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箱の中  作者: 夏瓜 竹海
2/9

2(困った子)

 面食らった。


 しかし名前を間違えられたのが余計に腹立たしく「違うわよ」思わずきつい口調になってしまった。


 すると黒髪の一年は額に手を宛て、むぅーと考えこみ「横溝……横川……いや米田?」


 この子、どこかで遭遇したっけ?


 茉莉に思い当るところはなかった。

 しかし向こうは知っているようだ。あまり気分の良いものでない。


 不意に一年はひらめいたとばかりに「横田さん!」

 びっと指さしてきた。


「そうよ」何この子。


 すると、あっ、とばかりに一年は頭を下げた。

「町村です」黒髪が制服の肩の上を滑った。「町村志織。一年B組」


 かなりどうでもいい。「何か用?」


 しかし町村は。「いえ」悪びれた様子もなく。「いずれまた」ではー、と初対面らしからぬフランクさ。

 上履きスリッパで不揃いなリズムを鳴らしながら歩き去った。


「どうかしたの?」


 背後から声をかけられ振り返ると、そこに担任がいた。


 担任の高橋こずえ教諭は茉莉の肩越しに視線を投げ、「町村さん?」


「知ってるんですか?」一年デスヨ?


 すると担任は苦笑した。「困った子なの」


 なるほど。

 その一言で納得した。

 問題児か。

「校舎のガラス割ったり原付盗んだり?」それで職員室に呼び出しか。


 しかし担任はあはっと破顔した。「あなた年、幾つよ」


「十五でないのは確かです」


 担任はお腹を抱え、ますます楽しげに笑った。

 あけっぴろげで嫌味がなくて。

 茉莉は自分がこの担任の笑顔が好きなのだと改めて思った。


 数学担当の高橋先生は三年の高校生活でいっとう好きな教師だった。

 春先に貼り出されたクラス分け名簿、昨年に引き続きその名前を見つけ、嬉しく思った。


 また高橋先生のクラスだ。


「三年生を受け持つのは初めてだけど、よろしく」


 男女比の都合から些か変則的な名簿順、座らされたのは教卓真っ正面の席。

 茉莉はこの一年、席替えなんてなくていいと思った。


 ぼんやりとしか思い描けなかった未来を示してくれたのが担任だった。


 進学は念頭にあったが、その思いは漠然として、どこで何を学ぶか、どうしたいか、どうなりたいかだなんて、もやもやとしてちっとも形にならなかった。


 そんな茉莉が理学部を目標とし、最終学年に進級する頃には数学か情報の二択としたのは、多分に担任に負うところが大きい。


 放課後には殆どの教諭が職員室で自分の仕事をするのに対し、担任は教室で仕事をしていた。

 部活顧問でないのも幸いだった。

 自分の仕事もあったろうに、その気のある生徒が訊ね来ると、その場で黒板を使って補習としてくれた。


 数学部と誰かが評した。

 茉莉は部員になった。


 もともと数学は嫌いでなく、得意だった。

 しかし二年に上がってそれは急に難しくなって立ちはだかった。

 目前に迫った中間試験が散々なことになるのは予感ではなく確信だった。


 後々のことも思い、別段強い理由で選んだわけでない理系だったが、すでに後悔していた。

 通学途中にある予備校の看板がやけに目に付いた。


「数学は、きれいなものを探す為の学問」


 或るとき、授業で担任がそんな話を始めた。

 手にしたプリントを持って、「知ってる人もいると思うけどね、A4は横が二一〇、縦が二九七。比率計算してみて」


 一対二の平方根。


 それから担任は黒板に変な直方体の絵を書いて、それぞれの辺に一、四、九と数字を振った。「みんな映画好きかな。モノリスの三辺の比率は一、二、三の自乗」


 人類は二〇〇一年を過ぎても有人で木星へは到達できなかったと笑った。「あの映画に出てくる人工知能のハル、H─A─Lのアルファベットを順に後ろに一個ずつずらすとIBMになるも有名な話よね」しかし、あれっと変な声を出した。「反応薄いなぁ」


「微積だの代数だのがどう役に立つか分からないんで」ひとりの男子が、茶々を入れた。


 けれども担任は「そうだよ」にっこり笑った。「数学なんて勉強しなくていいんだよ」


 しん、と教室が静まった。


「算数が分かっていれば上等。四則算のほうがよっぽど大切。読み書き算盤ってね。代数幾何微積分なんて貴族のお遊び」親指と人さし指で丸を作って見せた。「お金がないならおすすめしない」

 それから自分で作った指の丸をしげしげと見つめて云った。


「ドーナツとコーヒーカップが同じって云われたら信じる?」


 担任は教室を見渡すと授業に戻った。


 後日、茉莉は数学部の終わった後で帰宅の準備をしながらふと、担任に訊ねた。


「先生、数学って何処に行くんですか」


 すると担任は嬉しそうに、あら、とか云う。「面白いね。何の役に立つのかは訊かれたことは何度もあったけれども、行き先を訊ねられたのは初めて。あなたはどう思う?」


 茉莉は鞄を手にして、ちょっと考え「42ですか」肩をすくめた。


「さよなら、いままで魚をありがとう」


 二人は顔を見合わせ、「パニくるな("Don't Panic")」


 見事に声が重なった。

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