悪事の香り
「おはようございます、ルシール様」
「おはよう、皆様」
ルシールは貴族の子女が通う王立学院の生徒である。この学院ではそれぞれの身分に関係なく、全ての生徒が平等な立場で教育を受ける――表面上は。実際には家格や爵位を無視することなど出来るはずもなく、公爵家の中でも最上位にあるベルトワーズ家の令嬢に対しては誰もが一歩引いて恭しい態度で接さざるを得ない。鞄持ちの名目でラスタバンを連れ歩いていても文句を言われないのはそのおかげと言えた。
「……おはようございます」
正門から校舎の中へと向かう道すがら、視界に入る女生徒達が皆一様に足を止めて挨拶をする。同じ制服に身を包み、同じように頭を下げる彼らそれぞれに独立した人格があることが不思議すら思える。うんざりするほど見慣れた景色の中、ルシールは見覚えのある豊かな栗色の巻き毛に目を止めた。
「あら。ご機嫌麗しゅう、マリエル様」
一夜ぶりのマリエル・ビューローがそこにいた。ルシールを見やる淡いブルーの瞳はどこまでも穏やかで、昨夜見た敵意に満ちた眼差しが嘘のようだ。
「ルシール様に一言お礼を申し上げたくて、ここでお待ちしておりました」
「お礼? 何のことかしら」
さしものルシールも怪訝気な顔をする。昨夜フェリクス王太子とマリエル・ビューローに大恥をかかせた彼女である。恨まれこそすれど礼を言われる筋合いなどない。周囲の生徒達も昨晩の事件は承知しているのだろう、それぞれの会話に興じているふりをしながら、二人の令嬢のやり取りにじっと耳を傾けていた。
「ルシール様は私とフェリクス様のために身を引いて下さるとおっしゃいました。その高潔なお心にお礼を申し上げたいのです。たとえ……たとえ、婚約破棄が大変困難なことであろうとも、ルシール様のお気持ちを拠り所に私は待ち続けてゆけます」
ルシールの唇がにっこりと弧を描く。これは紛れもなく宣戦布告だ。婚約破棄に応じるというのが単なるブラフだと気付いてなお、それを場に引っ張り出すマリエルの度胸には賛嘆の念すら抱く。つまり彼女はこう言いたいのだ――「持参金を返せば婚約を破棄すると言った以上、その言葉は必ず守れ」と。
「大丈夫ですわ、マリエル様。フェリクス殿下は必ず約束を守って下さいます。きっとそれほど長く待たなくても済むのではないかしら?」
それに対するルシールの返答は極めてシンプル。すなわち「やれるものならやってみろ」だ。元より王太子に返済能力がないことはルシールが誰よりもよく知っている。この遠回しな挑発に乗ってやらない道理もない……と理性的に判断する思考とは裏腹に、彼女の金眼に好戦的な火花が走った。
「それでは失礼致します、ルシール様」
「ええ、今度は是非私の家に来て下さいな。ゆっくりお話がしたいわ」
女同士の迂遠な化かし合いに、ルシールの後ろに控えるラスタバンが薄い肩をすぼめてみせた。
◇ ◇ ◇
「ラスタバン、マリエル・ビューローを監視しなさい」
唐突にそう言い渡されたのがもう二時間も前のことである。
「監視? なんで?」
「今朝のあの言い方を聞いたでしょ。どうにかして持参金を返すつもりよ、あれは。でもビューロー家にそんな財産があるわけはないし、国庫から捻り出すのも無理。となれば、彼女が稼ぐ以外に方法はないわ」
「やんごとなき男爵令嬢が労働なんかするかねぇ」
「あのねぇ、子どものお小遣いじゃないのよ。本人が働いて返せるような額ではないの。短期間で巨額の金銭を用立てる……ねえ、悪事の匂いがするでしょう? 分かったら今日の放課後から彼女が屋敷に帰るまで、お願いね」
悪巧みをしている時が一番楽しそうなんだもんな、とラスタバンは胸中で呟いた。妖魔遣いが荒いにもほどがある、とも付け足す。彼は今小さな羽虫に姿を変えてビューロー家の迎えの馬車に張り付いている。変化の妖術はラスタバンが最も得意とするところだが、ずっとこの姿でいるのはあまり得策ではない。なにしろ一回叩かれれば死んでしまうような脆弱な体だし、人間ときたら羽虫とみれば別に悪事を働いていなくともすぐに追い払おうとする。なかなか校舎から出て来ないマリエルをじりじりと待ちながらラスタバンは前脚を擦り合わせた。
結局マリエルが馬車寄せに現れたのは三十分も経ってからのことだった。馬車の扉が開いた隙にこっそりと内部へ忍び込み、なるべく目立たない天井の隅に陣取る。ラスタバンとしては、座席に足を投げ出しぞんざいな態度で御者に目的地を告げるマリエルの姿だけで充分弱味になり得ると思うのだが、彼の主人はそれでは満足しないに違いない。
「屋敷に帰る前に商業区のアンキエール通りにやってちょうだい」
「御意に。しかしお嬢様、お屋敷に連絡を入れずとも良いのですか」
「いいのよ、面倒なお目付け役抜きで買い物がしたいの」
アンキエール通りといえば商業区の中でも一際活気のある大通りだ。通り沿いに商店がずらりと立ち並び、流行のドレスから僻地の名産品まであらゆる品物が手に入る。騎士団の詰所が近くにあるため治安も決して悪くない。少なくとも、貴族の令嬢がお忍びで寄り道するのに最適な場所だと思われる。
(こりゃ深読みしすぎかもなぁ。今朝のアレだってただの負け惜しみと取れなくもないし……さて、どうなることやら)
天井の隅で呑気に考える羽虫をよそにゆっくりと馬車が動き出した。