5(冗談)
「まさか」町村は笑った。「ご冗談でしょう? この私を? センパイが?」
「だって頼れるのあんたしかいないもん」認めるのはシャクだが。
「いいですよ、ぶっちゃけて」
「ほんとなら頼みたくない」
「なら仕方ないですね」
まぁそうだな。
茉莉も納得する。
もしかしたらどこかで言訳を探していたのかも知れない。
できることとできないこと。
己の身の丈、そして自分だけのルール。
ところが、次に町村が口にした言葉に驚かされる。「やってみましょうか?」
後日、二人は廊下の曲がり角から顔を出し、それを確認した。
「見える?」
「センパイは? 何が見えます?」
「黒くて……ちっちゃい、なんか、」
「なんか?」
ちょっと口にするのは憚られた。
茉莉の家の菩提寺に飾られていた絵によく似たモノがあったからだ。
大きな頭と、ひょうたんのように膨れた腹部。ひょろ長い手足はまるで枯れ枝のように突き出していて──「餓鬼、みたい」
「なるほど」
「あんた、見えてない?」
「似たようなものを見てるとは思いますが同じモノであると云う確信はありません」
「あんたって廻りくどいって云われない?」
「面倒だ、とは云われたことはありますね」
それはそれで些か同情した。が、特に町村は気にした風でもなく。「らしいと云えばらしいですね、餓鬼」
廊下で生徒と談笑している高橋教諭の腰に、それはしっかとしがみついていた。
もやっとした黒い蔭でありながらも、姿形は確かに餓鬼としか云いようがない。
目も鼻も、口も分からないけれども、ヒトのようでヒトでない。
もしそれが肩の上とかだったのなら、こんなに気に揉むこともなかったろう。
ましてや一年に相談するだなんて。
しかし妊娠しているその人の腰となると、穏やかならない。
加えて相手が担任となれば──自分に課した禁忌を破るには充分な理由だと思う。
「今なら間に合いますよ」
その日、ふたりしてまた学校近くのファストフード店に寄った。
「あんたも見たでしょが」
「気のせいです」
今更かよ。憤然とした気持ちになった。「どうにかできるんでしょ?」
「確約なんてしません。努力はしますが結果は別です。何があっても責任持ちません」
「何が起きるって云うのよ」
「因果ってのは存外厄介なモノでしてね」
「先生が何をしたって云うのよ!」
思わず声を荒らげてしまったが、町村は気にした様子もなかった。
「何をしたか何をしなかったかが問題でなく、生きている以上、何かが起きるものです。そしてそれが面倒ごとになるのはままあることです」手にしたコーラのカップを振りながら続けた。「貰い事故とでも云いましょうか」
分かりますよね、と町村。
分からない、と茉莉。「あんたのお得意はひとを煙に巻くことなんでしょ」悪趣味なヤツめ。
町村は薄く笑った。「そう思いたければ」
この問題児が。
けれどもその問題児に話を持ちかけてしまったのは他ならぬ自分だ。
「センパイ」町村はついと顔を外に向けた。「ツーぺーってきいたこと、あります?」
茉莉の言葉を待たず、町村は続けた。「差し引きゼロですよ、善かれ悪しかれ」
「ちょっと待って」
「はい、何か」
「なんでツーペーになるの? 何もしてないのになんで払いだけ要求されるの?」
「何もしていない?」町村は視線だけを茉莉に向けた。「何も? 何もしていない?」
「そうよ。どっかに貸しでもあるとかなら──、」
「生きるだけで借金は増えるものなんです」
きっぱり、云い切った。茉莉は口を開きかけ──しかし、つぐんだ。
町村は視線を再び外にした。「だからわたしたちは日々善意ある生き方と云うカタチでその返済に追われているんです」
「……その善意、手伝ってよ」
すると町村は、わざとらしくため息をついてみせた。「致し方ないですよね。たとい泥でも船は船。乗り掛かった船は船。センパイ、情けはひとの為ならずって言葉、ご存知ですよね」
「巡り巡って自分の為でしょ」
「考えを改めるよう説得する気はありませんし、センパイもそのつもりはないでしょう。けれども誤用が適切な事もあるってこと、忘れないでくださいね」
町村は黒髪の下で目を細める。
どうやら笑ったらしい。
「善意を質草に、何を得るんでしょうかねぇ」
特に誰にきかせる風でもなく、町村は云った。




