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前向き聖女は異世界を謳歌する

「……今、なんと仰いましたか? 婚約を破棄したい、と?」


 聖女ニーア・ヴァレンは顔がひきつった。

 体温がどくんと上がったのも気のせいではない。


 アステリア王国の宮殿でニーアを呼び出したのはマーレ第一王子だ。

 そこそこ格好良いのは認めるが、あまり気乗りのしない結婚相手であった。世界中を聖女として駆け回ってきたニーアからすれば、横柄で子どもっぽいのだ。


 他ならないアステリア国王の懇願もあって、この婚約を受け入れたのだが……。

 渋々とはいえ、ニーアがアステリア王国の平民出身であることを考えれば、王子との婚約は十分な夢物語だったろう。

 この瞬間までは。


「まぁ、そういうことだな。やはり平民出を第一王妃にするのは反対が多い。まずは、このセレス公爵嬢との結婚をとり行う。安心してくれ、そなたとの結婚はちゃんと後でとり行うから」


 その説明で納得できる人間はいるのだろうか?

 別の人間と先に挙式してから結婚してあげるよ、なんて。ニーアの認識ではそれは最悪の所業であった。


 こめかみを押さえるニーアには気にも留めず、マーレの隣にいた金髪の令嬢がしずしずと頭を下げてくる。その美しさはまず、宮殿で見かける女性の中でも抜きん出ているだろう。年齢は二十には届いてないくらいか。


 ニーアは今年、二十七歳になる。心がささくれだつのを自覚しないわけにはいかなかった。世間的にはとっくに子供がいる年齢なのだ。

 二十三歳になるマーレとセレスは、傍目にはきっとお似合いだろう。


「殿下は私と結婚したくないのですか? そうであれば、身を引きますが」


 普段よりも数段低い声でニーアが応じる。

 国を盛り立てるためにマーレと結婚してくれ。ついこの間のアステリア国王ゼルアーノの台詞が脳裏に浮かぶ。そうだ、結婚話を持ってきたのはアステリア王国からだと思ったのだが。


 しかしマーレはなんでもないかのように軽く肩をすくめて、


「そうは言っておらぬ。何人かの大臣からそなたの年齢が心配だと言われてな。父君が強く推すから婚約したのではあるが――ええと、そなたは今年で二十九歳だったか?」

「二十七です、殿下」

「まぁ……そう違いはございませんわ」


 セレスがくすくすと微笑み、マーレもそれを咎めることはなかった。

 言うに事欠いてその言い草か。体中の血が暴れて、怒りでどうにかなってしまいそうだった。それとともに魔力も高まり、溢れ出しそうになる。


 この年齢まで結婚できなかったのは、聖女の仕事が忙しすぎたからだ。瘴気の浄化だの竜討伐でやっと落ち着いたのがここ最近のこと。

 気が付けば二十七歳になっていたのは、不可抗力というものだろう。


 聖女としての功績があってマーレの婚約者になった……けど、本当にどうでも良かった。

 どこか田舎に引っ込んで隠居生活でも構わなかったのだ。

 むしろそうすべきだったのかもしれないと、ニーアはいまさら思った。

 宮廷でも成り上がり者と陰口を叩かれ軽んじられている。


(……籠の鳥とは、このことね)


