語るdishと不思議なrestaurant
「食べないの?」
男の声がした。四賀谷圭子ははっとして、テーブルの上にある洋風定食に視線を落とす。
白い大皿の上に、ニンジンの混じったキャベツの千切りと、ハート形のブロッコリースプラウトが散らされていた。その脇には、深緑のヘタを被ったプチトマトが三つと、くし切りのレモン。
「早く食べないと、冷めてしまうよ」
また声がした。圭子はメインデッシュをじっと見る。手付かずを主張するように並ぶ、カキフライが四つ。砕いた卵と大粒の玉ねぎを含んだタルタルソースが、フライの整列に沿って、太い線を引いている。
圭子は生唾を飲み込む。食欲もあったが、好奇心の方が勝って、声に問う。
「噂は本当なの?」
「噂って?」声が返る。
「このレストランでは、食べ物が喋るって」
「ああ。喋る一皿は苦手?」
「苦手というか……」
純粋に、驚いただけだ。
このレストランに寄ったのは、圭子の気まぐれだった。
S駅からバスで十五分。降りたバス停の目の前にある路地に入って、ランプの光が灯るところで立ち止まると、すぐ右にあるという。
“KATAHARA’s RESTRAUNT”
おそらくカタハラさんが経営しているのであろう。別世界から埋め込んだようなリーフグリーンの壁に、艶のある木目調のドア。過疎化した日本の裏通りには不釣り合いだ。
端的な情報のみを載せた看板の名は、インターネットの海には存在しない。
この町で育った者なら、そこは「魔法使いのレストラン」だと。幼少期に聞き齧るそうだ。
圭子はこの町の者ではない。社内の同僚たちの会話に耳をそばだてて、眉唾な神秘を知っただけである。
実家暮らしの圭子は普段、S駅よりもさらに下ったホームで降りて、専業主婦の母が作った夕食を食べに帰る。仕事で疲れた体に、栄養がある温かい料理が用意されていることは、ありがたい。
「(でも……)」
レストランの看板を眺めていると、バックの中でアラームが鳴った。ここに寄ろうと思い立ってから、『今日夕飯いらないから』と母にメールをしている。その返信だろう。
『飲み会? そういうことは前日に言いなさい! いつも予定は早く言えって言ってるのに、どうして守れないの? 勝手なことをして——』
母は機嫌が悪いらしい。長い文章は途中で頭に入らず、流し読んだ。
意識を今に戻し、圭子はナイフとフォークを手に取った。さくりとカキフライを半分に切り分けて、片割れをタルタルソースに絡め、口に運ぶ。
「……ん」
カキの熱さが舌を焼く。海のミルクと呼ばれる滑らな甘さと貝の苦味が、じゅわりと口の中に広がった。
火傷は避けたいが、磯の旨みは味わいたい。その葛藤に惑いながら、無意識に舌を動かした。
咀嚼する。カリカリとした衣、しゃりっとした玉ねぎ、それぞれの音がこめかみに響く。タルタルソースの少しだけ冷たいマヨネーズの味が、カキ汁の熱を和らげてくれる。
一口目をこくんと飲み込んで、皿に残されたもう半分をフォークで刺す。次は切り口に、タルタルソースを掬い上げるようにして、たっぷり乗せてみた。
「おいしい?」
男の声が問いかける。フォークの先にあるものを然るべき場所に運んでから、圭子は「うん」と、口を閉じて答えた。
「君はタルタルソース派?」
「うーん。気分次第? ケチャップもたぶんいける」
「ケチャップ?」男が不思議そうに聞く。
「ケチャップとカキフライ、すごく合うんだって。会社の人が言ってたの」
圭子はそう言って、ふと声を落とす。
「そういう邪道な食べ方、料理的にはダメ?」
「そんなことないよ。君の好きに楽しんで。調味料は、注文すれば持ってきてくれるよ」
料理の勧めに従い「すみません」と人を呼ぶと、
「はい、ただいまー!」
明るい少女のような声と共に、クラシックな黒いウェイトレスウェアを着た店員が現れた。
「ケチャップとソースはありますか?」
「はいありますよ! すぐお持ちしますね!」
有料で売れそうな笑顔で店員は頷き、そそくさと調味料を持ってきた。
「ライスとスープはおかわり自由ですから、お申し付けくださいね!」
愛想のいい店員はそう言って、厨房に戻っていく。その背中を見て、圭子は何処か、羨ましいような気持ちを抱いた。
メインディッシュの隣に置かれた、平皿に乗るライスに目を移す。フォークでひと掬い。口に含むとさっぱりとした米の甘みが、メインディッシュに染まった舌を白色に戻す。
スプーンに持ち替えて、琥珀色のスープも一口。コンソメの温かさが喉をくすぐる。圭子はほうと小さく息をつき、スケールの大きい幸福感のような、不思議な感覚に想いを馳せた。
