悪女は物思う
王宮の大広間から退出したルシールは長い長い廊下を歩いていた。毛足の長いカーペットに靴底が取られて歩きにくいが、その足取りは極めて軽い。彼女の機嫌の良さを物語っている。まだ夜会は始まったばかり、早々に退散する者もいないため周囲に人気はない。
大広間から10メートルも離れた頃に、ようやく侍従が追い付いてルシールの横に並んだ。異国人らしい浅黒い肌にカールした黒髪を持つ少年だ。年の頃は12、3といったところか。本来なら従者というものは主人の後ろをついて歩くべきであり、隣に並んで歩くなどもっての外である。少年はニヤニヤと締まりのない笑みを浮かべてルシールを見やった。
「ルシールって本当にさぁ、人間にしとくのがもったいない狡賢さだよねぇ。あの女の子の悪い噂を流したのも、持ち物を焼却炉に放り込んだのも、階段で突き飛ばしたのも、全部ルシールの指示じゃん」
「ラスタバン、声が大きいわ」
ラスタバンという名の少年は主人であるはずのルシールに敬意を表す様子もない。黒曜石のような、光を全く反射しないのかと思うほどに真っ黒な瞳が悪戯っぽくきらめく。対するルシールはつんと顔を背けた。
「そのくせ王子まで言いくるめちゃってさぁ?」
「あら、私の話を聞いていなかったの? 私は『やってない』なんて一言も言わなかったわ。皆が勝手に誤解したのよ。それに実行犯はラスタバン、あなたよ」
「はっはー、いいなぁいいなぁ、その図太さ! 本気で今すぐ妖魔の眷属になる気はない?」
「それじゃ契約と違うわよ。私が生きている間ラスタバンは私の手下、代わりに私が死んだらあなたの眷族になる。そういう約束でしょ」
「そりゃ分かってるけどぉ、実際今妖魔になってもルシールは何も変わんないじゃんか」
「うるさいわね、暖炉に投げ込むわよ」
「ごめんって」
もしもこの小気味よいやり取りを物陰で聞いている者がいたら、彼は間違いなくその場で卒倒したに違いない。光の神を熱心に信仰するアルバネル神聖王国では、妖魔は忌み嫌われる存在である。闇の加護を受けた異形の種族であり、怪しげな魔法で人心を惑わせて魂を奪い取る、おとぎ話に出てくる悪魔と似たような化け物だと信じられている。当のラスタバンに言わせれば「大体合ってるけど、悪魔なんかには太刀打ちできない。格が違う」と表現するだろう。
「それでぇ? あのバカ王子は婚約破棄するかなぁ?」
「まさか。そもそも国王の同意を得られるわけがないし、私の持参金を今日中に返せるとも思えないわ。今だってベルトワーズ公爵家の援助でどうにか回っているのに。私と王太子が赤の他人になれば我が家は間違いなく国の財政から手を引く。そうなれば後は破滅まで一直線よ」
「だよねぇ……そんなことも考えられないお粗末な頭だから、ルシールみたいな悪人に付け込まれるんだ」
間延びした口調とは裏腹にラスタバンの言葉は核心を突いていた。麗しのマリエル・ビューロー男爵令嬢に首ったけのフェリクス王太子は、盲目の恋に溺れてこの国の現状をすっかり失念しているようだ。
事の発端は先代国王の治世にまで遡る。戦争と美女をこよなく愛したプロスペル・ド・アルバネルは、めまいのするような額の富を侵略戦争と後宮の維持に費やした。それこそ宮廷が傾きかねないほどに。不幸なことに彼の軍才はその野心ほど強大ではなく、大小合わせて十数回にも及ぶ周辺国との戦争は良くて辛勝、悪くて大敗という惨憺たる結果に終わっている。プロスペルがその70年余りの生涯で浪費した金額について、当然ながら正式な発表はなされていない。しかし当時の財務大臣が深刻な胃痛に悩んでいたという情報だけは間違いないだろう。
