に目をつけていたんだ。まだ茜ちゃんが大学に入学したての、垢ぬけない頃からちょっとかわいいと思っていた。後輩としてかわいがっていたのは僕だ。髪を茶色に染めたのを最初に気づいたのも僕のはずだ。あいつには入る余地なんてなかったはずなのに。拓也先輩は僕の欲しいものは何でも奪ってみせたいんだ。茜ちゃんが入ってきて間もない頃は、僕の彼女を寝取ったことに優越感を覚えていた。茜ちゃんの事などまるで気にしていなかった。なのに、なのに、僕が茜ちゃんと仲良くなりだすと今度はそっちに手を出した。あの人は女が好きなんかじゃない。僕のものを奪うことが好きなんだ。
僕は、スマホケースの中に保険用の500円玉を入れていたことを思い出す。ポケットからスマホを取り出し、ケースを何度か振ってみるが、硬貨は出てこない。――ああ、そうだった。
今日来た厄介な客の事を思い出す。どうやら今日の運勢は最悪のようだ。ちゃんと占いを見てきておくべきだった。僕は自動販売機を離れ、また肌寒い夜道を歩み始める。スマホは相変わらず通知音を鳴らさない。聞こえる音は足音だけだ。
突き当りにある、赤い屋根の家を右に曲がる。この道をまっすぐ進むと公園がある。水道とブランコとベンチ、それから子どもが三人ほどは入れるほどの小さい砂場が置いてある普通の公園だ。小学生の頃はよく遊んでいたが、最近はめったに来ることもなくなった。水が飲みたかった。それに、このまま家に帰るのも嫌だったので少し公園で休憩することにした。
公園につくと僕はハッと息をのむ。先客がベンチに座っている。30代くらいの男性。見覚えのある紺のスーツを着ている。やっぱり、さっき来た客だ。
それは勤務終了5分前に起こった事件だった。
「全部500円玉に両替してください」
バイト交代間際に突然やって来たこの男は、一直線にレジに向かい、このメモ書きと1万円札を押し付けてきた。パソコンで打ち込まれた文字からは何の感情も読み取れなかった。きっといろんな店で同じように頼んでいるのだろう。
「すみません。当店ではそのような両替は受け付けておりません」
僕はなるべく丁寧に対応した。男は何も言わなかった。ただじっと僕を見つめて、その場から決して動こうとしなかった。身長は185センチくらいあるだろうか、男はじっと僕の事を見降ろし続けた。
一切表情を変えない男を見つめるとなぜだか恐ろしく感じた。逆らったら殺すと無言で訴えていた。結局、僕はレジを開いて500円玉を数え始めた。これ以上、この男と沈黙を保ちたくなかった。隣で茜ちゃんに見られていると思うと情けなくなった。自然とため息がこぼれ出た。1枚、2枚と袋に500円玉を袋に入れていく。しかし、500円玉は19枚しかなかった。1枚足りない。
「500円玉が1枚足りないので、残りは100円玉5枚で大丈夫ですか?」
男は無言で首を振った。
仕方ないので茜ちゃんのレジから500円をもらおうと思ったが、不幸にもそっちにも1枚も余っていなかった。深夜だし、きらしてしまう小銭が出てしまうことは仕方なかった。業者が朝にやって来るまで補充されることはない。その旨を男に説明しても、男は引き下がろうとしなかった。交代の時間になってしまった。茜ちゃんはさっと奥に引っ込んだ。
僕と男の沈黙の空間が再び作り出された。男はじっと僕の事を見つめて続けていた。けど、どうしようもなかった。僕も男を見上げ返した。集めた500円玉を男に投げつけてやりたかった。ポケットの中でスマホが鳴った。そこで、スマホケースに500円玉を予備で入れていたことを思い出した。集まった500円玉を袋に入れて男に渡した。(あの時に500円玉を使ってしまったんだ…。)
男は袋を受け取ると、礼も言わずに帰っていった。防犯用のカラーボールでも投げつけてやりたかった。
時計を見ると交代の時間を10分も過ぎていた。裏では、拓也先輩たちが僕のヘルプにも来ないで中で楽しそうにしていた。まさに地獄というべき時間だったのだ。
この男さえいなければ拓也先輩に好きにさせることもなかったはずなのに。男はベンチに座りながら何かをじっと見つめている。後ろにいる存在には気が付いていないようだ。男の手の中で小さく光るものがある。どうやらさっきの500円玉らしい。コレクターなのか。今日の収穫の喜びに浸っていたのだろうか。
僕は仕返しがしたくなった。せっかくのチャンスだ。今日一番の災厄を僕にもたらしたこの男に何かしてやりたい。僕だっていやな目にあったんだ、やり返す権利くらいあるはずだ。僕は公園に入り、まっすぐ水道へ向かった。足音はわざと大きく、そしてベンチのすぐ近くを歩いた。男はすぐに僕に気づいたようだ。男と目が合う。さっきの男で間違いない。男は持っていたものをかばんにしまい始める。ちゃんと焦ってくれているだろうか。その無表情な仮面をはがしてやる。
僕が水を飲んでいる間に、男はそそくさとベンチから立ち上がり、公園を去ろうとしていた。男の行方を確認する。公園を出て右に曲がった。男を少し焦らせることができたが、このままで終わらせるにはもったいない気がした。この公園にいたということは、家もきっとこの辺りにあるのだろう。僕を困らせたあの男が、どんなところに住んでいるのだろうか。ここまできたら知りたい。それに、これだけ面白そうなネタなら茜ちゃんにこっちからラインをするきっかけにもなる。会話も弾みそうだ。もちろん、これはあくまでおまけだ。
僕は男の跡をつけてみることにした。時刻は24時30分。生まれ住んだこの住宅街で、僕は人生初の尾行をする。
もともとの原文から、文章はそのまま改行の位置などを編集しました。編集前は読みづらすぎてはずかしくなりました。少しずついろいろな知識と共に活動しているのだなと実感します。