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婚約破棄さえも彼女の舞台

「ルシール・ベルトワーズ、今この場をもってお前との婚約を破棄する!」


 華やかだった夜会の会場が水を打ったように静まり返った。ワルツを踊っていた紳士淑女が一斉に足を止める。楽団も演奏をやめて楽器を下ろす。誰一人として動くことも出来ずに固まる中、フェリクス王太子が一歩前に進み出た。自然と人垣が左右に分かれ、フロアの中央に開けた空間が出来上がる。


 アルバネル神聖王国の王家に代々受け継がれる鮮やかな金髪と、冷たいブルーの瞳。彫りの深い顔立ちと均整の取れた肉体を持つ、まごうことなき美青年であった。もっとも、今ばかりはその端正な顔も怒りに歪んで崩れている様子ではあるが。


「理由は分かっているだろうな、ルシール」


 淡い色の瞳の奥が怒りに燃えている。今宵の夜会に出席した気の毒な貴族達が震え上がる中、その苛烈な視線を一身に受ける少女だけが平然としていた。


 身の丈は女性の平均に頭半分も及ばない。王太子の肩にも届くまいと思われる童女のような体躯だ。しかし、燃え上がるような赤毛と勝気な金の瞳が何よりも雄弁に彼女の気性を物語っていた。精巧なビスクドールのごとき外見に悪魔的な性質を秘め、退屈しのぎに人の運命を弄ぶ悪女。それが少女――ルシール・ベルトワーズ公爵令嬢のもっぱらの評判である。


 今のルシールは右手にシャンパンのグラスを持ち、左手の掌を上に向けて腕ごと正面に突き出していた。つまり「何かをよこせ」のポーズだ。予想外の反応に王太子の眉が吊り上がる。


「……何だ、その手は」


「私と殿下の婚約は宮内省によって認可されたものです。それを破棄するとおっしゃるなら正式な届けを見せて頂かなくては」


「そっ……そんなものはない! お前のしたことを考えれば、そのような証書がなくとも婚約破棄が正当な措置であることは明白だ!」


 言い返しようのない正論が王太子の激情をますます煽った。ルシールの鼻先に人差し指が鋭く突き付けられる。黙って事の成り行きを見守っていた客たちの間にざわめきが広がった。ベルトワーズ公爵家といえばアルバネル神聖王国でも指折りの大貴族であり、長女のルシールが将来の王妃となる予定だったことは周知の事実。それが公衆の面前で婚約破棄を言い渡されたとなれば、彼らが驚きをあらわにするのも仕方のないことだった。


「私が何をしたというのです?」


 ところが婚約破棄を言い渡された当の本人は呑気にシャンパングラスを傾けて喉を潤している。


「あくまでシラを切るつもりか。……おいで、マリエル」


 途端に柔らかな表情を浮かべるフェリクス王太子の元へ歩み寄るのは、豊かな栗色の髪をアップにまとめた令嬢。精一杯にめかし込んだ貴婦人で溢れるこの場所では決して目立ちはしないものの、野の花のような可憐な佇まいの少女だ。マリエルと呼び掛けられた少女は、控えめに王太子の一歩後ろで立ち止まり、大きな瞳を悲しげに伏せた。


「お前はマリエル・ビューロー男爵令嬢に醜い嫉妬心を抱き、彼女にあらゆる嫌がらせを働いた。それが罪でなくて何だと言うのだ?」


「嫌がらせ、と申しますと? きちんと説明して下さらなくては、私には何のことだかさっぱり分かりませんわ」


「まだ言うか! いい加減に観念したらどうだ、ベルトワーズ公爵家の名が泣いているぞ!」


「身に覚えのないことを認めるわけには参りませんもの」


 フェリクスとルシールの問答はなおも続く。とうとう腹に据えかねたフェリクスがルシールに詰め寄り、彼女のシャンパングラスを奪い取るかと思われた時、今にも泣き出しそうなマリエルの声が広間に響いた。


「フェリクス様、もうやめて差し上げて……」


「……マリエル」


「もういいのです、ルシール様に悪気はなかったのです。私の悪い噂が流れたのも、私の持ち物が捨てられていたのも、階段から突き落とされかけたのも……きっと私の思い違いですわ。だからそんなにルシール様を責めないで。私はちっとも怒ってなんかいません」