現在の国王――つまりフェリクス王太子の父親が至尊の座についた時、彼に遺されていたのは気の遠くなるような負債の山であった。限界まで税率を引き上げられた平民の不満は爆発寸前で、実際に僻地では何度も暴動が起きる始末。財布の底をはたいて荒れ果てた農地に人を呼び戻し、産業に投資することでかろうじて財政を立て直した今代国王の政治手腕は実際大したものだと言わざるを得ない。
その賢王が息子の婚約者を選定するにあたって実家の財力を重視したのは当然のことだった。そして卓越した領地経営で莫大な財を築いたベルトワーズ公爵家、その令嬢たるルシールに白羽の矢が立ったのも。たとえフェリクス王太子が何と言おうと、この婚約が破棄されることはありえなかった。
「じゃあこれからどうすんの? あのマリエルって子、大人しく諦めるかねぇ」
「どうかしら。彼女もなかなかしたたかよ。少なくとも、私が撒いた噂をわざわざ大袈裟に改変して王太子に聞かせる程度にはね」
「よく言うよ、全部知ってて泳がせてたくせにぃ」
ルシールはまだ片手に持ったままだったシャンパングラスを歩きながら傾けた。中に残っていた黄金色の液体が慎ましい唇の中に流れ込む。
「どちらにせよ彼女には早く退場してもらわないとね。障害物をいつまでも残しておくのは得策とは言えないわ」
「……ねぇ、そこまでして結婚したいほどあの王子が好きなわけ?」
「まさか!」
ラスタバンの質問に対して返ってきたのは冷えきった嘲りの声だった。黄金の瞳が底意地の悪い光を帯びて輝く。
「そんなわけないでしょ。あんな温室育ちのバカ王子、これっぽっちも興味なんかないわ。私が欲しいのは時期国王の正妻の座だけ……そこに座って玩具で遊んでみたいだけよ」
「玩具」という言葉を口にして、ルシールはどこか陶然とした表情を浮かべた。少なくとも彼女の言う玩具が文字通りの意味でないのは明らかだった。邪悪な妖魔であるはずのラスタバンがあからさまに顔をしかめる。
「うへぇ、人間の欲ってのはどこまでもえげつないなぁ。妖魔の方がよっぽど高級な生き物だよ、実際」
「よく言うわ。私を見て面白がっているくせに」
今夜集まった貴族全員が一度にすれ違えるほどに巨大な正面階段を降りながら、天井のフレスコ画を見上げる。光の主神が初代国王に王冠を授けるシーン。もしも王座が神から与えられたものならば、それを奪い取るのはどれほどの罪になるのだろう? 馬鹿馬鹿しい、とルシールは内心で呟いた。彼女は神の存在を信じていない。この国の建国者は武力でこの地を平定したのだ。神から王権を授かったなど、単なる暴力の正当化にすぎない。
(それを謀略で乗っ取って悪いことなんかあるかしら? いいえ、あるはずがない。悪くたって気にしないわ。私は私のやりたいようにやるのよ、今までも……そしてこれからも)
ルシールが何を考えているのかラスタバンが分かるはずはない。妖術を操る妖魔といえども、読心術などという高等魔法は簡単に使えはしないのだ。ところがラスタバンは薄い唇を笑みの形に歪めてルシールを眺めていた。まるでお前の考えはお見通しだと言わんばかりに。
「……もう帰るわ、明日からのことも考えたいもの。すぐに迎えの馬車をよこしてちょうだい」
「はいはい。仰せのままに、未来の王妃様……いや、女王様、かな」
この妖魔もいつかは敵になるのだろうか。ルシールは空のシャンパングラスを紙屑のように放り投げた。緩やかな放物線を描いて落下したグラスが大理石の床にぶつかって砕ける。床に散らばったガラスの残骸には目もくれず、彼女はドレスの裾を引いて立ち去った。