 運命の愛ではなくてもそれなりに誠実な結婚生活は出来ると思った。少なくても愛し合える努力は出来ると思ったのに。


 マーレは婚約者の年齢さえも覚えていないのだ。父である国王から押し付けられたとか思っていないのだろう。


 ……無理。


 こんなやり取りがずっとずっと続くだろうかと思うと、怒りが増してくる。生きる世界のあまりの違いにニーアはめまいさえしそうだ。


 元々、貴族的なやり取りはニーアには不向きである。竜討伐の折、歴戦の騎士から「暴走聖女」「最前線聖女」と呼ばれたくらいなのだ。

 正直、周囲からは「王妃や貴族なんて大丈夫?」と心配されたりもしたのだが。

 あまり気にもしなかった自分を、ニーアは大いに悔やんでいた。


 マーレはセレスの腰に手を回すとやれやれと言わんばかりに、


「全く、そんなに不機嫌そうにするな。序列への礼儀がなっていないぞ。セレスからも貴族の心構えを教えてやってくれ」

「ええ、勿論ですわ」

「結構です!」


 ニーアはついに切れた。髪の毛が逆立ち魔力が暴発しそうである。

 マーレとセレスがぎょっとして後ずさりするのがニーアにはわかった。

 聖女の魔力は桁外れだ。もし暴発すればどれほどの被害になるか。

 少なくても二人は大怪我するだろう。それがわからないほどマーレも馬鹿じゃない。


「待て、何をそんなに怒っているのだ……?」


 おそるおそると言った感じでマーレが言ってくる。

 ああ――この瞬間になっても、ニーアが何に怒っているのかわからないのだ。

 違う、あまりにも違いすぎる。

 目の前の二人とは決して分かり合えないだろうとニーアは悟った。


「セレスが何か無礼をしたのなら、私が代わりに謝ろう。だから、とにかく落ち着け。魔力を抑えるんだ」


 もう、うんざりだ。


 左手の婚約指輪を外したニーアは、それを右手できつく握り締める。

 魔力がどんどん高まり婚約指輪と右腕に集まってくるのを感じる。

 それは抑えきれない怒りが凝縮されていくような――そんな感覚だった。


 単純な魔力の放出であっても聖女となれば話が違う。

 何に怒っているか理解できなくても恐ろしいのだろう。マーレの顔色が目に見えて青くなっていくのがなんだか面白い。


「落ち着け、とにかく落ち着け……力を、魔力を抑えるんだ」


 もうどうでもいい! これを猛烈に投げ返してやりたい。

 衝動と血と魔力が体を駆け巡る。怒りのままにニーアは心の声に従った。

 思いっ切り右腕を振りかぶり、婚約指輪を床に投げ付ける。

 魔力を込めて――それは爆発を巻き起こした。


「ごふっぁ!!」


 マーレとセレなんとかが吹っ飛ぶのを見ながら、ニーアはすっきりした。

 ぴくぴく動いているので死んではいない。宮殿には魔法使いがいるので、死にはしないだろうとニーアは冷静に判断した。


「あなたなんて、こちらから願い下げです!」


 そこまで言い切って、ニーアは体に力が入らないのを自覚する。

 ありったけの魔力を放ったせいだろう。何度も経験があるからわかるのだ。

 魔力喪失――体内の魔力が底をつくと陥る状態である。頭痛、吐き気、気絶……命に別状はないが、不調に見舞われるのだ。


 たまらずニーアもぱたりと倒れる。

 そのまま意識が暗転していくのを感じるのだが――なんだろう。


 ニーアは不思議に思った。

 脳裏に浮かんでは流れ込んでる、この大量の記憶と風景は?


(日本……? あれ、この記憶って…………まさか前世?)


 止めどもなく記憶が溢れていく中、残念ながら考える間もなくニーアの意識は途切れるのだった。



 ♢


「……ここは……ああ、私ってば倒れたのか……」


 意識を取り戻したニーアはぱちくりと目を開けた。

 思いのほかすっきりとしている。体はどこも痛くもない。


 前世の記憶が脳内を駆け巡った後にしては、非常に清々しい気分。

 ……婚約指輪も投げ返して、溜飲も少し下がった。


 とはいえ、これからどうしよう?

 アステリア王国史に残る大事件だっただろう。自分はあんまり悪くないとは思ったが。


 絶対に面倒なことになるよなー、ずっと寝ていたいなー。

 いままでなら脇に追いやっていた考えがちらつく。

 どうやら記憶が目覚めた影響は早くも出ているようだった。


(前世は普通のインドア系OLだったしなぁ……)


 と、考え込みそうになってニーアは気付いた。ベッドの側に人がいたのだ。


「お目覚めですか、聖女様――ご気分はいかがですか? お体に問題はありませんか?」


 目を向けた先には、銀髪の貴公子が立っていた。


 淡い光を放つがごとき髪。陶磁器もかくやというほど白く美しい肌。吸い込まれそうなほど綺麗な深い海色の瞳――いつまでも見ていられそうな。


 ニーアはこれほど整った美形の青年は他に知らない。

 時間があればじっくりと鑑賞したいくらいだ。


 貴公子の装いは純白の衣、七色の小さな首飾り。この世界で特別な権力を持つ、高位の聖職者である。


 はて、どこかで会ったことがあったかな。ニーアは記憶を辿る。

 思い出した、けどきちっと最後に話をしたのは十年前。記憶とは大分異なっていた。

 昔も美形だったけれど、今はますます磨きがかかっている。


「もしや…………お久しぶりです。……フォルト様? ええ、体は本当に全然問題ないのですが……」


 ニーアの答えにフォルトはにこりと甘く微笑んだ。

 この世界で最も大きい国である、エンブレイス帝国の第二皇子にして教会の枢機卿。

 フォルト・エヴァーホーデン・エンブレイス。


「それならば良かった、この国を滅ぼさないで済みますね」


 ぽつりと声音を変えず言い放つフォルト。

 ……うん? なんか不穏当な台詞だったような。


 首を傾げる間もなく、フォルトは優雅にお辞儀をする。神々しくさえある所作であった。

 まさに絵になる男である。


「お迎えに参りました、聖女様――このような国など、あなたに相応しくありません」

「……ふぁっ!?」

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