友に捧ぐ
《2019年 一月 六日》
また新たな年が始まる。私は今年で七十……何歳だったか。恐らく妻が七十三なので、私は七十四か。確か妻とは一つ違いだった筈だ。
本日は第一日曜日。私にとって、この日は少々……特別な日だ。いつものようにグレーの背広に身を包み、もう何十年も前から使っている、同じくグレーのストローハットをかぶる。そして杖を持ち、玄関へと。
「貴方、また行くんですね」
「あぁ、友達に会いに行ってくるよ」
「私も連れて行ってほしいのに……いつもお世話になってるんだから、挨拶しないと」
「それは駄目だ。彼は恥ずかしがり屋だからね。目の前に素敵な女性が現れたら困ってしまうだろう」
またそんな風に誤魔化して……という妻の零す言葉を聞きながら、私は玄関から出て戸締りを。妻には悪いが、この第一日曜日はとある友人に会いに行く日なのだ。駅前から少し外れた、風情溢れるBARに。
※
その友人と出会ったのは、まだ私が町の役所で働いていた時だ。仕事帰り、何気なく寄ったBARのカウンターに彼は座っていた。最初は離れた席で一人寂しく飲んでいたが、彼から私に話しかけてきてくれた。その時の印象は、敏腕の銀行員……とでも言うべきか。知的で仕事の出来る男のように見えた。
『良かったら一緒に飲まないか。男じゃつまらないかもしれないが』
『いや……別に構わんが……』
ちなみにその男の本当の職業は高校の教師だった。学校では真面目ぶってるが、本当は酒とタバコ、そして女を愛する紳士だと言う。それを聞いて、私は思わず笑ってしまった。
『なんで笑うんだ。俺は真剣に……』
『いや、すまん……紳士にしては胡散臭い。それにあんたは真面目な顔をしているが、本当はそうじゃないと言いたいんだろう? だが別に酒と煙草は誰でもやる。女もだ。俺だって結婚してるし、妻を愛してる』
『あんた……真面目だな』
『いや、だから……お前と何が違う』
その指摘に、男は自分が言ってる矛盾に気が付いたのか爆笑しだした。真面目な顔をした男の笑い方は豪快で、こちらまで気持ちよくなってくる。
『いや、だが俺は真面目ではない。そういうあんたの仕事は? 待て、当ててみせる……』
男は俺の身なりを観察する。その時の俺の恰好は、仕事帰りの為に当然スーツ姿。ネクタイを緩め、左手には腕時計、そして薬指には結婚指輪が光っている。
『見た目……サラリーマンだが、少し違うな。その時計は……どこのメーカーだ?』
『さあ……妻が時計くらいしろと買ってきた物だから……俺はそういうの詳しくないし』
『成程。大方普段の服装も適当だろう。買い物に行く時は良くてトレーナーにジーパン……違うか?』
『あぁ、その通りだ。どうして分かった?』
男はウィスキーを一口やりながら、煙草の煙を漂わせる。ちなみに俺も煙草を吸っていた。妻にはやめろと常日頃から言われているが。
『あんたは妻の尻に敷かれるタイプだ。家計にも口を出さず、ただ黙々と仕事を熟す。しかし子供はそれなりに可愛がってて……あー、子供居るか?』
『あぁ、今年で高校二年生になる娘が一人……』
『反抗期は過ぎたか?』
『そうだな。最近ようやく妻と一緒に家事を熟してくれるようになった。俺は相変わらず蚊帳の外だが……』
それが俺の職とどう関係があるのか。男は眼鏡を直しながら、相変わらず俺を観察し質問攻めにしてくる。
『何処の高校だ?』
『県立の普通高だ、ほら、ここから二駅先の……』
『あぁ、桜か。そこはいいぞ。美人教師が揃ってる』
一体何の話だ、と思う俺に対し、男は煙草の火を消しながら数回頷くと
『分かった。アンタ……この町の役所で働いてるな?』
『凄いな、なんで分かったんだ?』
男は残りのウィスキーを煽ると、そのままそろそろ帰る、と言って立ち上がってしまった。
『何で分かったかは……そうだな、その内教えてやる。俺は第一日曜日には必ずここに来ることにしてる。気が向いたら……また飲もう』
そう言い残して、男は去っていった。ちなみにその日は平日の火曜日。しかも第一日曜日などとうに過ぎていて、男と再会するのはしばらく先だと、俺は少し寂しい気持ちになった。
※
