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 視界いっぱいの青い空と青い海。水平線に見える太陽は、さながら数直線の原点のよう。


 透明な波がザザーッ、と足首を濡らし、頬を撫でる海風が確かな潮の匂いで肺を満たし、耳の中を滞留する。


 耳元の貝殻からは小さな、もう一つの海が現れ、動き出し、目を閉じればふたつの海が曲を紡ぐ。



 ――ここは俺のもっとも落ち着く場所。



 せいぜい視覚と聴覚のVR技術では再現できない究極、明晰夢。

 誰にも邪魔されず、自由に、何だってできる場所。たかが1日のストレスなんて、この理想郷にいれば溶けるように消えていく。


「さてさて、今日は何をしよ「祐樹君」……!?」


 予想外の声。自らが創造神であるこの世界(明晰夢)において、だ。

 振り向くと、まだ作られていない後ろの世界でポツンとひとり、白衣を着た初老の男。

 男は、そのふくよかな頬にエクボを作り、目を細めた


「いやぁ、明晰夢へのアクセスは恐ろしく難しいものだ。たぶん、あれらには無理な芸当だね」


 ハンカチで額をぬぐいながら、ブツブツと呟く。


「何であなたがここに、いったいどうやって?」

「何でかっていうと必要なことだからね」

「必要…?」

「そう、それに危害を加える気もない……だから、そういう危なっかしいもの向けないで」


 俺は手元では物理法則ガン無視粒子砲(仮)が創りあがっていた。


「それで?」

「うーん、大した目的もないんだけど、強いて言うなら……」

「……!?」


 男はポケットから何かを取り出しこちらに投げた。

 何かは閃光玉のように一瞬で辺りを包む。

 足元に転がる貝殻は砂のように崩れ、海は干上がり、世界が消えていく。



「……強いて言うなら、目を覚ますためかな」



 消え行く世界にすでに男の姿は無かった。




 ####




 最大限に開かれる瞼。頬をつたる汗。浮上する意識。

 目の前は白い木目調の天井。別になんてことはない俺の部屋。


 ふと、目を拭うようにして横を向く。

 寝心地が悪かったんだろうか、寝起きの悪いあの結衣菜がいない。


「変な夢なんて見るもんじゃないな」


 寝汗のせいで、生温かくまとわりつく毛布を退け、トップレスのまま、あぐらをかく。


「おーい、結衣菜。起きたよー」


 なんの反応もない。

 結衣菜と付き合って何年も経つのに、俺より早く起きたところを一度たりとも見たことない、一度たりとも、だ。


 カチカチと進む時計の針がベッタリくっついたズボンの寝汗を冷や汗に変えていく。


 ――まさか、もう帰っちゃった?


 ……いや待て……ドッキリか? どこかに隠れて、焦っている俺をおどかす、みたいな。

 単純さというか安直さ加減がなんとも結衣菜の考えそうなことだ。

 ハロウィンの衣装でも着て、ジャーン! とか嬉々としてやりそうだしな。


「今日のところは騙されてやりますか」

「ゆー君」

「ふぁいっ!?」


 後ろから聞こえる結衣菜の猫なで声。思いがけず声が上擦り、背筋が伸び、肩がすくむ。


「いやっ、今のは誤解だったん…ってどうした!?」


 そこには、壁際を陣取り、クマの抱き枕を抱きしめ、延長コードでグルグル巻きにされている結衣菜。

 半開きの口からよだれがこぼれ、ゆるいウェーブの髪の毛が入り込んでいる。


「……んにゃむにゃ」


 ——まだ寝てたのかよ!


 冬なのに下着で床に寝たら風邪引くよっ!?