 さめざめと涙を流しながら語るマリエルの姿に同情の視線が集まる。フェリクス王太子は彼女を優しく抱き寄せ、厳しい表情でルシールを睨みつけた。


「彼女にここまで言わせて何とも思わないのか!? お前には人の心がないようだな」


「お言葉ですが殿下。マリエル様に関する噂の出どころが私だという証拠はあるのですか? 彼女の私物を捨てたのが私だという証拠は? 階段から突き落とされそうになったのなら、背中を押した人物の姿ぐらい見ているのではなくって?」


「お前以外の誰にそんなことをする必要がある!」


「……あら」


 ルシールの黄金の目がすっと細くなる。


「それは私が殿下とマリエル様の仲に嫉妬していたという意味ですか? でもおかしいですわね、殿下の正式な婚約者は私。それをマリエル様が知らないはずはありません。婚約者のいる男性に色目を使えば反感を買うのは当たり前でしょうに」


「そんな言い方……! 私はただ、フェリクス様を尊敬しているだけです!」


「あら、そう。では殿下が悪いのですね。私という者がありながら他の女性と親しくなさるなんて……あまつさえ、そこまで想う女性をつまらない嫌がらせから守ることも出来ないだなんて、随分と情けないことだわ」


「言うに事欠いて、俺を愚弄するのか!」


 いまや会場中の全員がルシールを見つめていた。憤慨と、憎悪と、嫌悪の視線。それらを小さな身体で全て受け止めてルシールは笑ってみせた。初めは牙を剥く獣のように獰猛に。それから次第に弱々しく、伏し目がちに。


「……これだけ言えば気も済みましたわ。いいでしょう、私達の婚約はなかったことに致しましょう。殿下のお心はマリエル様にあるのですから、私がそれを縛り付けることなど出来はしません。私の気が変わってしまう前に……今すぐにでも」


 会場のどよめきが一際大きくなる。ルシール・ベルトワーズ公爵令嬢が大人しく身を引くなど、誰も予想だにしていなかったのだろう。中でも最も驚いた顔をしているのはフェリクスだった。眉間に深く刻まれていた皺が失せ、先程までルシールを怒鳴りつけていたことを恥じるような素振りさえ見られる。


 そもそも婚約者を持つ身でありながら他の女性に心を移したのはフェリクスの落ち度である。すっかりしおらしくなったルシールを見るうちに、怒りで吹き飛んでいたフェリクスの理性が戻ってきた。愛する人に危害を加えたとなれば怒るのも無理からぬことだが、そもそも証拠のない罪で人を裁くことは出来ない。いくら甘やかされて育った王太子とはいえその程度の分別は持ち合わせているらしかった。


「ルシール……君の名誉は守られるだろう。この件に関しては一切の口外を禁ずる。俺が先走りすぎたのだ」


「いいえ、お気になさらないで。……つきましては、私の持参金を全額耳を揃えて返却願います。今日中に」


「え?」


「え?」


 何かおかしいことでもあっただろうか、とばかりにルシールは首を傾げてみせた。寂しげな笑みはなりを潜め、代わりにせせら笑うような冷笑がその顔を飾る。


「当たり前でしょう? 私が王家に輿入れすることはなくなったのですから」


「いや、しかし……それは俺の一存では……」


「ええ、ええ、存じ上げております。昨年の凶作で麦の値段が随分と上がりましたものね。国民を飢えさせぬよう国庫を開いた国王陛下のご判断は紛れもなく素晴らしいものでしたわ。けれどそれとこれとは別の話。持参金の返却が出来ないのなら婚約を破棄するわけにはいきません」


 一度は収まりかけていたどよめきが再び大きくなり始めた。果たして王家に渡されたルシール・ベルトワーズの持参金とはいかほどの額だったのか。そして不作からくる財政難に喘ぐアルバネル王家はそれを全額返却することが出来るのか。下世話な話題ほど人の心を掴むものだ。あっという間に広がった囁き声は次第に熱を増し、やがてこの一幕が演じられる前のように陽気な賑やかさへと発展する。もう誰も立ち尽くす王太子とその新しい恋人のことなど気にとめていなかった。


「それでは殿下、ごきげんよう。決断はお早めにお願い致しますわ。私だって婚期を逃したくはありませんから」


 呆気に取られるフェリクスとマリエルの前でルシール・ベルトワーズ公爵令嬢は優雅に身を翻し、堂々とした態度で大広間から退出して行った。その後ろを彼女の侍従が小走りに追い掛けて行き、重々しい音を立てて扉が閉まる。


 ここにいる者達は誰一人として気付いていなかった。婚約破棄を言い渡す王太子と言い渡されるルシールの力関係がいつの間にか逆転していたことに。ルシール・ベルトワーズがこの舞台の主役となり、この場の空気を思うまま支配していたことに。

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