家から十五分程度歩き、そこからバスに乗り駅前へ。そしてさらにそこから十分程歩くと例のBARが見えてくる。時刻は午後八時半。BARの扉を開け中に入ると、そこにまだ友人の姿は無い。
「いらっしゃい」
渋いマスターの声に軽く手を上げて答え、そのままいつものカウンター席へと。
「いつもの?」
「あぁ、頼む」
マスターは手際よくウィスキーのロックを私の前に出してくれる。そういえば前に居たバイトの姿が見えないな。
「マスター、あの可愛い狸と若い青年はどうした?」
「あぁ、最近新しくBAR始めた知り合いからヘルプ入ってね。そしたら若い子はそっちの方が良いみたいで……取られちゃったよ。まあこっちはそこまで客入らないしいいんだけど」
「ははは、何処の世界も若者は新しい物に取られるな。マスターもそろそろ……ゆっくりしたらどうだ」
「あんたのお迎えが来たら考えるよ。今じゃあウチのリピーターはあんたと……その連れくらいだからな」
笑いながらウィスキーに口を付ける。マスターの言う通り、店の中は閑古鳥が鳴いていた。それでも頑張ってくれるマスターの心遣いには言葉が無い。
「ところで遅いな、あの人。いつもはあんたより早く来てるのに」
「そうだな。まあ、奥さんに叱られているかもしれんな」
そんな話をしながらマスターと笑っていると、来客を知らせるカウベルが店の中に響いた。私はてっきり彼が来たのかと思ったが、そこに立っていたのは……どこか彼の面影がある若い女性だった。
その女性は店の中を見渡し、彼が来たと思って振り返った私と目が合うと、深々とお辞儀をしてくる。そのまま私の隣へと来ると
「あの……佐伯さん……ですか?」
「あぁ……そうだが……」
「祖父から……伝言を預かってきました……」
マスターも私も、その時悟った。この女性が何を言いに来たのかを。
「実は先日……祖父は……くも膜下出血で亡くなって……」
「そう……か」
我ながら冷たいだろうか。友人が亡くなったというのに、何か特別な感情が浮き上がっては来なかった。そういえば、友人といっても彼と会っていたのはこのBARだけだ。私は彼の事を、そこまでよく知らない。孫が居ると言う話は聞いていたが。
「それで……祖父は自分の死期を悟っていたのか……私に……伝言を」
そのままその女性……名前は涼と言うらしい。涼は私へと、彼の伝言を伝えてくれる。
「えっと……あっちで先に、いい店を探してる……って」
その時、初めて涙が出た。このBARで彼と一緒に過ごした日々が、蘇ってくる。
気持ちのいい笑い方をする男だった。真面目なくせに、自分は真面目じゃないと頑として譲らなかった彼の言動が、今も耳に届いてくるようだ。
「そうか……ありがとう、知らせてくれて」
「いえ……あの、もっと早くお伝えすべきと思ったんですけど……祖父から、ここに第一日曜に行けば会えるとしか聞いてなくて……」
相変わらず真面目な奴だ。孫に余計な手間を取らせたくなかったんだろう。だが彼は否定するんだろうな。ただ面倒臭かっただけだと。
「マスター、すまない。もう一杯……彼の分も頼めるかな」
マスターは無言で、彼がいつも頼んでいた銘柄のウィスキーのロックを作ってくれる。
「あの、私も同じの……お願いします」
彼の孫、涼はスーツ姿。見た限り……OLだろうか。いや……
「君は……もしかして教師か?」
「ぁ、はい。よくわかりましたね……」
そうか、彼と同じ職に就いたのか。そういえば、とうとう聞けなかった。彼と初めて会った時、何故私の職を当てられたのかを。結局あれから上手く誤魔化されて……。
「そういえば……祖父が、貴方の職を一発で当てた理由も教えてやれって……」
「……? あぁ、そうだ、それは聞きたいな」
「その……祖父がその時担任をしていたクラスに、貴方の娘が居たからって……なんだかそっくりな男がカウンターで飲んでいたから、つい声をかけてしまったって……言ってました」
その時、思わずマスターと一緒に背中を揺らしながら笑ってしまう。
そんな事だったのか。私の職を当てる事を出来たのは。
そのままカウンターに置かれた彼のウィスキーへと、私達三人は乾杯する。
私達の……友へと。