 結衣菜に風邪を引かせた日には、あの親バカに何されるかわからんぞ。

 何はともあれ防寒だ、防寒。ええと、毛布をかけよう。頼むから風邪を引かないでくれよ。


「そういえば、前にもこんなことあったな」


 布団に包まれ、今だに起きない結衣菜を尻目に、昔のことを思い出した。



 たしか、結衣菜に正式に告った次の日だったな。さらにいえば二人とも家族以外の異性と初めて一緒に寝た次の日だ。

 でも本当に驚いた。朝起きてみたら、抱き枕を抱えたままヨガみたいなポーズのまま、寝てるもんだから。

 一日中笑って、からかい続けて、結衣菜に引っ叩かれたんだったな。

 ……そういえば、クマの抱き枕もあの時にプレゼントしたのをまだ使ってるのか。


 もう何年も前になるのか……

 長く使ってくれるのは嬉しいけど、クマももう替え時だな。



 ——ギギギッ


 結衣菜の方からなにかの軋む音がする。


 振り返って見ると音の正体はクマの抱き枕。

 結衣菜に首のあたりを締め上げられ、物理的に悲鳴をあげている。


「え、ちょっと結衣菜さんや、そのままいくとクマさんがむごい死に方するよ!?」

「ふへへ…」


 声をかけても結衣菜は全く起きる気配がしないので、直接抱き枕の救出を試みる。


「結衣菜笑ってる場合じゃ……クッソ、どんだけ力入れてるんだよ」


 抱き枕はガッチリとロックされていて、腕を解くどころか動かすこともできない。

 そうこうしているうちに締め上げにひねりが加わり、抱き枕の軋む音がより大きくなる。

 もう、いつ生地の限界を超えてもおかしくない。


「結衣菜、起きてくれ。抱き枕が破れる。ゆ、い、なっ」

「へへへっ」


 そして、ついに悲劇が起こった。


 ――ブチッ


「プゥゥさぁぁん」


 悲痛の叫びは四つ隣の部屋まで響いた。




 ####




 その後、やっと起きた結衣菜が部屋の惨状に驚く中、事の次第を説明。


「ごめんねっ、ゆー君……その、あの、壊しちゃって」


 顔を真っ青にして、あたふたとしては平謝りを繰り返す。


「気にしてないよ。また買えばいいから」


 全く気にしてない。腕力で負けたことなんてなーんにも気にしてない。


「で、でも、せっかくゆー君がプレゼントしてくれた物だし、それに何度も起こされたのに起きなかった私が悪いよ」

「大丈夫だよ。もう古いから買おうって言うつもりだったから」

「でも…」

「大丈夫だって。ほら、今日通院の日でしょ? ちょうどいいからその帰りに買ってこう」

「……うん」




 ####




 家から車で三十分ほどのところにあるF市総合病院。

 結衣菜はそこの脳神経内科に通院している。


 どのような病気かは、俺はおろか結衣菜すらよくわかってない。

 ただ、日常生活に支障は出ないが治療の難しい病気であるらしい。

 その診察を行うのがここの院長であり、結衣菜のお父さんである、宮間武雄先生。なんでも界隈で有名な先生らしい。


 結衣菜が彼氏として紹介してもう何年も経つが何度か話したことがあるが優しいおじさんといった感じ。この間も缶コーヒーくれたし。


 ただ、結衣菜への愛が重い、とにかく重い、親バカ。そして、俺の夢に入ってきた人物。

 今日の診察で何かあるかもしれない、あっちの世界のようにできることは無いが、気を引き締めていこう。




 ####




「結衣菜はパン派? ご飯派?」

「たぶんご飯派」

「そうなんだ!」


 いつも思っていることだが、結衣菜に行われる診察は本当に謎だ。

 宮間先生はどこを見るでもなく、ただただ無意味に思える質問をたくさんする。

 挙げ句の果てには、俺に質問が振られるくらいだ。


「よし、今日はこれでおしまい。祐樹君も付き添いありがとう」


「あ、はい。僕にできることはこれくらいなので、お役に立てて光栄です」


「ははっ、そんなにカタイこと言わなくていいのに」


 リーマンが病院のお偉いさんにタメ口で喋れるわけないじゃん。


「ああ、そうだ。祐樹君に話したいことがあるから少し残ってくれ。結衣菜は外で待っててくれ、男同士のお話だからね」


「……わかりました」

「わかった」


 ――ついに来たか


 結衣菜が外に出ると宮間先生は、そこにかけて、と俺を促す。

 座る瞬間もまばたきひとつせず、宮間先生から視線を離さない。


「さて、祐樹君…」


 鼓動が速まり、体温が上がっていくのが自分でもよくわかる。


 宮間先生は立ち上がり、後ろの窓の外に寄りかかった。ビルの陰に、午前のまだ青く、冷たさを残した街を背にこちらを向き、そして語り出した。


「結衣菜は病気ではないんだ」

「えっ?」


 予想外の内容に疑問がこぼれた。


「別に、私は結衣菜に会いたいがため、虚偽の病気を宣告するような親バカではない。それに、このでっち上げはどうしても必要なことなんだ」


 真剣な話だが、と宮間先生が声のトーンがひとつ下がった。


「祐樹君。君は神様はいると思うかい?」

「……えっ?」

「なにも大した事じゃない。言葉通りだよ」


 さっきの話に、ましてや今日の夢の話にまるで掠りもしない。話が飛躍し過ぎて全く入ってこない。



 ――もしかして、杞憂だったのか?

 ――宮間先生が夢に居たことは偶然だったのか?

 ――ここまで肩肘張っている必要無かったのか?


 そうか! そうか! そうなのか!

 何でも無いのか、杞憂なんだ!


 押し寄せる安堵と喜びで頭がいっぱいだ。


「どうでしょうっ、もしかしたらいるかもしれませんっ」


 今にも綻びそうな拙い口先で答える。


 宮間先生は、そうかい…と素っ気なく返す。


「答えてくれてありがとう」

「はい、それじゃあそろそろ失礼します」

「そうだね、結衣菜を待たせちゃってるしね」


 席を立ち、若干浮き足立ってドアに向かう。スライドして開け、外に出た。


「ああ、そうだ、祐樹君。今夜はちゃんと話したいことがあるから……」


 用件は何か、と閉まりかけのドアを開けようと取っ手に手を向ける。


「……今夜はちゃんと寝てね」


 向けた手は目標を失い、ドアはカタリと静かに、重く閉ざされた。

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