“料理”とは、何のために存在するのだろう。調理された食事に究極の娯楽を見出す者もいれば、加工した食材を毒と称する者もいる。
人は食べ物を選ぶ。しかし食べ物は人を選ばない。
例え食す相手が極悪人でも、聖人でも。常に受け身で、食べられることを待っている。
それは彼らの、絶対的な優しさなのか。
「……カキフライ、大人になるまで食べたことなかったの」
圭子は料理に語る。
「カキは食中毒が怖いでしょ? だからお母さんは食べさせてくれなかった。揚げ物も、油が体に悪いからって。ほとんど食べたことない」
「……」
「憧れてたんだよね。こういうお店で、食べたい料理を食べること。ずっとお母さんの呪いに縛られてたから、外食するのも怖かったけど。今日は勇気を出してよかった」
秘密を持つこと。それを守ること。
それが圭子にとってどれほど難しいことなのか、わかってくれる人はいなかった。
気まぐれに靡かれてよかったと、圭子は料理の残り香を噛みしめる。自らが選んだ味は、特別に感じた。
「いつでもまたおいで。ここの一皿は、君のためにある」
圭子は「うん」と笑って、ケチャップ味のカキフライを口に運んだ。
####
「今日の売り上げは1200円ぼっちか。切ないわぁ」
客人が帰った後、黒いウェイトレスウェアの娘は小言を零しながら、回収した食器をシンクの中に置いた。
「お疲れ様。美栄の作った料理美味しいって、お客さん喜んでたよ」
客人と話していた男の声が慰めるような言葉をかけるが、美栄は「わかってない」と、食器をがしゃがしゃと乱暴に洗いながら鼻で笑う。
「飲食店は美味ければいいってもんじゃないの。この店はただでさえ辺鄙なところにあるわけだし。噂に踊らされて来ただけの人は、だいたい二度と来ないから!」
「そんなことない」
と、男の声が肩をすくめるようなため息をついた。
「ディナーとカウンセリングを求めて、ここを頼るお客さんはたくさんいるのに」
「ホストじゃないのよここは! 料理と話すために来られてどうすんのよ!? 客に長時間居座られたら、回転率悪くなるでしょ!?」
「別に、席が空かないほど人が来るわけじゃ、」
「席が何だって??」
美栄の気迫に押され、男の声は黙り込んだ。
「まず、この店を大っぴらに宣伝できないのはあんたがいるからだし。メディアの糞共にUMAだオカルトだって騒がれたら、経営どころじゃなくなるんだから」
美栄は洗い終わった皿の一枚をシンクから上げて、乾いた薄手の布巾で水滴を拭った。そして、それを厨房の奥に持って行き、奥の人影に声を飛ばす。
「百歩譲って、このディッシュプレートだけなら公の場で見られていい。声は、何故か録音できないし」
美栄の視線の先には、木製の古い椅子に腰掛ける男がいた。長身痩躯。枯草色のチノパンに、灰色のワイシャツを着ている。しかし、その首より上には、頭がない。
「けど、メイン。その体を客に見られたら、言い逃れできないんだからね」
美栄がその首の頂に皿を立て掛けると、男の体は息を吹き返したように、すくりと立ち上がった。
「俺はこの店が繁盛して欲しいと思ってないよ。誰かの心の拠り所となってくれれば、それでいい」
メインと呼ばれた男は、美栄を見下ろすように皿の顔を傾ける。
「あんたの考えは詭弁よ。店っていうのはね、利益が出なければ……」
「美栄は自分の料理だけじゃ力が足りないって思ってる。だから俺を使うんじゃないの?」
美栄は言葉をつまらせた。きっ、と鋭い目で、メインの白い面を睨む。
「そうやってあんたは、人の中に土足で踏み込もうとする」
「人に寄り添うためだよ。だから俺は、君の料理を演じている」
「……。ああ、そう」
美栄は、何処か自虐的に笑った。
「私の料理には心が足りてないって言いたいわけね?」
「そういう意味じゃ……」
「守銭奴の作った飯なんか、人の口に合わないって?」
美栄は三度何か言おうとしたが、言葉を喉の奥に押し戻し、深呼吸をした。ゆっくりと息を吐いてから、静かな声を紡ぐ。
「……この店の名誉のために、あんたのことは守る。けど私は、ここの経営を任された身として、やれるところまでやるだけなの」
「……」
「だから、変な期待はしないでよね」
美栄はメインに背を向けて、残りの喋らない食器を片付け始めた。皿男は何を言うべきかわからないというようにしばし沈黙し、蛇口から落ちる水音にそっと声を混ぜた。
「誰かのために。俺は料理を演じたい」
独り言のように、呼びかける。
「……俺は、美栄の力になりたいんだ」




