妖魔は女主人に傅く
ビューロー家の馬車がアンキエール通りの入口で停まった。大通りから流れ出す通行人の群れに進路を妨げられているらしい。懐中時計にちらと視線をやったマリエルは嘆息し、座席から身を乗り出して御者に声を掛けた。
「ここまででいいわ。一時間後に迎えをよこして」
御者が慌てて引き止めるのも構わず馬車を降りる。雑踏に紛れ込んでしまえばもう誰もマリエルに注意を払う者はいない。ただし彼女の頭の上にとまっている小さな羽虫を除けば、だが。
(ああ、マズいなぁ、これはとってもマズい)
ラスタバンは栗色の髪にしがみついて独りごちた。彼が何もしなくてもマリエルが勝手に進んでくれるのはありがたい、大変快適だ。しかし時折誰かと体がぶつかって大きく揺れたり、背の高い人間の肩がほんの数センチ先を掠めていったりするのはいただけない。か細い虫の脚で必死にしがみつくラスタバンにとってはどれも致命傷になり得る。
(監視には適してるだろうけど、こんな情けない姿で潰されて死ぬのは御免だね)
春から夏へ移り変わるこの時期、王都の周辺では夕方から夜にかけて強い風が吹く。現に今もそれなりの勢いをもった空気の流れがマリエルの髪をなびかせ、ラスタバンの足元を危うくさせた。羽虫に汗をかく機能があるのかどうかはさておき、ラスタバンの心情としては冷や汗が滲む危険な綱渡りだ。
風にさらわれないよう全身の力でしがみつき続け、十分以上は経っただろうか。不意に気流がぴたりと止まるのを感じる。どこかの建物の中に入ったということだろう。ラスタバンは慎重に羽を動かしてマリエルの頭から離れ、建物の中を見回すために上空へと浮き上がった。
眩しい。一番最初に頭に浮かんだのはそれだ。見れば壁と天井の境に白い光球がいくつも浮かんでいた。蝋燭ではなく魔術で光源を確保出来るのはそれなりの大店に限る。眼下の陳列棚に並ぶのは目的別に分類された護符、魔法陣用のチョーク、革表紙の呪文集。その他ありとあらゆる魔法に関わる品々だった。
(魔術用品店かねぇ。それもかなり儲かってるらしい……客も身なりがいいし、売り子にも教養がありそうだ。しっかしわざわざ寄り道してこんな店とは、人間の若い女は宝石や甘い物が好きなんだと思ってたのになぁ)
ラスタバンが埒もないことを考えながら宙を飛び回っているうちに、マリエルの姿は売り場の奥まった場所へと移動していた。棚の隙間にひっそりと「関係者以外立ち入り禁止」と金文字で彫り込まれた扉がある。ところがマリエルは特に迷う素振りもなくドアノブに手を掛け、中へと身を滑り込ませた。慌ててラスタバンも後を追う。
扉の向こう側は何のことはない、商品の在庫を置いておくバックヤードであった。趣味の良い木製の棚に商品が少量ずつディスプレイされていた店頭とは違い、積み上がった木箱の中に乱雑に商品が放り込まれて山を築いている。通路と呼べるかどうかも怪しい木箱の間をかいくぐり、マリエルはどんどん前へ進んで行く。部屋の突き当たりにはまた同じような扉があるが、今度は目もくれずに右手の冷たいレンガ造りの壁を目指す。
「……マリエル・ビューローよ。開けて下さる?」
馬車を降りてからここまで一言も喋らなかったマリエルが唐突に口を開いた。それも灰色のレンガ壁に向かって、である。普通の人間は壁に話し掛けたりしない。そして普通の壁はそれに反応を返すこともない。だから、マリエルの言葉に従って壁の一部がゆっくりと口を開けた時、羽虫のラスタバンは危うく空中で変化の術を解いてしまいそうになった。羽の先から彼の本来の姿たる黒っぽい霧が一筋立ちのぼる。危ういところでどうにか平静を取り戻し、ドアのように四角く口を開けた入り口――または出口に向かって宙を突き進んだ。
(……こっちが本命か)
もしも今彼が人間の姿だったなら口笛を吹き鳴らしたことだろう。それほどに目の前に広がる光景は意外なものであった。毛足の長い絨毯を敷き詰めた広い廊下がずっと向こうまで続いている。その両脇には凝った装飾が施された扉がずらりと並んでいる。天井から吊り下がるシャンデリアには魔術の光が灯され、壁のところどころには油絵の額縁さえ飾られている。内装の趣味はどうあれ、間違いなく金のかかったインテリアだ。もしかするとベルトワーズ公爵家の屋敷に匹敵するかもしれないほどに。
しかし中からレンガの壁を開けた人物は見当たらない。絢爛豪華な廊下に立っているのはマリエル一人のみで、ラスタバンはその後ろで8の字飛行を試みている。
(ははぁ、廊下をこうも飾り立てる奴ならルシールの持参金ぐらいポンと出しちまうかもねぇ。ここまで来たら黒幕がどこの誰だか顔でも拝んで帰るかな)
ラスタバンは誇り高き妖魔であって、決してけちなスパイなんかではない。早いところ黒幕の尻尾を掴んでのんびり昼寝でもしたいというのが本音だった。廊下を歩き出したマリエルの後ろにぴったりついて曲芸飛行を繰り返す。左右交互に並ぶ扉は彫刻の意匠が一つ一つ異なっている。一角獣、百合の花、幾何学模様、長い髪のドライアド……マリエルが選んだのはブドウのつるの文様が刻まれた扉だ。彼女は自分がかろうじて通り抜けられる程度に細くドアを開き、素早く隙間に身をくぐらせ、後ろ手にドアを閉めた。上機嫌に飛び回る羽虫の目の前で、間一髪無情にも道が閉ざされた。
「……ありゃ」
あまりにも間抜けな失態だった。思わず自分が虫であることも忘れて声を出した。調子に乗ってアクロバット飛行など楽しんでいなければ容易に潜り込めたはずが、このざまである。どうやってこの扉の中に入ったものか、急ごしらえのスパイは頭を悩ませた。
(扉に隙間はない、鍵穴もない。となると、適当な人間になりすまして中に入るしか……)
幸運なことに暗黒と呪いを司る妖魔の神は彼を見放してはいなかったらしい。廊下の向こうからティーセットの載った盆を捧げ持ってメイドが歩いてきたのである。ラスタバンはれっきとした男の妖魔で、茶を運ぶメイドは中年の女性だったが、この際そんなことは言っていられまい。ラスタバンは喜色満面、放たれた矢のごとく彼女に向かって飛び立った。